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作家の読書道 第204回:上田岳弘さん

4人きょうだいの末っ子

――いちばん古い読書の記憶から教えてください。

 やはり絵本ですね。僕は4人きょうだいの4人目なので、家に絵本がいっぱいありました。三角形の帽子をかぶった盗賊みたいな三人が並んだ表紙の...『すてきな三にんぐみ』でしたっけ。それとか『モチモチの木』とか『ごんぎつね』とか。そうした絵本が古い本棚に乱雑にあって。まだ字が読めない頃は、それらを眺めていました。

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――今振り返ってみて、どういう子どもでしたか。

 姉2人、兄1人の4人目だったので、目を引くようなことをしないと大人が相手をしてくれなかったのか、突飛なことを言いだすことがあったみたいですね。上3人の視界にも僕はあんまり入っていないみたいで、3人はきょうだいげんかをしていましたが、僕はあまり参加していませんでした。子ども部屋の定員が3人で、僕だけ親の布団で寝ていたからかもしれません。なので、上の3人は「8時だからもう寝なさい」と言われるのに、僕だけ親の部屋で10時くらいまでテレビのニュースを見ていました。80年代だったので「今、世界では」とか「アフリカの貧困」といった報道をしていて、そういうのを見て「こりゃ大変だ」と思っていました。

――そういうところで人格形成がなされたのかもしれませんね。では、小学生くらいになって、字が読めるようになると...。

 『大どろぼうホッツェンプロッツ』とか、「ズッコケ三人組」シリーズとか。それと並行して『ドラえもん』などの漫画も読みました。ジャンプ系の『ドラゴンボール』なども読み始めましたし、兄が買ってきた『タッチ』なんかも好きでしたけれど、当時読んだ漫画で強烈に印象に残っているのは『沈黙の艦隊』ですね。それがたぶん、小学校4年生か5年生くらい。親父が買ってきたんです。読んで衝撃を受けました。子どもなりに淡い理解だったとは思うんですけれど、潜水艦をベースに独立国家を作るような話なので、国についてあまり考えたことがなかった自分にはすごくインパクトがありましたね。漢字にルビが振っていないので、漢和辞典を引きながら読んでいたのを憶えています。

――お父さんはご自分が読もうと思って?

 そうです。当時、すごく流行っていたんで。まだ10巻まで刊行されていない時期だったと思います。
 他には、兄貴が買ってくるスニーカー文庫の『ロードス島戦記』を読んだりもしましたね。ファンタジー小説は他に『アルスラーン戦記』なども読んでいました。『アルスラーン戦記』は2017年にようやく完結していましたから、31年越しでしたね。途中から僕は追えていないんですが、「ああ、ちゃんと終わらせるって作家としてすごいな」と思いました。
中学2年生くらいまでは、そういう読書が続きました。

――中学2年生で何か変化があったのですか。

 僕はあまり自分では買わず、兄や姉や父が家に持ち込んだものを味わう最終捕食者だったんです。音楽も姉がビートルズを買い始めたから聴くようになりましたし。それで、中学校2年生くらいの頃に姉が家に持ち込んできた本が、吉本ばななさんの『キッチン』や村上春樹さんの『ノルウェイの森』だったんです。それで当時流行っていたミリオンセラー系の純文学を読み始めて、「あ、こっちかな」と思いました。

――「あ、こっちかな」というのは?

 自分がやりたいのはこっちだな、と気づいたのがそのタイミングでした。僕は5歳くらいから本を書く人になりたいと思っていたんです。親の注意を引くために突飛なことを言わないといけないという謎のプレッシャーがあったので、その究極の形が「本を書く」みたいなことだったのかもしれませんね。それを意識しながら読書を続けて、でも絵は描けないし、ファンタジー小説も違うなあと感じ、そんな時に純文学系のものを読んで「こっちだな」と思った。しかも当時、めちゃくちゃ売れていたんですよ。「はなきんデータランド」という、いろんなことをランキングで紹介する番組があって、「今週の1位は村上春樹『ノルウェイの森』です」と言われているのを見て、「すごい、金も儲かるんだ」と、夢のようだなと思いましたね(笑)。

