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作家の読書道 第207回:最果タヒさん

絵本から大きな影響を受ける

――いちばん古い読書の記憶を教えてください。

 親がすごく読書家で、絵本の読み聞かせをいっぱいしてくれて。寝る前に読んでもらっていた絵本は、『しろくまちゃんのほっとけーき』や『くまさんにあげる』など、くまの絵本が多かったですね。『ゆうびんやのくまさん』などもありました。毎日、絵本をたくさん読んでもらっていたので、その記憶がいちばん根深いというか、いちばん影響を受けたかなって思います。

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――影響というのは。

 のちに絵本を読み直して、かなり日本語が自由だなということに驚きました。日本語が踊っているというか......。そうした言葉は今でも好きですし、だから詩というものを書くようになったのかなと思っています。たとえば『しろくまちゃんのほっとけーき』は、今読み直すと「そんな話の進め方ってあるの」と思うんですよ。「ふらいぱんと ぼーると おおきな おさらを そろえました」とあって、「ざいりょうは なあに」という質問はあるけれど、次のページでは特に答えはなく、「ひとつ ふたつ みっつ たまご ぽとん あっ われちゃった」と続く。大人になって見てみると、これは親切な書き方ではない、とか思ってしまいます。やっぱり「たまご ひとつ ふたつ みっつ ぽとん あっ われちゃった」っていうほうが、前のページからの流れからして、わかりやすいです。でも、そういうことじゃないんだな、っていうのも同時に思います。「ざいりょうはなあに」というのは、読んでいる子が「ほっとけーき、どうやって作るんだろう?」という気持ちの代弁のように登場するけれど、でもこれはあくまで、しろくまちゃんがお母さんに尋ねる言葉なんです。絵本だから、カギカッコもついていないし、言葉が台詞なのかモノローグなのかもだいぶ曖昧になっていますが。そしてたぶん、絵本には描かれないところで、しろくまちゃんは質問の後、お母さんにたまごをとるようにいわれていて、だからもう答えをしろくまちゃんは知っている。もはや「ひとつ ふたつ みっつ」のページでは、しろくまちゃんは「たまごを取りたい」という気持ちでいっぱいなわけです。この語順は、しろくまちゃんの「たまごを揃えたい」という気持ちのあらわれであって、読んでいる子はそれを眺めているだけ。答えを教える、ということを、放棄したまま話を進めているんです。この絵本は、そのあともずっと、伝えるとか、教えるために描いているというよりは、子供が気づくまで待つような描き方をしていて。人称もずれるんですよね。卵を数えて割ってという、しろくまちゃんのひとり言みたいな台詞のあとに「しろくまちゃんが まぜます」という、誰目線の言葉や、みたいな文章が挟まってくる。たぶん、親が読み聞かせをするのを前提にしているから、人称のずれはあまり関係ないんですね。この、言葉をあえて整理さず、ダイナミックなままでごろっと差し出す感じが、すごく好きです。言葉の見え方は、大人になるとぎょっとしてしまいますが、でも、子供が大人の会話とかテレビの音声をぼーっと聞いていたときの、全貌が見えない感じにとても似ているのではと思いました。暗黙のルールとか、社会における文脈とかそういうものから外れた、言葉そのものの奇妙さが、絵本には閉じ込められていて、それは詩とも通じるところがあると思います。長く生きると、これはこういうものだから、とか、そういうときはこんな言葉を言うべきだ、とか、世の中を頭の中で単純化させて、どんどんわかりやすくしてしまう。でも、本当は他人の気持ちとか考えなんて、予想はつかないし、わかるわけがない。わかった気になって、安心したいから、無理やり世の中を単純化してしまうのかもしれません。子供にとっては、でもほとんどのことがまだ「わからない」ままで、だから、絵本は「わからなさ」を恐れずに、言葉をそのままで書いている。わけのわからない世界を生きている子どもに向かって、わけのわからないけどおもしろいでしょ、すてきでしょ、という物語を伝えるのが絵本なのかなあ、と思います。でも、今、そうやって絵本を見ると、ちっちゃい頃にそうした絵本を何も考えずに自然に読んでた自分、ヤバイなって(笑)。

――ヤバイ(笑)。

 子どもってすごいんだな、そして言葉って、本当はこんなに面白いんだな、と絵本を見ると思います。そして、子供の頃のヤバイ感覚がいまだに自分の中に残っているとしたらすごく嬉しいなと思ったりもします。私にとって、詩は、共感とか「わかる」から逃れたところにある言葉なんです。私はずっと、「わかるように話す」とか「友達に共感してもらわなきゃ」とか意識することがすごく苦手で。わかるって、あるのかな、共感ってありうるのかなってどうしても思ってしまうんです。それぞれ違う人生を生きているのに、互いのこと完全にわかるわけがないし、むしろそのわからなさがおもしろいんじゃないかって。詩はそうしたそれぞれの人間の「わからない」ところに、ぎゅっと届く言葉であると思っていて。これは子供のころに、ダイナミックで、生々しくて、そうして親切では決してない言葉に出会ってきたからこそ思うのだと思います。

