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藤巻亮太の旅是好日 山梨の母校の教壇に立った僕が、彼ら彼女らに一番伝えたかったこと

文・写真:藤巻亮太

 僕はこの瞬間の感動をきっとこれからも忘れることはないだろう。このような経験を人生で出来る僕は幸せ者だ。山梨の母校(笛吹高校)の開校記念日ライブでのクライマックス、ステージ前に集まった全校生徒が「3月9日」で肩を組んで、右に左に波をえがいての大合唱。彼ら彼女らの純粋さを含む笑顔を前に、僕は一時、自分が歌うことを忘れて、それに聞き惚れてしまった。「3月9日」は2004年のリリース。つまりは、彼ら彼女らが生まれた直後の歌であることを考えてみると、全員が最後まで歌詞を覚えており、自然と歌えてしまえることに驚いた。同時に、僕は、「3月9日」はもはや自分の手を離れている曲で、これから先にはどうか自由に使っていてほしいと素直に思った刹那でもあった。

 ライブの後で、3年のあるクラスで50分の特別授業を持たせてもらえた。何を話すべきか、どのような距離感でのぞめばよいのかなど事前にいろいろ考えた末に、自分に課したルールのひとつは、かつての高校時代の自分のことをつつみ隠さずに話すこと。もうひとつは、それと引き換えに先輩として後輩に伝えたいことを言うことだった。僕が高校時代に毎日眺めていた風景を窓からのぞむ教室に入り、一段高く据え付けられている教壇に立つ。皆先ほどまでのライブであがったボルテージの余熱もあり笑顔と拍手でむかえてくれた。ただ、教師ではない僕は教壇に立つことになれているわけではない。そしてこれからの50分は歌ではなく、言葉で向き合う時間になるから多少の戸惑いはあった。それでもひとつ直観的に感じたことは、僕が真剣にならなければ、皆は耳を傾けてくれないということだった。

 多くの大人がかつて高校生だったときがある。それがどうであったかは人それぞれだろうが、僕にとってそれは、決して輝かしい時代ではなかった。正直なところ、やりたいことも見つからなかった。何かをはじめても途中で放り投げてしまうことが多かった。まわりが何をしたいとか、こうなりたいとか少しずつ掴みはじめているなかで焦り、劣等感ばかりが募っていた。なんとなく大学にすすみ、そのころから僕は音楽とギターに本気で向き合い、生まれて初めて自分でオリジナルの曲をつくることができた。その瞬間にそれまでずっと自分の内側に向いていた劣等感が消えさり、音楽を信じて前に進むことができた。そんなことを語る僕の言葉に彼ら彼女らは真剣な眼差しで耳を傾けてくれた。

 その後、僕はレミオロメンとしてわりと早い段階でデビューして順調にいったこと、ソロになってから逆境にも直面したこと、そんな話をするなかで、伝えたのはこんなことだ。

 いくつになっても、失敗もするし、そのたびに、自分と向き合うことをくりかえす。そのとき僕自身の実感として大事だったのは、「信じること」「学ぶこと」「感じること」を持ち続けることが大切だということ。裏を返していうならば、何かが巧くいっていないときに、これらのどれかが欠けているということだと思っている。

 こんな話をしながら、皆がやりたいことや、将来の夢や想いなどもインタラクティブにやりとりをしているうちに、気が付くと終わりの時間が来てしまった。

 でも、僕が本当にこの特別授業で言いたかったことはもうひとつあったのだ。かなり前に日本でも「ハーバード白熱教室」の名前で番組として放映されたから覚えている方も多いと思う。それは、アメリカのハーバード大学のマイケル・サンデル教授が大講堂で学生に哲学を講義する内容で、その圧倒的な人気からテレビで取り上げられ、そしてついには『これからの「正義」の話をしよう。いまを生き延びるための哲学』(早川書房)というタイトルで書籍化されベストセラーになった。僕はこの本を何年か前に読み、これを通して哲学者カントの存在とその思想にふれた。そして、この本を彼ら彼女らに紹介しつつ、当日のような口調と温度感で話をするとすればきっとこんなふうに言ったことだろう。

そして、本日一番言いたいことはね!
夢をかなえる、成功することも大事だけれど、 もっと大事なのは、自分の人間性を磨いていくこと、人間性を磨くことでしか出会えない人、見えない景色がある。

そして、これまでの話と少し変わるけど、少しだけカタイ話を最後にさせてほしいな。皆も「倫理」の時間に習ったかもしれないけど、僕が好きな哲学者にエマニュエル・カントという人がいます。この人がいったことなんだけどね、物事の考え方には二つある。

英語の授業で「if」(もし)をならうよね。たとえば、「もし」部活の試合に勝ちたければ、もっと努力しなければならない。・・・好きなあの子に振り向いてもらいたいから、優しく振舞うとか・・・なにかの前提条件のような感じで使うよね。でも、人間にとって道徳や倫理的に一番大切なことは、こんな前提条件がないことだとカントって人はいうんだ。つまりは、試合に勝つかどうかとは関係なしに、つねに努力をし続ける・・・振り向いてもらうかどうかと関係なく、ただ、やさしくある。
 
このifがつくのが、仮の話の「仮」と、言葉の「言」をとって、仮言命法といって、後者を定言命法といいます。生きていくなかで、どちらも必要になるけども、どこか定言命法、「つねに努力する」「ただやさしくある」といった部分に感じることのできる自分でいたいなと僕は思っています。

 ところで、彼ら彼女らと約束したことがある。皆で一緒になって曲をつくり、それを今年の「Mt.FUJIMAKI」(9月29日・山中湖交流プラザ)で披露するということだ。僕は彼ら彼女らと交流しながら、その純粋な輪の中にフラットに入ることのできる僕と、教壇に立った僕との境界線の揺らぎのなかで音楽といま向き合っている。