――中学生で『ノルウェイの森』を読んで、どんなことを感じたんでしょうか。

 どれだけ分かっていたのか分からないですけれどね。ただ、切なさややるせなさというか、「人生って大変だな」というのは感じました。書くことで、楽しませるだけでなく苦しませたり考えさせたりすることも成り立つんだ、というところがすごく面白く感じました。

――当時、実際に自分で小説を書こうとしたこともありましたか。

 ありました。当時はワープロも持っていなかったので、原稿用紙を買ってきて書こうとしたんですけれど、全然書けなかったですね。2、3行書いて止まる、みたいな。何を書けばいいのかまったく思いつかない感じでした。

――ああ、ストーリー的なものが浮かんで書くというよりも、まっさらな状態で原稿用紙に向かってみた、という。

 そうですね。だって、もしかしたら、「ギター弾いてみたら弾けちゃった」みたいに、いきなり書けるかもしれないじゃないですか(笑)。可能性としてはゼロじゃないですよね。それでノーアイデアのまま書こうとして、「ああ、書けない、じゃあ今は止めておこう」と。

修業時代に読んだ本

――その後、吉本ばななさんや村上春樹さんの他の作品を追いかけたりはしましたか。

 しました。最初は姉が『ノルウェイの森』を誰かに借りてきたので読んだんですが、兄の部屋に忍び込んで本棚を見たら、当時出ていた村上春樹さんの文庫は全部あったので、それを読みました。吉本さんは最初『キッチン』を読んで、次に古本で『TUGUMI』を自分で買いましたね。その隣にある山田詠美さんの『放課後の音符(キイノート)』も買う、ということをやって読む本を広げていきました。
 当時、中古ゲームや中古CDと一緒に古本を売っている店って、いっぱいあったんですよね。そのなかに純文学の棚があって、そこから安いものを買って読む、というのを高校生の頃から始めました。鷺沢萠さんの『スタイリッシュ・キッズ』が好きだったり、町田康さんが作家として登場されたので読んだり。

――上田さんは兵庫県明石のご出身ですが、大学進学で東京にこられたんですよね。どんな学生生活を送りましたか。

 大学に進学してしばらくは、麻雀やったり飲みに行ったりと、ずっと駄目な学生をやっていました。それでも作家にならなきゃという謎の使命感はずっとあって、「そろそろやらなきゃ」と思ったのが21、22歳の頃。作家になるにはやはり古典を読んでおこうと思い、日本の古典といえば夏目漱石、世界的な古典といえばドストエフスキー、戯曲の古典といえばシェイクスピアだなという単純な発想で、古本屋さんで買ってきて、がーっと読んだんです。漱石もドストエフスキーもシェイクスピアも、めちゃベーシックなんですけれど、実際に読んでみると勉強になることがすごく多くて。自分の下支えになっているのはあの頃に読んだ古典です。

――どのようなところに刺激を受け、影響を与えられたと思いますか。

 漱石はたぶん『こころ』なんかを中学生くらいの頃に読んだんですが、小説の修業を意識して改めて読むと、すごくテクニカルだなと気づきました。修業として最初に読んだのは『草枕』なんですけれど、すごく実験に満ちている。最初の「山路を登りながら、こう考えた。智に働けば角が立つ。情に棹させば流される...」っていう、あの下りが美しくて。オマージュ作品を作ったこともあります(『文藝別冊 夏目漱石』収録の「睡余―『草枕』に寄せて」)。

――そういえば、上田さんの『異郷の友人』の冒頭の一文は「吾輩は人間である。」でしたね。

 あ、それもオマージュでしたね。やっぱり漱石は好きですね。あとはドストエフスキーの長台詞とか、シェイクスピアの長台詞がすごく好きで。「こんなの絶対誰も言わねえだろ」という長い台詞をするっと読ませるのが結構好きなんですよ。