――それにしても親御さん、そんなに読書家だったんですか。

 本を心底愛していて、ゲームや漫画は家にありませんでした。なので、「本を読みなさい」って空気がこの世でいちばん嫌いでした。

――あ、逆にそうなってしまった、と。

 しばらく本に対する反抗期があって、離れていた時期がありました。小学校に入ってからだったと思います。国語の教科書は毎年配られると先に読んでしまうタイプの子で、文章を読むのは好きだったんですけれど、図書室で本を借りるという行動は、なんだかいい子ぶってる気がして、苦手でした。本を読んでいると親が喜ぶけれど、それはちょっとつまらないし、と思っていて。その頃に漫画を知ったんです。単純に漫画って面白いんだという気持ちと同時に、親は漫画に拒否反応を示していたので「これは自分が見つけた世界だ」という気持ちになってテンションが上がりました。本も普通に自分が見つけていたら、もっと好きになっていたと思うんですけれど、親が知りすぎていて「これはいいよ」「これはいいよ」「これはいいよ」ってやられると......。

――「宿題しなさい」と言われた瞬間する気をなくす心理と似たものがある気が。

 やっぱり、親が知らないけれど自分は知っている面白いものを見つけられたというのが嬉しかったです。それで漫画を読んだりしていたらあっという間に小学校が終わっていた、みたいな感じですね。

――漫画はどのあたりを?

 近所の図書館に『らんま1/2』があったんです。図書館にある漫画といえば『ドラえもん』や『じゃりん子チエ』くらいだったのが、誰かからの寄贈本なのか、全巻はなくて、真ん中の3冊くらいだけありました。「なんでこんなところにあるんだろう」と思いながら読んだのが最初かな。「この世にこんなものがあるんだ」って思いました。途中だけ読んでも面白かったですね。それまで漫画という形式にあんまり接してなかったから、最初は「え、え、え、どう読むの」って(笑)。でも面白かったので、親に「漫画読みたい」って言ったら、「月に1冊だけ買ってあげる」って。それが小学校卒業するまでのルールだったと思います。お小遣いで買うのは禁止で、月に1冊買ってあげるから、それ以外は買うなっていう。
 みんなが「なかよし」とか「りぼん」とか読み始めている頃でした。でも「なかよし」を買うと、もうそれで1冊なんです。『らんま1/2』の新刊が発売されるとそれを買っちゃうから、「なかよし」が読めなくなる。それで何を買ってもらうのかをずーっと悩みながら、小6まで頑張った憶えがあります(笑)。それとは別に学習漫画みたいなものは親が買ってくれるので、歴史の学習漫画とか、「ドラえもんが教える〇〇」みたいなものは読んでいました。

――好きだった漫画は。

 少女漫画を読んでも、恋愛もよく分からなかったのでロマンティックなものはあまり求めていなかったし、戦いたい欲もあまりなかったから、敵をやっつける話もあまり格好いいとは思っていませんでした。その時に、近所のお姉さんが引っ越すからといって佐々木倫子さんの『動物のお医者さん』と、岡田あーみんさんの『ルナティック雑技団』をくれたんです。それがすごく面白かった。『動物のお医者さん』のシュールな笑いとか、あーみんさんのギャグとかには、ものすごく心惹かれていきました。『ちびまる子ちゃん』も何冊かもらったのかな。そこですごく「ギャグ漫画が好き」ってなって、それはずーっと変わらなかったですね。中学校に入ってもやっぱり「ギャグ面白いな」って意識が強かったです。

中1でネットを始める

――では中学生になってからも、漫画が中心でしたか。

 中学に入るとネットを触り始めたので、萩尾望都さんのような、いろんな人が薦める名作や、小学生の視線だと見つからないものがたくさん見つかって、それらを読むようになりました。中学時代に、音楽にも出合ったんです。その頃の出合った本や音楽って、毎日を楽しく過ごすために読んだり聴いたりするものというよりは、むしろものすごく体力を使って接するものとして、夢中になっていました。

