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痛みにあえぐ現代人を癒やす豊潤な幻想譚 梨木香歩5年ぶりの長編「椿宿の辺りに」

文:朝宮運河

 連日連夜のパソコン作業のせいだろうか、このところ腕の痺れと肩の痛みに悩まされている。そのため梨木香歩の新作『椿宿の辺りに』(朝日新聞出版)には、いたく興味をそそられた。

 研究者として化粧品会社に勤める主人公の佐田山彦(さた・やまひこ)は、眠れないほどの肩の痛みに襲われている30代男性だ。ペインクリニックを受診するも痛みは治まらず、日常生活に支障を来すようになってしまった。2歳年下の従妹・海子(うみこ)と久々に再会した山彦は、彼女もまた全身の痛みに苦しめられていることを知り、海沿いの町にある鍼灸院を勧められる。
 半信半疑で足を運んだ山彦を待ち受けていたのは、仙人めいた風貌の鍼灸師・仮縫(かりぬい)と、首が肩にめり込んだような双子の妹・亀子(かめし)。霊能力があるらしい亀子は、山彦の快癒を稲荷が手助けしていること、亡くなった祖父が祠に油揚げを供えるように言っていることなどを告げ、祖先の地・椿宿(つばきしゅく)こそが彼の「彷徨えるツボ」なのだと教える。いかにも怪しげな発言だが、それは死の床に就いている祖母・早百合が口にした不思議な話とも、ぴったり符号していた。かくして山彦は亀子とともに椿宿に向かう。空き家となった「実家」の残るその土地には、佐田家のどんな秘密が隠されているのか――。

 見慣れた日常の端がほどけ、いつの間にか非日常の世界に入り込んでいる。『家守綺譚』や本書の姉妹編『f植物園の巣穴』などで知られる梨木香歩の小説には、そんな不思議な感覚が漂っている。5年ぶりの長編となる本書では、山彦の生きる現実が『古事記』の海幸・山幸神話とシームレスに繋がってゆき、読者をめくるめく物語の迷宮に誘うのだ(山彦の本名は「山幸彦(やまさちひこ)」、海子の本名は「海幸比子(うみさちひこ)」で、『古事記』にこだわる祖父が命名したもの)。

 「世界をどう読み取りどう観察するか」を重視し、「無様でみっともない『当事者』になるなど、私には、到底受け入れられることではなかった」と述べる山彦は、クールではあるが、人生に対してやや消極的な人物だ。しかし突然襲った激痛は、彼を否応なく「当事者」にしてしまう。痛みを治めるために出会いを重ね、さまざまな不思議を目の当たりにすることで、より広く豊かな世界へと目を見開いてゆく――という話だが、そこまで単純化してしまっては、本書の面白さを少しも伝えたことにならないだろう。
 静謐で滋味深い文章、散りばめられた印象的なエピソード、仮縫、鮫島、石突(いしづき)、野百合と百合根など、どこか抽象性を感じさせる名前をもった登場人物たち。そうした著者ならではの美点が組み合わさることで、失われた自然の象徴でもある椿宿の辺りが、はじめて読者の前に姿を現すのである。
 祖母の夢枕に立った父方の祖父、海子の父のもとに現れた大黒、実家に秘められた忌まわしい過去と、天井裏の隠しスペースなど、怪異・幻想譚としての側面も見逃せないが、その一方でユーモラスな場面もふんだんに織り込まれている。とりわけ亀子に関するエピソードの数々は、思わず吹き出してしまうほど。突然バスを降り「ご不浄にいかねばなりません」と歩き出したかと思うと、喫茶店に飛び込み、思いも寄らない事実を明かして「行くからには亀子、全力を尽くす所存で臨んでおりますから」と真顔になる。彼女の変幻自在なトリックスターぶりは、そのまま神話世界の住人を思わせるものだ。

 現実と神話、人と自然、現在と過去、生と死が同居する約束の土地、椿宿。『椿宿の辺りに』はそこにいたる見えない道を提示して、痛みにあえぐ現代人を励まし、癒やす。物語の魔力に満ちあふれた、著者の新たな代表作だ。