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「語り」に見出す一筋の希望 みすず書房・市原加奈子さん

 A・クラインマンの『病(やま)いの語り』(誠信書房)という本に、人間界には「語り」でしか表せない痛みがあると教わった。目から鱗(うろこ)だった。転職前、理系の稼業では、ものごとの性質だけより量まで明らかにする研究のほうが断然「上等」だったのだ。でも人や社会のありようは、計量できない次元へも無辺にひらかれている。語りも計れない。だから何にも代えがたい。
 『裸足で逃げる』の著者で教育学者の上間陽子氏は沖縄の風俗業界で働く女性たちのことを調べている。みんなまだ20歳前後の若さで、シングルマザーも多い。
 「家出するさ、家出して男のところ行っても、にぃにぃ(兄)に見つけられて、くるされて(ひどくなぐられて)、それが怖くて、また逃げて……」「いつもだよ。怖くて逃げる。逃げて、くるされる。……なんで私はいつも逃げるかね……」
 殴られる女の子が「なぜ私は逃げるのか」と自問する姿に胸を突かれる。そんなにも、その街では暴力が日常の顔をしているのか。生活の疲弊に縦社会の風習も絡んで、家族、恋人、教師も女子を殴る。彼女たちは多重の困難のはざまに、活路を探しつづけている。
 貴重な語りが生まれたのは、聴く人がそこにいたからだ。あとがきで著者は、語り手の女性たち自身に原稿を読んでもらった理由を明かす。「本人がそれをだれかに語り、生きのびてきた自己の物語として了解することに、私は一筋の希望を見出(みいだ)しているからです」
 ああこんな言葉を自分も守り届けたくなる。編集者のエロスなのかなと思う。=朝日新聞2019年5月22日掲載