――その頃出合った音楽は、どんなものだったのですか。

 BLANKY JET CITYとかナンバーガール、ゆらゆら帝国。あとはっぴいえんどとか。日本語の歌詞で歌っている人たちなんですけれど、わかりやすいメッセージを歌っているバンドではないんです。何を言いたいのか分からない、という人もたぶんいるんだろうなと思います。バイト先か何かのお姉さんにその頃好きだった音楽をMDにまとめて貸したことがあって、そしたら「意味が分からなさ過ぎて、車運転している時に聴いたら事故りかけた」って言われましたから(笑)。確かに分かりやすいことは何も言っていないんですけれど、でも、なんか分かっちゃうみたいな。なんだろう、考えるより先に分かっちゃう感じっていうのがすごくある歌詞が多くて、それが私の中ですごくしっくりきたというか。そこがかっこいいと思ったんです。
 もともと、説明するためだけの文章を読むのが好きじゃなかったんです。漫画が好きだったのも、そういう部分を言葉にしないからだったと思います。モノローグだけ入ってて、説明はないけれどなんか繋がりが分かってしまう、みたいなものがすごく好きでした。音楽の中でもそういうものがあると気づいた時に、言葉を書くっていうのがすごくかっこいいことに思えたんです。

――それまで書くことに興味はなかったのですか。

 小さい頃から言葉を書くのは好きだったんですけれど、作文を書くのは嫌でした。「ここの部分を分かりやすく書きなさい」って言われたり、「この時はどう思ったのか書きなさい」って言われたりして、書きたくないことを書かされるイメージがありました。それが苦手で好きじゃなかったんですけれど、歌詞を読んだら「あ、こういうのでいいんだ」って思えたんです。それまでは、自分の気持ちを他人に教えるために書くことがすごく気持ち悪かったんです。なんで教えなきゃいけないのかって。気持ちって教えるものじゃないのにって。でも、歌詞を見ていたら、「あ、やっぱり教えなくていいんだ、教えなくても見た人や聴いた人が『あ、来た』となる瞬間があるんだ」って思いました。
 当時、ブログをやっていたのですが、そのころから、無理に「伝えよう」としない、ただ書きたい言葉を書く、というふうに変わりました。そうしたら「詩みたいだね」って見た人に言われるようになったんです。そこから、詩の投稿サイトに参加するようになって、「『現代詩手帖』に投稿すれば」って言われるようになりました。私は『現代詩手帖』ってなんじゃらほい、という感じでしたが親は知っていて、「詩とか書くなら『現代詩手帖』に載るぐらい、極めなさいよ」って。「何を言うんだ」と思いましたが、それよりまず「詩ってなんや」と思って本屋さんの詩の棚に行って、本をたくさん手に取りました。それが高校生の時です。

――歌詞に触発されて文章を書き始めたけれど、詩ではなかった、ということですか。そもそも「詩」というものを認識されていなかったんですね。

 そうですね。教科書などで詩を読んで「面白いな」と思ったりはしていたんです。教科書で文章を読むのはすごく好きで。中原中也とか谷川俊太郎とか好きだったし、太宰治とか夏目漱石とかも好きで、そこから本で読んだりもしていたんですけれど。熱心に吸収しようと思って自分から本を探して、浴びるように読もうとしたのは、詩を知ろうとしたあたりが久しぶりでした。

――探して見つけた本というのは、詩集とか?

 その時に見つけたのは吉増剛造さんと田村隆一さんの本だったかな。とにかく「めっちゃかっこいいやんけ」と思いました。私が歌詞でかっこいいと思うのは、1行目と2行目の間で意味が断絶していて、なんでこの2行目が来るのかわからない、でも、わかる、意味よりも早く、胸にどんときてしまう、みたいなものなんですが、田村隆一さんの詩は、その断絶が研ぎ澄まされて、詩そのものが断絶としてそこにある、感じがするんです、「腐刻画」とか最高です。すごく好きでした。読んで、「田村隆一さんみたいな作品を書きたい!」って強く思ったんですけれど、同時に「なれないな」ともわかりました。自分にないものに強く憧れている感覚でした。
 吉増剛造さんも「燃える」っていう作品がすごくかっこよくて。言葉が、言葉であることを忘れさせるほどのスピードを持っているんです。意味なんていい、解釈なんていい、早く次の言葉が読みたい、と目がぐんぐん動く感じ。スピード感があって、言葉の理解を超えたところで突き刺さるものがあって。かっこいい、としか言いようがない詩です。
 でも、みんなあまりにも違っていて、結局、詩は何なのかと思って詩の棚に行ったのに、「詩は......分からん」としか思えなかった。わからん、でもかっこいい、それだけがわかる、って感じでした。だから、書きたいように書くしかないんだな、と思って。
 これまで何度も行っていた本屋さんに、こんなカッコよくて、やばいものがあったんだ、ということを知れたのはすごく嬉しかったです。そこから一気に本嫌いが治るというか、苦手意識がなくなるというか。読むより先に感じ取るみたいなことがオーケーだと思えてほっとしました。

――ところで、ネットに文章を書き始めたのが中学生の頃からってことですよね。まわりの中学生もやっていました?