――上田作品の長台詞の影響が、その二人の影響だったとは。

 シェイクスピアは訳の良しあしもあるんですけれど、やっぱり台詞がきれいですし。僕が読んだ訳は誰だったかな。ボロボロの古本を買い集めたので、結構古くて。福田恆存さんの訳とかがあったと思います。ちなみに一番好きなのは『マクベス』です。構成に無駄がない。太宰の『斜陽』も好きなんですが、なぜなら構成に無駄がないから。ああしたスパッと感、好きですね。

――ドストエフスキーではどの作品がお好きですか。

 どれも好きで、どうかなあ?『罪と罰』は、いろいろなものが詰まっている「ザ・小説」という感じ。それと、わりと『地下室の手記』の引きこもりっぽい感じがいいなあと思いますね。今っぽいし、ドストエフスキーは先見性があるというか、実はウィットも効いている人なんだなと思いましたね。
 当時は他にも、名前を聞いたことがあるものがあったらとりあえず買っていました。ガルシア=マルケスやフォークナーも読みましたし、古典とは言えないですがミラン・クンデラも読みましたし。カート・ヴォネガットも。ヴォネガットは戦争経験があるというのが下支えになっていると思うんですけれど、人類とか地球とか宇宙というものを、ある種乱雑に扱うじゃないですか。いい意味での大胆さというか、ある種の幼稚さが新鮮でした。そんなふうにやっていいんだというのが僕の中では驚きでした。

――好きな作品は何ですか。

 やっぱり『タイタンの妖女』の、「よろしく」というメッセージを届けるために必死こいているという、あそこがたまらないですね。一番刺さったのは『猫のゆりかご』の「アイス・ナイン」。連鎖的に常温の水も凍らせてしまう、9番目の氷の状態アイス・ナインというのが出てくるんですけれど、そうした実在しないものを大胆に取り込むところが、勉強になるなと思いました。

――先日上田さんが出演された「ゴロウ・デラックス」でご自宅の本棚が映っていましたよね。ポール・オースターの『リヴァイアサン』やアレクサンドル・デュマの『モンテ・クリスト伯』があって。

 オースター大好きです。『リヴァイアサン』は、「六日前、一人の男がウィスコンシン州北部の道端で爆死した」と始まる。「爆死した」が一文目というのがクールだなと思う。デュマは小デュマから入った気がします。『椿姫』から読んだんですが、人から「有名なのは父親の大デュマのほうだよ」と言われ、アニメで観ていた「三銃士」の作者だと知って『モンテ・クリスト伯』を読みました。

――その頃、国内作品は読みましたか。

 町田康さんが『きれぎれ』、松浦寿輝さんが『花腐し』で芥川賞を受賞された時期だったので、おふたりの著作を読んだりして。当時、純文学界では文体へのフェティッシュみたいなものがありましたよね。それを真似てみたくなり、例えば句点じゃなくて読点で文章を繋げていく表現を当時僕もやってみました。作品にはなりませんでしたけれど。

執筆とは正反対のことをやる

――ところで、作家になろうと思っていたそうですが、大学では法学部に進学されていますよね。

 そうです。作家になりたいとは親に言っていなかったので、文学部に行くのを反対されたというのもありますけれど、僕もそこまで文学部に行きたいという気持ちはなかったんです。それより、両極のものを味わいたいというのがあります。高校も理系コースだったし、大学も法学部だし営業のバイトとかしてましたし、社会人になってもビジネスとかやっているんで、小説の執筆とは反対のことをやりたい欲求があるんですよ。

――では本を読む以外に夢中になったことなどはありましたか。

 この頃はあんまりないですね。音楽は聴いていました。中学生の時に7歳上の姉がビートルズを聴いていたので僕も聴いてみて、「あ、やっぱりいいじゃん」となって。それまでは邦楽のポップスやテレビで流れているものを聴いていたんですけれど、そこからロックに興味が湧いていきました。日本のロックバンドはそこまでハマらなかった。大学では先輩に教えてもらって、レディオヘッドとかニルヴァーナとか。ベタ中のベタですよね。だいたい僕は受け身で、自分から探しにいかないから、王道しか入ってこない。

――小説は書きましたか。習作みたいなこととかは。

 小説を書き始める前のイニシエーション的に、19歳か20歳の頃には論文を書いていました。学校の課題ではなく、趣味で。「鉄と法」っていうテーマで12000字とか。

――ジャレド・ダイヤモンドの『銃・病原菌・鉄』みたいな感じですか?

