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「上皇」を歴史的に振り返る 専制と形骸化、変転した院政

後水尾上皇が築いた修学院離宮。上・中・下の三つの離宮があり、その間には田畑が広がる。歌会や茶会などが催された=京都市左京区

 間もなく上皇が登場する。現天皇は、四月三〇日に退位し上皇になる。天皇の生前退位は、一八一七年に譲位した光格天皇(一七七一~一八四〇)以来約二〇〇年ぶりである。光格は譲位後、新天皇から太上天皇の称号を、辞退と慰留という慣例の手続きを経て贈られた。上皇は太上天皇の略称で、院あるいは仙洞(せんとう)、出家すると法皇と呼ばれた。なお、今回は上皇が正式称号という。光格上皇は一八四〇年に亡くなったので、なんと約一八〇年ぶりに上皇がいることになる。皇位継承や改元などとともに、上皇を歴史的に振り返ってみる絶好の機会である。

 天皇は終身在位だったが、六四五年の皇極から孝徳への譲位が生前退位の始まりで(異論あり)、上皇は、六九七年に持統が文武に譲位(初の譲位との説あり)し、太上天皇になったのが最初である。それ以降、女性上皇らが若い天皇を後見し国政上に権力をふるったが、幼い天皇の母后と外祖父ら摂関家が、外戚関係を使って権力を握る摂関政治になった。

日本一の大天狗

 摂関家が外戚関係の構築に失敗すると、上皇が幼少の天皇の父、祖父として国政をとる院政が、一一世紀末に四三年も上皇だった白河上皇から本格化する。白河、鳥羽、後白河、後鳥羽を中心に、最新の学説を踏まえて院政の歴史を叙述したのが美川圭『院政』である。院政とは、上皇が天皇選定権を握り、それをテコに朝廷の人事権も手中に収め、太政官を中心とする政治行政機構を動かす政治という。保元・平治の乱や源平争乱、平氏政権や鎌倉幕府の武家権力の伸長のなか、なお国政の主導権を握り専制的な院政が続いた。しかし、承久の乱に敗れ天皇選定すら自由にならない事態に追い込まれ、それ以降、院政は形骸化しながら断続的に続き、江戸時代後期の光格天皇で幕を下ろす。
 数多い上皇のうち個性溢(あふ)れる二人を扱ったのが、遠藤基郎『後白河上皇』と熊倉功夫『後水尾天皇』である。遠藤は、三〇余年も院政をしいた後白河天皇(一一二七~九二)の波瀾(はらん)万丈の生涯を鮮明に描き、小品なのも相まって読者が人物像を結びやすい。遊興に耽(ふけ)っていたが思いがけず即位したためか、来日宋商人を拝謁(はいえつ)させるなど(九条兼実はこれを「天魔の所為」と批判)常識や社会通念にとらわれず、追討令を出して源頼朝から「日本国第一の大天狗(てんぐ)」と非難され、「暗主」と揶揄(やゆ)されながら、芸能民らとも交わり今様を『梁塵秘抄(りょうじんひしょう)』に集大成した。武家政権の幕開けに、「狂言回し」の役割を果たしたという。

寛永文化を牽引

 熊倉は、譲位すらできないほど零落した戦国時代から、信長、秀吉、家康ら天下人の庇護(ひご)をうけて再生した朝廷のなかにあって、江戸幕府ときり結びつつ幕府との軋轢(あつれき)を避けて存続を図る、江戸時代の天皇・朝廷のあり方を定着させた後水尾天皇(一五九六~一六八〇)を描く。五一年の院政の間、公家のみならず地下(じげ)者(下級官人や庶民)も含む和歌、連歌、立花、茶の湯などのサロンを主催し、寛永文化を牽引(けんいん)者として花開かせた上皇の行動を叙述した古典的著作である。
 現天皇は、高齢により天皇の役目を果たせないと語りかけた。歴代天皇の多くは病気、体調不良により務められないと譲位を望み、江戸時代の天皇は、在位中は「聖なる玉体」ゆえに灸治(きゅうじ)などによる療治すら許されないと訴えていた。多くの天皇が、苦労が多く窮屈な天皇より自由な立場の上皇になることを望んだ。今回の譲位に通じるところがあろう。杞憂(きゆう)だろうが、かつて上皇は太上天皇の略称で「天皇」だったので、権威と権力を帯びたことには留意する必要があろうか。=朝日新聞2019年3月23日掲載