 私は中1くらいの時にネットを見始めたんですが、周りはまだやっていなくて。当時はテキストサイトが全盛期で、画像はアップすると時間がかかるからあまりやっている人はいないという状態でした。
 感想を言い合う場所もそんなにないから、みんな一方通行で書いているんですよ。もちろん、訪問者の数は出るんですけれど。みんな言うことが勝手で無茶苦茶で、その空気がいいなあ、楽しそうだなあと思ったのを憶えています。聞く人に対して親切に説明しなくてもいい感じっていうか。やっぱり中学になると、みんなと話していると空気を読んで、その場で求められることを言うということが何度もあって嫌だったんですけれど、ネットを見て、そういうのがない世界だなと思いました。それで、自分もやってみたくなったんです。
 その時は、日記サイトをレンタルして書けるみたいな場所で書き始めたんですけれど、でも当時って面白い人しか発信してない空気がありました。面白いか、すごく本を読んでいるとか、すごく変な趣味を持っているとか。そういう特殊な人だけが書いていて、他のみんなはそれを見に行くという状況だったから、ただの中学生が書いた日記なんて何も面白くないだろうとは思いました。だから、日常とかは書かないで、頭の中身をそのまま書くしかないな、って思ったんです。思いついたまま1行目をさっと書いて、そのまま流れで考えるよりも先に書き終わったらオッケー、みたいな感覚だったと思います。

――思考が追いつくまでに書き終える......。

 言葉自体にリズムや勢いがあって、だから、意味なんて意識しなくても、そのリズムで次の言葉が出る、っていうことがあって。音楽のセッションとかと一緒なんだと思います。私はそれがすごく楽しくて、それを味わうために書いていました。だから結果的にできた文が支離滅裂であることも、矛盾しまくっていることもあったと思います。でも、あまり結果は気にしていなくて......。書くって楽しいし、ネットはまだ当時は別世界のようだったし。夢中になっていました。

詩を書き続ける高校生時代

――なるほど。さて、吉増さんや田村さんの詩と出合った後は...。

 その後に伊藤比呂美さんとか谷川俊太郎さんとかも読むと、全部違うじゃないですいか。全部が違いすぎて、詩というものがますます分からなくなりました。
 でも、それが逆に良かったんだと思います。「詩の雑誌に投稿してごらん」って言われてそのまま投稿しはじめたら、「詩ってこんな感じでしょ」って感じで書いていたと思うんですけれど、それが取っ払われてしまったから、やっぱり今まで通りにやるしかなくて、そうすると自分の「書けた」「書けなかった」って直感みたいなものだけが武器になるんです。だから楽しいままでいられたし、その時それでやっていけてよかったなと思っています。
 当時はとにかくずっと書いていたんですが、自分が何を書いているか意識しないようにしていました。何を書こうとかこういうのを書こうとか意識せず、できるだけ「あ、こんな言葉が出てきた、意外。面白い」って思える言葉が出てくるように、頭を真っ白にする、ということを大事にしていました。

――ずっと書いていたというのは、たとえば授業中とかも...。

 いえ、キーボードでないと書けないので。手書きで書いたことはないんです。だから家に帰ってパソコンを開いてからずっと書いていました。

――そんな最果さんを見て、本を読ませたい親御さんの反応は?

 当時はもう「この子は本を読まないんだ」って諦めてました。でも、何かを書いているのは分かるから、「書くなら何か読んで語彙力育てなさい」ってすごく言われました。私は当時、書くのが楽しかったら、そう言われると邪魔されているとしか思えなかったです。