 そうそう、あれに近いです。次に「座標と温度」を書こうとして、「いや、これは論文というより文学の領域かな」と思いましたけれど。

――「鉄と法、座標と温度」は上田さんの「太陽」の中で、生物学者の著書として出てきますね。

 そうそう、そうなんです。そういうことを素人考えで論文を書くのがその頃のライフワークでした。
 結局、なんで子どもの頃から作家になろうと思っているのかが分からなくて、別のルートを一応試してみたいんでしょうね。理系コース行ったり法学部行ったりするのも同じ。最終確認として、小説と隣接する文章として論文を書いてみて、ピンと来なかったらやっぱり小説なんだなっていう。遠回りなんですけれど、そういう確認をしながらやってきた感じですね。でも論文を書いたのは、『BANANA FISH』のアッシュ・リンクスが論文を書いているのが格好いいなあ、というのもちょっとありましたね(笑)。

――小説を再び書き始めたのはいつくらいですか。

 21歳か22歳くらいで書いたのが、はじめて最後まで書き終えた小説でした。それが420枚くらいあって。

――いきなり長い(笑)。

 そう、いきなり(笑)。とりあえず作家になるには1作くらい書かないとどうにもならないと思って書いたのがそれでした。サナトリウムで死にゆく少女を見守るみたいな、ザッツ・セカイ系で、処女作にふさわしいベタな内容です(笑)。でも飛んでいる感じがあるというか、リアリズムにはしていなかったですね。その後に純文学の新人賞の存在を知ってそれに当て込んで書いたものよりも、何も知らずに書いたその420枚のほうが、今の作風に近かったです。

――大学卒業後は就職せず、小説を書きながらアルバイトとか?

 そうですね。日雇いとかたまに行ってました。肉体労働ではなく事務職です。ある会社が日雇いの事務職を募集していて、時給が1000円だったんですよ。「これいいじゃん」と思って行ったら、Word文書を3枚作って、あとはネット検索しているだけで8000円もらえるという、あまりに楽な内容で。「明日も来ていいですか」と聞いたら「いいよ」と言われ、そのまま居つきました。「明日も来ていいですか」を2年半ほど続けました(笑)。
 小説のほうは、純文学の新人賞の存在を先輩に教えてもらったのが23歳の時でした。それで過去の受賞作を読んで「こういう感じで書くのか」と思って規定枚数に合わせて私小説的なものを書いて送ったら、最終選考に残ったんですよ。それで「ああ、なるほど」って思い、その後に何作か書きましたけれど、まだデビューは早いなと思って、働き始めたんです。

――ん? 早いとは? 

 僕のなかでは20代でデビューするのって超早い、というイメージだったんです。だって、分析すると、新人作家の小説って3作目くらいまでしか雑誌に載らないんですよね。3作までに結果を出さないと終わりなんで、そのチャンスを20代で使うのはもったいないと思ったんです。

――今ここで頑張らなくても、いずれデビューできるという自信はあったのですか。

 いや、そこまでは思っていないですよ。ただ、20代の今デビューしても、その先、作家としてやっていけるか自信がなかった。だったらもっと、一番可能性が高い頃にまた挑戦しようと思ったんです。

――年齢を重ねたほうが、可能性が高くなると?