――確かに、どうやって語彙力を養ったのか気になります。

 時々は本を読んでましたよ(笑)。友達にすごい読書家で、太宰治が好きでだいたいいつも文庫本を読んでいるという子がいたんです。音楽の趣味が唯一合ったのもその子なんですが、本も、その子が読んでいると信頼できる感じがして、私も太宰は読みました。読み始めるとやっぱり好きだと思うんですよね。「桜桃」が当時すごく好きでした。他に、学校の教科書や読書感想文の課題がきっかけで読むものもありました。『星の王子さま』とか『銀河鉄道の夜』とか。
 ただ、物語の筋より、文体が好みかどうかが私にとっては大切で。「この本はこのシーンがヤバイ」ということを聞いたらそこだけ読んで「ああ、ヤバイ」って思ったりして。「なんで次にこの文章が入るのかよく分からないけれど、いちばん説得力があるな」と思えるような表現が好きでした。
 高校生の時かな、「もう本はいいっす」という気持ちがピークだった時に本屋さんで町田康さんの『告白』を見かけて、「めっちゃ分厚いやんけ」と思ったんですけれど、パラパラッとめくったらめっちゃ面白くて。話が面白い以前に、言葉が「何これ」って。「内容以外のところで面白いことが起きているぞ、この紙の上で」というのがすごいインパクトで、それから文学にすごくすごく興味を持ちました。
 それと、私が高校生の時に、綿矢りささんが芥川賞を受賞して、やっぱり周りの子たちがそれでざわっとしていたのも、印象深いです。みんな、ちょっと浮き足立つ、というか。

――「私も何かできるかも」って?

 書いてみよう、って思う子はいたと思います。周りでも綿矢さんの本はすごく読まれていました。そういうことがあり得るんだって、私も思って。当時って、他にも若くして活躍する人がすごく多かったんです。宇多田ヒカルさんとかもそうだった。だから、若い自分が何もしないことに対する焦りみたいなことがずっとあったんです。「もう宇多田ヒカルがデビューした歳を越えちゃったよ」とか。「綿矢りさならデビューしてる年齢だよ」とか。ただただ焦っていたように思います。

――大学に進学して何か変化はありましたか。

 バイトするのでお金ができるから、漫画をいっぱい買い始めました。たぶん、毎日1冊買っていた気がします。毎月1冊が毎日1冊になりました(笑)。その頃は名作といわれるものを追いかけるようにして読んでいました。『SLAM DUNK』も読んだし、萩尾望都さんも追いかけていたし。名作は一気読みできるところも好きでした。連載中のものは先を待っていられなかった。
 その頃にいろんな漫画を読むようになりました。鬼頭莫宏さんの『ぼくらの』とか、古屋兎丸さんといった、中学生だと出合わないような漫画に出合うことができました。やっぱり中学校だと貸し借りする漫画って、『ONE PIECE』や『NANA』だったんですよ。大学ではまた違う漫画との出合いがあって、「人間の気持ち悪さをそのままキャラクターにするんや」みたいなのがすごくショッキングで、そこに出てくる言葉もすごく面白かった。
 あとは、その頃にアニメも見始めたのかな。それまであまり接点のなかったものを吸収しはじめたのが大学の頃なので、その頃に「エヴァンゲリオン」も観ました。

詩を人に読まれるということ

――大学時代、詩の投稿はされていたのでしょうか。

 雑誌への詩の投稿は、勧められてから1年くらい経ってから始めました。それまではネットでずっと投稿していて、その後雑誌に投稿して、1年後くらいに現代詩手帖賞をもらって、その1年後に本(『グッドモーニング』)を出して、中原中也賞をもらった、という流れでした。それから数年後に「別冊少年マガジン」で漫画家の人たちとコラボするという連載が始まったんです。

――『空が分裂する』ですね。最果さんの詩に、漫画家たちがイラストをつけている。

 それまでは結構、自分でも何を書いているか分からない状態で書くのを良しとしていたところがあったんですけれど、それだとなぜ自分は発表しているのか分からない感覚になることもあったんです。リアクションもないから、誰も読んでいないという感覚になることも結構あって。というか、自分が読まれたいのかどうかもわからなかった。でも、漫画雑誌にコラボが載るとなると、どうしても読者を意識するじゃないですか。読者のイメージがはっきりあるし、この漫画を読んでいる人がこの流れで自分の詩も読むんだって思うと、今度は読む人の目をすごく意識するようになって、そうしたらすごく言葉が出やすくなったんです。今まではなんで自分が一人で書かずにネットに書くほうが楽しいのかよく分からなかったんですけれど、そこで、自分にとって言葉は、自分の中の心情を吐露するために書くものというよりは、人と人の間にあるものを揺れ動かして相手の何かを動かすものであるんだとはっきりしました。やっぱり読む人がいないと書けないんだなって、はっきり分かったんです。
 私が吉増さんや田村さんや谷川さんの詩を読んで「かっこいい」と思ったのって、別に詩人たちが書こうとしたことを受け取ったらから「すごい」と思ったんじゃなくて、それを読んだことで私の中にあるものが「ぐっ」となって反応したから「すごい」って思ったわけなんですよね。結局、詩を書いて誰かに渡すのが詩人というよりは、読んだ人を詩にしちゃうのが詩人なのかなってすごく思ったんです。その感覚がはっきりしたので、それからは書きやすくなりました。格好いいことを書こうとかいうような意識は要らないけれど、「読まれる」という感覚で言葉を書くとそうなるんだな、と分かりました。

――大学中に第1詩集の『グッドモーニング』を刊行し、それが中原中也賞を受賞したりというのはすごいことだと思うんですが、今、デビュー前後の時期についてさらーっと駆け足で語りましたね(笑)。

 ああ、いえ、ちゃんとめっちゃ嬉しかったですよ (笑)。でもその前に投稿欄で現代詩手帖賞をもらった時がいちばん、心臓にきたかもしれないです。1年間投稿した人の中から選ばれるので、「候補になりました」という連絡もないし、もらえなかったらまた1年同じ投稿を続けるんだと思うとしんどくて、「獲りたいな」って気持ちもあったけれど、なるようにしかならないっていう感覚も強かったような気もします。あんまり憶えていない(笑)。
 やっぱり、本が読まれるって奇跡的なこと。本が出てもそれが本当に読まれるかという不安はありました。でもいちばん憶えているのは、池袋のジュンク堂書店さんで、私の詩集にPOPが付いていたっていうのを、読者の皆さんが教えてくれたこと。すごく嬉しかったのを憶えています。それまではネットに書いて5、6人が「良かったよ」「前のほうが良かった」とかいう感想を上げてくれたり、時々知らない人が私のことを何か書いているのを見ることはあったんですけれど、それくらいの数しかいないのではという不安があったのが、急に、自分の知らないところで窓が開いているみたいな感じがありました。「別冊少年マガジン」の編集さんも、そこで私の本を見つけてなんとなく手に取って読んで、「よっしゃ連載させよう」って思ったんだそうです。本が出たことよりも、本が出たきっかけでいろんな人が現れたことが私の中ですごくインパクトが強かったです。

――では、大勢の人に読まれるというプレッシャーはなかったのですか。

 結果を出さなきゃ、っていうプレッシャーよりは、「載っていいの? 本当に? 大丈夫?」みたいな怯え方をしていたと思います。その後、ネットでもおそるおそる詩を投稿してみたら、想像していたよりずっと反応があって「えっ、ええっ?!」とそのときもすごくビビっていました。
 読む人を舐めていたんだなとも思いました。どうせわからないって思っていたのは、すごくアホらしいというか、馬鹿みたいなことで。自分が詩とか歌詞とか見た時に感じた、書いた人が何を書こうとしているか分からないけれど来ちゃうものがあるという感覚はいろんな人の中にあって、だからこうやって詩集がいっぱい売られたりとか、世の中にいろんな不思議な歌詞があったりするんだな、って。そこがすごく面白いって思ったんですよね。世の中いろんな人がいっぱいいるんだなっていうのをすごく知ったというか。だから、読まれているっていうのを意識すると、むしろ逆にすごく自由を感じます。読む人を信じることが一番、真っ白になる方法なんだなって思うと、半信半疑になっていた時よりも、好きに書けるようになりました。それがすごくいい経験でした。

――ペンネームはいつ決めたのですか?

 高校生の時に、詩の投稿サイトに投稿するために作りました。最初は、ひらがなで「たひ」だけで。その時にちょうど「言って気持ちいい言葉」を考えていて、「たひ」って抜けていて面白いじゃんって思っていたので、それを名前にしたんです。その投稿サイトは掲示板みたいな感じだったので、ひらがな2文字でよかったんですけれど、その後、別のサイトに投稿する時に、結構みんなフルネーム感のあるペンネームだったので、それで苗字を考えて、「たひ」だったら苗字は4文字かなって、なんとなく「さいはて」ってしたら漢字変換で「最果」って出て、「あ、ケバい」って思ったけれど(笑)、何回かしか使わないつもりだったので、とりあえずそれにしました。それに合わせてカタカナのほうが字面がきれいだから「タヒ」にしたというのが本当なんです。そのころは検索したら、「タヒ」ってモンゴルの馬しかでてこなくて。
 でも、すごく疑われるんです。このあと、ネット上でスラングとして「タヒ」がじわじわ使われるようになってしまって。今ではそれが由来に違いないってよく言われてしまいます。否定しても嘘だって言われるし、どうしたらええんや......という気持ちです。言葉はほんと、何があるか分からないですよね......、何が後々流行るか分からない。今はタピオカブームなので「タピる」って言うらしいし(笑)。