 やっぱり直感と、経験の蓄積による「眼」が必要だと思うんです。「こうに違いない」ってピーンとくるっていう直感と、「でも実際はこうだよ」って気づける、経験の蓄積による眼が兼ね揃わないと、書けない気がするんです。直感と眼が養われていれば、存在しないものを書いた時にリアリティを与えられるじゃないですか。それって20代じゃ無理なような気がしますよね。もちろん、20代で作家デビューして活躍いる人はいっぱいいるけれど。

――ただ漫然と生きているだけでは、歳を重ねてもそうした「眼」は養われませんよね。

 僕は5歳くらいから作家をやろうと思っていたので、ずっとそういう眼を意識して生きてきました。教室内の人間関係も見てきたのも、理系に行ったのも法学部に行ったのも、友人の起業に付き合ったのも、「作家になるんだったらこういうものやっておいたほうがいいな」という気持ちがありましたから。

ミクロとマクロの視点

――IT会社を立ち上げる友人に声をかけられて参加して役員になられたのはおいくつの時でしたっけ。

 25歳の時です。大学時代の営業のバイトで知り合った友人と、学生時代から何回か一緒にやっていて、その時が3回目でした。前から彼は会社を設立すると僕に声をかけてくるんですよ。僕が大学を卒業して作家を目指して2年間応募生活をしていた頃は、飲みに誘われてもなかなか対応できなくて。で、1回小説書くのを休むと決めたので「飲みに行けるよ」と電話をしたら「また会社を立ち上げたから、今から迎えに行くよ」って言って迎えに来て、そのまま入社しました。それからなんだかんだいって15年という。

――そこまで上田さんに声をかけてくれるというのは、何かすごい見込まれて...。

 いや、別に就職しているわけでもないし、立場が自由そうだったからじゃないですか。「こいつだったら誘いに乗ってくるかな」っていう。それにキャラクターが正反対だからかもしれないですね。彼は東大の理系なんです。僕、文系だし。

――入社してからしばらくは、小説執筆や読書からは離れたわけですか。

 そうですね。朝9時から働き始め終電で帰る毎日で4、5年が過ぎました。それが落ち着いてきたのが31歳くらいの時。それでまた書き始め、新潮新人賞の最終選考に残り、滝口悠生に負け(笑)、落選。その2年後に「太陽」でデビューですね。

――執筆を再々開した時にはもう、今の作風だったのですか。

 そうですね、かなり、今の感じでした。

――その世界観はどのように熟成していったのかなと思うんです。宇宙とか世界といった空間の広がりだけでなく、悠久の時間も感じさせる作風ですよね。

 どうなんでしょうね。自然と興味のあるものがそっちだったんですよね。25歳くらいの時に「純文学ってこういう感じだろう」と書いた私小説風のが最終選考に残って以降、小説を書いていない時期も、自分がいつか書くだろうものは考えていたんですよね。それで、単純に自分のやりたいことを突き詰めていくと、大きなことを書くということだったんです。大きなことって、当時の純文学的にはなかなか認めづらい部分があったと思うんですけれども、やっぱりそこを突き詰めていきたい気持ちが強かった。30歳を過ぎたことで、受賞するしないはどうでもいいから、とりあえず書きたいものを書こうというふうに腹をくくれたというのはあったと思います。

――大きなことが、もともと好きだったという。

 なんか、幼児的な万能感ってあるじゃないですか。たとえば小学校5年生くらいの時に、ソフトボールで球拾いしながら「永久機関はどうやれば作れるのかな」みたいな茫漠とした妄想みたいなものを広げていくとか。今ないものを作りたいというのは、僕の「突飛なことを言わなきゃいけない」という面とリンクしているのかもしれないですけれど。そういう幼児的万能感とか、幼児的空想感が、いまだにちょっと残留している感じがあります。

――永久機関を妄想する小学5年生...。

 具体的なオブジェクトというよりも、その裏側にある仕組みが好きなんですよね。なぜこれがこういう形をしているのかなと考えてしまう。ミクロに見ていくと、なぜ水はこうなのか、なぜ沸騰するのか、とか。もちろん科学的に解明されていることもありますけれど、解明されていない部分について、なんでだろうと考えてしまうんです。
 で、そういう目で見た場合、すごく小さなものとすごく大きなものって、わりと同じ仕組みで動いているんだな、というのがなんとなく分かるんですよ。それをミクロの側から表現すると、単にミクロな視線を持っている人だなって思われる。でもマクロ、ものすごく大きなところから表現すると、「こんなでかい発想どこから来たのか」って思われる。実は微視的に見ていたりするんですけれどね。
 今お話ししていて、僕の視点を表現するためには、そういう大きな建付けが必要かもしれないんだなと思いました。単に仕組みを知りたいだけなんだけれど、その仕組みをすごく大きなものに適用したことで、「太陽」っていう作品が成り立ちました、というような。ある意味、自分の視界の確かさを確かめるために、大きな建付けが必要なのかもしれないですね。