詩と小説

――最果さんは詩だけでなく小説をお書きになっていますが、そのきっかけは何だったんですか。

 小さい頃から、お話を書くのは好きだったんです。絵本を読んでいた頃、落書き帳にいっぱい文章を書いていたし、中学や高校の頃も時々書いていたんですよ。その後やっぱり「詩のほうが楽しいかも」と思って書かなくなっちゃったんですけれど。でも、詩集を出してから、編集者さんに「小説を書きませんか」とちらほら言われるようになり、それで書くようになりました。中也賞を獲った後くらいに「群像」さんに小説を書いた時は、あまり詩と小説を区別せず、長い詩を書く感覚で書いていたと思います。詩は読み手に委ねる部分がすごく多いので、自分がこっちのつもりでも読み手があっちにいっていることもあるので、小説として話の筋が分かるよう、ちょっとだけ標識みたいなのをつけて、詩よりは長いものを書いたんです。それが短篇「スパークした」で、大森望さんが2009年の『年刊日本SF傑作選』に入れてくださって、それで大森さんが編者のSFアンソロジー『NOVA』でも書かないかと言われて書いたりして。

――SFは好きだったのですか。

 好きでした。大学時代にクラークの『幼年期の終り』が好きになり、SFを読むようになりました。気持ちを伝えるということと関係のない文章がいっぱいなところが良かった。SF的事実を伝える文章って無機質で落ち着くんです。オーソドックスな作品が好きですね。宇宙人がやってくる、みたいな(笑)。クラークの場合は文章がレポートのようで、ここまで徹底して平熱になれるのもすごいなって思って、好きでした。詩を書いていると、「それがあなたの気持ちなんだね」って受け取られることが多くて、それがすごく気持ち悪かったんです。自分の気持ちじゃないのに。
 それでSFを読むようになったらSFを書かないかというお話が来てしまい、好きだからこそ恐るというか、「今までの書き方じゃあかんやろ」と思い、それで、お話を考えてから書く、ということをやりました。でもその時もマイペースに「この文章が書きたいからこうする」みたいな書き方もしていました。
 それから『死んでしまう系のぼくらに』という詩集を出した後、筑摩書房の編集さんに、「この横書きの感じで小説書きましょう」って言われて。横書きにするならその理由が要るなと思い、手紙ってことにして『星か獣になる季節』を書きました。その時は焦りがなくて、バーッと詩のままに書けたような気がします。その後もいろいろと...。でも、なんだろう、小説って何、っていうところから考えなきゃいけないのが小説家でない自分の哀しいところなのかなあ、とは時々思います。いや、小説家の人も「小説って何」と考えているとは思うんですけど......。どうしても、詩と比較して小説を捉えようとしてしまうのがもどかしいです。ジャンルに境界線はないし、つながっているところもあるんですが、でも、詩のままで小説を書くのは難しくて、それがすごく不自由に思うこともある。でも、そこが振り切れたときって、書いていて、すごく新鮮な面白さがあって。そういうこともあるから、書いていきたいなとは思います。

――先ほど、無機質で平熱のクラークの文章を好きだということでしたが、ご自身ではどういう文章を書きたいですか。

 平熱といえば、「文藝」で柴田元幸さんが海外の名作の冒頭だけ翻訳するという連載をしていて、A・A・ミルンの『くまのプーさん』を訳していたんです。それで改めて読み返してみて、プーさん、すごいなと思いました。二文に一個サービス精神が入っている(笑)。クラークとプーさんは方向性は違うんですけれど、言葉に対する態度が一緒なんですよね。目的に対する実直な感じがすごく好きで。完全に言葉をコントロールしていて、たぶんそれが通常の何倍も言葉のパワーを出している感じがして、格好いいなって思うんです。「プロの仕事だ!」って思って、興奮するんです。自分にないタイプだから憧れるというのもあります。平熱の文章って、簡単に言うとすごく手抜きに見える。そこにコクを出そうとすると、その人の心理が出てきて、むしろべたついてくる。そうじゃなくて、骨太なままでポンって行くところが格好いいなって、痺れた憶えがあります。クラークとプーさんは大学時代、すごく重要な心の2冊でした。今思い出しました。
 だから、クラークみたいな物語をプーさんみたいな文章で書けるようになりたいって思っていて。それは無理なんですけれど。自分が書く言葉で、まず自分が楽しもうと思っている時点でそれは難しいんですけれど。

最近の読書と執筆

――ここ最近の読書はいかがですか。

 小説を書くようになった頃、「長い詩みたいで読めない」と編集さんに言われ、お話を伝えるための文章を入れなきゃいけないのがしんどい、と思う時期に町田康さんの『湖畔の愛』を読んだら、それがめちゃくちゃ、めちゃくちゃ面白かった。もう、吉本新喜劇なんですよ。やっぱり関西の子供って、土曜日は学校から帰ってきて昼ご飯を食べながら吉本新喜劇を見るのが習慣なので、あの話術とノリと勢いは刷り込まれているんです。それが、文学になっちゃったっていう感覚。書かれている内容も面白かったんですけれど、それをすっ飛ばして、「言葉だけでこんなに奥に来んの」っていうのが、改めてすごくショックでした。描かれた心情に共感するとか心を動かされるというよりも、遺伝子レベルで無意識のところに言葉が到達することってあるんだなって、その時思ったんです。読んでいると、感覚よりも体のほうが先に共鳴している感じがして、それがすごく面白くて、やっぱり言葉ってこうだよねって思ったのが、ここ最近一番大きかった出合いかなと思います。
 漫画は、石黒正数さんの『それでも町は廻っている』を何度も何度もずーっと読んでいます。細かいところまで本当に「プロだ!」と思わされる。物語の隅々にまで血が通っていて、その細やかさによって生まれる、軽やかな楽しさがたまりません。ある町を舞台に描いているのですが、町って人が作るもので、人によって血が通っていくものだと思います。この漫画はまさにそういうふうに作られていて、だから町がただの物語の「舞台」ではなくて、大きな主役として存在している。町に遊びにいくように何度も読んで楽しんでいます。他も、読み直すことが多いです。萩尾望都さんの漫画を読み直して「え、こんなヤバイこと書いてあったんだ」みたいに、後々分かるということがすごく多くて。萩尾さんだと『トーマの心臓』が好きです。あと、益田ミリさんの作品も、どんどんしみてくる。読むたびにしみてきて、最高です。連載中だと板垣巴留さんの『BEASTARS』は、新刊を読むたびに、歴史的名作が生まれる瞬間に、今、私は立ち会っているのでは?と思わずにはいられないです。
 大人になってから急にしみこんでくる作品ってあって、たとえば高橋留美子さんの『めぞん一刻』とか。子供の頃は全然知らなかったし、あんまり興味も持てなかった。でも今読むとすごく、すごくよくて......。そういうものってありますよね。昔興味がなかったものが面白く読めたり、逆に昔好きだったものがそうでもなくなったり。
 それこそ谷川俊太郎さんの『はだか』っていう詩集は、大人になってからのほうがすごさがよく分かるようになったというか。「もう今の自分はある程度物事が見えているぞ」という気持ちについなってしまうんですが、『はだか』を読むと何も見えていなかった頃を思い出して、「あ、今もこうやわ」っていう気持ちになる。前は他の詩集のほうが好きだったけれど、『はだか』が好きになったのは大人になってからですね。

――本を読むのはどんなシチュエーションが多いですか。家とか、移動中とか......。

 家が多いです。だいたい夜に読み始めるんですけれど、町田さんとかのせいで、寢れなかったことがよくあります(笑)。

――面白すぎて朝まで読んでしまうという(笑)。創作についても教えてください。さきほど手書きはしないとのことでしたが、最近は...。

 スマホです。7割スマホですね。家で静かな時間に書くのは無理で、うるさいところがいいんです。ラーメン屋さんに並んでいる時とか、喫茶店でよく書きます。
 「さあ、やるぞ」ってなると、詩っぽくやりましょう、みたいなものを書いてしまうので、頭が真っ白にならないとできないんです。できるだけ集中できないようにするとむしろ集中するという習慣があります。没入感がすごくあるので、うるさいところのほうがいいんです。

――詩の推敲はしますか。

 私は書いた時の感覚が正解のように感じてしまうので、怖くてあまり変えられないんです。昔よりはだいぶマシになりましたが。昔は、なんとなくバーンと作って、勘で「なんか分かないけど、いい!」「悪い!」ぐらいしか判断できなかった (笑)。今は、ある程度時間を置くと他人の感覚で読めるようになるから、すこしは手が入れられるようになりました。

――スマホだと、フォントやデザインの工夫ってそんなにできないですよね。でも最果さんの詩集は昨年刊行された『天国と、とてつもない暇』をはじめ、いつもデザインがとても素敵ですよね。あれは?

 フォントはデザイナーさん任せです。改行位置は私が決めていますけれど、それは書き終わってから決めるので、書いている時はだいたい横書きでワーッと。そこから、人が読む時にいちばん自分が書いているリズムに近くなるようにと考えて、縦書きにするか、横書きにするかを決めて、改行位置を決めて。あとはデザイナーさんに任せます。

――さて、今後のご予定は。

 夏に新しい詩集が、リトルモアさんから出る予定です。それと小学館の「きらら」で連載していた小説も、本になる予定です。結構手直しをしようと思っているので、ちょっと時間がかかってしまっていますが......。がんばります。

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