――うまい例えができませんが、量子のことを説明するために宇宙を語るとか、宇宙を語ることが量子を語ることにもなる、みたいなことというか。

 現象として見ると同じなんですよね。ただ、スケールが違うだけ。それを、小さなもののスケールで表現すると小さなものを書いているようになっちゃうけれど、スケールが大きなほうで表現すると、何か新しく見える。やりたいことがビビッドに伝わるんじゃないかなと仮定した気がしますね、言われてみれば。

デビュー後の読書

――その後の読書生活はいかがでしょう。

 作家デビューしたのが34歳の時なんですけれど、その前後で最近の海外文学はどうなっているんだろうって研究したところがあって。最近は変わってきましたけれど、僕がデビューする2013年前後って、純文学が私小説的なものに寄っていた時期だったんです。大それた話ですけれど、そうではなくてもっと世界で通用するものを書きたいなと思い、イアン・マキューアンとか、バルガス=リョサといった海外文学を読んだ時期がありました。マキューアンは毎回作風が違うけれど、『土曜日』も『ソーラー』も『贖罪』も好きですよ。作風も構成も台詞も起きる物事も皮肉なんだけれど、どこかエレガントなんですよね。皮肉を言うからにはエレガントじゃないと、と思っています。リョサは『世界終末戦争』とかを読みましたね。

――おお、『世界終末戦争』、分厚いですよね。そういえばご自宅の本棚の映像にロベルト・ボラーニョの『2666』もありましたね。

 そう、あれも分厚いですよね(笑)。他はクレスト・ブックスも多かったですね。ジュノ・ディアスの『オスカー・ワオの短く凄まじい人生』とか。
 それと、ミシェル・ウエルベックですね。2013年に「太陽」でデビューする前に1回、新潮新人賞の最終選考に残っているんですけれど、その時の選評にウェルベックの名前が挙がっていて、それで全作品読みました。最初に読んだのは『素粒子』でしたが、作品のレベルとしては『地図と領土』が一番高いと思いますね。内容と文体と構成と試みが合致している感じがします。最近の作品は露悪的すぎるし、リーダビリティに寄っているような気がしているんですけれど。

――本棚にはシェイクスピア以外にも、ブレヒトやテネシー・ウィリアムズなどの戯曲もありましたよね。

 ブレヒトは『私の恋人』を書いていた頃、ドイツの戯曲が好きでパラパラと読んでいたんです。第二次世界大戦頃の、いわゆる敗戦国の文学に興味があったんですよね。勝った側の考え方や文化は今の世界に実装されているけれども、負けた側についてはこちらが追わないと分からないので、両方知りたいなと思っていて。

――ああ、『私の恋人』にはホロコーストのことも出てきますよね。そういう部分は新たに資料を読んだりしたのですか。

 いえ、ホロコーストのことはもう、みんな知っているじゃないですか。誰もが知っているホロコーストの知識と、H・G・ウェルズの『宇宙戦争』が実はオーストラリアの白人支配を皮肉って書かれたものだということが、あの本では繋がっていきました。そうすることで新しい見方をしてもらえれば、すごく達成感があるなと思いました。

――『私の恋人』では引用される『宇宙戦争』とか、『ニムロッド』のサリンジャーの金庫の話など、作品に先行する作家や作品もよく登場しますよね。それは意図的にですか。

 もともと僕が受け身な人間だからかもしれませんが、書いているとある時そうしたものが入ってくるんですよね。テーマに困っていたりする時に、たまたま本屋さんで見かけ「あ、これだな」とピンとくる、ということがよくあるんです。サリンジャーは濫読期に読みましたが、ウェルズは、何かの時に誰かが僕の小説とウェルズの『解放された世界』の関連性だったかに触れているのを読んで、ああ、ウェルズの代表作といえば『宇宙戦争』だなと思い、一応目を通しておこうと思って読んだらぶち当たった感じでした。だから、共時性が強いんですよね。共時性だけで書いているといっても過言ではないくらいです。受け身経験が長いゆえに、「あ、これだ」というものがすぐピンと分かる能力が上がっている気がします(笑)。

――最近はどのように本を選んでいるのでしょうか。

 書評を頼まれて読んでみたら面白かった、ということもありますね。最近だとアリ・スミスの『両方になる』がよかった。書評というか、裏表紙の短評の依頼がきたんです。クレスト・ブックスに短評を書けるなんて、嬉しかったですね。「ついに来たか」という感じでした。しかもすごく面白い本だったのでよかったです。

最近の執筆と作品

――デビュー以降、生活のリズムは変わりましたか。

 最終選考に1回残って以降、投稿時代から毎年2作ずつ書いていて、ずっとそのペースのままですね。デビュー以降ちょっと負荷が上がったかな、というくらい。朝5時に起きて5時半から7時半まで2時間書いて、出勤して、18時に終えて、夜はフリーです。ただ、『ニムロッド』は1週間丸々、会社にお休みをいただいてその間に初稿を仕上げました。毎日2時間ずつ書くという方法にちょっと飽きてきたので、1回連続した時間のなかで書いてみようと思ったんです。

――芥川賞の受賞記者会見で「芥川賞は対象となる作品の範囲が明確で競技性が高い」とおっしゃっていましたよね。

 範囲が明確というのは、芥川賞の候補になるにはこれくらいの枚数で、雑誌に掲載されていることが必要で...ということですよね。そういう意味での競技性。たとえば三島賞って雑誌から候補になるものもあれば単行本から候補になるものもあれば、評論が候補になることもある。だから狙おうと思っても狙えない賞なんですね。でも芥川賞は、「候補になるためはここに出さないといけない」というのが明確にある。そういう意味です。

――『ニムロッド』はこれまでの作品より「広く読まれるように書いた」とのことでしたが、それは競技を意識してのものだったのでしょうか。

 「賞が欲しい」というよりは、他に長篇も書いているなかで、芥川賞の候補になる可能性がある枚数で、もしも受賞した時にいろんな人に読んでもらう可能性があるものを書くのであれば、70代80代の人が「仮想通貨のあの話、ちょっと読んでみようか」となった時に「分からない」「独りよがり」と思われるのは悲しいので、そういう人にも届く書き方ができる筋肉を鍛えたいというのがありました。それに、それをやってみることが翻って、より構えの大きな作品を書く時に役立つだろうなと思いました。...というと、きれいな言い方をしたと思われそうですが(笑)。

――だからといって『ニムロッド』は、がらりと作風を変えるのではなく、これまでの作品と通じるテーマ性、世界観がありますよね。

 そうですね。これまで僕の小説は「分からなかったらいいです。でも僕はこういう表現がしたいんです」というふうな視点で書いたものがままあったんですけれど、ここ最近は深さは変わらないまま誰にも分かるように書くことに挑戦したい、という気持ちがありました。

――『ニムロッド』は主人公は会社でビットコインの採掘を任される中本哲史ですが、ビットコインの創設者の名前が実はサトシ・ナカモトという。

 サトシ・ナカモトという、明らかに日本人じゃない人が日本人だと言い張って匿名のまま作った仮想通貨に10兆円の価値が出るというのは面白い現象なので、そこは注目しました。

――中本の先輩の荷室がメールしてくる「駄目な飛行機コレクション」はネット上に実在しますよね。

 僕がネット上の「NAVERまとめ」でそれを発見したのが2016年くらいで、面白いものを書くなあと思っていたんです。そのなかでも印象に残ったのが、作中にも出てくる「桜花」という飛行機でした。あれもあれで大田正一さんという、サトシ・ナカモトみたいな提唱者がいて、でも飛行機は実用化されずに戦後すごく叩かれる。それで、彼は名前を捨てて生きていこうとする。そこがナカモト・サトシとすごく対照的に見え始めて、これは繋がったという感触がありました。その2つのメインモチーフと、あとは作品を重ねるごとに僕の中で残っていた「塔」というモチーフ、この3つで書けるはずだというのがあって書き始めたのが『ニムロッド』でした。

――ニムロッドはバベルの塔を提唱した人の名前でもあるという。「塔」というモチーフはご自身の中で自然と残っていった感じですか。

 高校生くらいの時にたまに、ぼんやりと塔の上で2人が何か喋っているような妄想がふわっと浮かぶことがあったんですね。それをちょいちょい小説に出すようにしていたら、結構書評でそこに注目する人が増えていて、「ああ、このモチーフには何かあるのかな」と掘っていって『塔と重力』を書いたんです。このあいだ書き終えた「キュー」までは塔のイメージを引きずっています。

――なにか、上田さんの作品には、どうしても届かないものを希求するような感触がありますよね。

 そうですね。そういうのって誰にもありそうな気がする。多くの人の中に、手が届かないものを求めてしまう心性があって、たぶん僕が小説を書くこと自体も、その心性が大きい気がします。「すごいものを書けそうだけれども、届かない」みたいな。それでも届けたいな、という心性は僕の中で大事なものです。それが男女関係に落とし込まれると恋愛になるし、今回の『ニムロッド』の小説家志望の先輩みたいに「デビューできない」というのもあるだろうし、駄目な飛行機やバベルの塔もそうですけれど、「届かない」「完成しない」というものが、善きにつけ悪しきにつけ、僕の中では駆動装置になっていますね。

――人間の営みがいつか終わってしまうというようなイメージも常に作品の中にありますが、それもその心性によったものでしょうか。

 それは、「終わってほしくない」という小学生的な願いもあるし、このままいくと人間の「これを絶対やりたいんだ」というようなモチベーションが減っていく気がするなかで、「どうすればモチベーションを作り出せるのか」ということを考えながら書いているところがありますね。つまり、「完成」と「終わり」は似ているんです。届くかどうか分からない完成を目指しているけれども、それは終わりを目指していることにも似ていて、そこは切ないなと思うんですよね。

――ところで、上田さんは純文学に触れて「こっちだな」と思ったとのことでしたが、上田さんにとって純文学ってどういうものだと思いますか。

 僕は「型」だと思っていて。要は書きにくい場所、困難な場所でどう書き続けるかという。

――その「場所」ってどういう意味でしょう。状況ということでしょうか。

 そうですね。デビューしていない状況で書き続けるとか、サリンジャーみたいに誰にも読んでもらえないと確定しているけれど書き続けるとか、そういう困難さですね。そう思うのはなぜかというと、なぜ書くのかということとなぜ生きるのかってことは、僕にはニアリーイコールな感じがするからです。どちらも、理由なんて分からないじゃないですか。それでもやるんだっていうところの「困難な場所」を求めるのが純文学なのかなという気はしていて。
 『ニムロッド』だとリアリズム縛りで書いてみるとか、次の「キュー」では『新潮』と「Yahoo!Japan」で組んでもらって、同時連載という形で、ものすごく速いペースで長篇を書くことに挑戦したりとか。そういうことをやっています。自己満足かもしれないけれど。でも、だからこそ出てくるものって、あるんですよね。

――「キュー」はあらかじめ長篇を書こうということだったんですね。

 600枚規模のものを書きたいと両社に言って、「分かりました」と言ってもらって、で、730枚くらい書いたので、削って単行本では700枚くらいになるんじゃないかなって気がしています。

――さきほど「塔」のモチーフは「キュー」までということでしたが、今後は、これまでのモチーフを深め、広げていくわけではないのですか。

 とりあえず「キュー」がラストです。スピンオフみたいなものは書こうと思っていますが。まだ具体的なことは公にできないんですが、今、また違うものも書いていく予定があります。

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