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作家の読書道 第208回:葉真中顕さん

ホラー要素とオカルト要素

――このインタビューは、幼い頃からの読書遍歴をなめるように聞いていく内容でして...。

 この何日間か、読書遍歴をまとめておこうとメモをとっていたんですが、これがもう、記憶の蓋が開く開くで...(と、メモの紙を取り出す)。

>「作家の読書道」のバックナンバーは「WEB本の雑誌」で

――わあ、たくさん書きこまれていますね。ありがとうございます。

 僕、自分のことはそんな読書家とは思っていないんですね。特にこの仕事をするようになって本当に一日一冊読んでいる人が普通にいるんだと知りましたが、僕はそんなに早く読めないので、作家の中では読む方ではないと思っていたんです。でもこうやって読んできた本のことを幼少期から思い出すと、「あ、常に傍らに本があった人生だったな」って。他にも映画とか大事な要素はあるし、そんなに何万冊読んでいるタイプじゃないけれど、それでも僕の人生は本で形作られたんだなっていうのを改めて思いました。なのでインタビューを受ける前ですけれど、自分を振り返る貴重な時間をいただけたかなって思っております。ありがとうございます。

――そう言っていただけると嬉しいです(感動)。では、まず、いつもいちばん古い読書の記憶からおうかがいしているのですが...。

 就学前の字を覚えたての頃に、父親が毎日読み聞かせをしてくれたんです。「まんが日本昔ばなし」の小冊子が全200冊くらいあるんですけれど、あれを1日1冊寝る前に読んでもらっていました。僕はその時代の記憶がほとんどないんですけれど、全冊を3周くらいしたそうです。そうやって物心がつく前に物語を大量インプットしてもらったというのは、もしかしたら文化資本的に今の仕事に繋がる自分を作ったのではないかな、というのはあります。

――では、自分で本を読むようになったのは。

 自分の意志で読む行為をしたのはたぶん、幼稚園の頃に絵本なんかだと思うんですけれど、明確に憶えているのは小学校に上がってから、小学館の学年雑誌を毎月、おじさんが買ってくれて。

――「小学一年生」とか「小学二年生」とかですよね。

 そうです。あれをずーっと買ってくれたんですよ。その学年誌で『名たんていカゲマン』っていう、山根あおおにさんという方が描いた漫画が載っていて。ダジャレで推理するような、本当に子供向けの内容なんですが、それがたぶん、ミステリー事始めだったんじゃないかなと。コミックスも買ってもらっていたと思います。
 それと前後くらい、就学前後の頃、勁文社が作っていた「大百科シリーズ」とか学研の「〇〇のひみつ」といった、大百科シリーズをよく読みました。小学館から水木しげるさんが妖怪の大百科を何冊か出していて『妖怪なんでも入門』とか『妖怪おもしろ大図解』とか。これが大好きでした。その頃はまだ『ゲゲゲの鬼太郎』を知らなかったんですが、子供だからヘンな妖怪がいっぱい出ているのが面白くて。ひとつ鮮烈に憶えているのが「妖怪きんたま」っていう。

――(一同)えー(笑)。

 子供はそういうのが大好きですから(笑)。大人になってから、火の玉のことを昔は「きんたま」と言っていたり、お酒のことを「きんたま」って言っていて、それが転じて男性器のことになったと知ったんですけれど。それと、水木さんの大百科には解剖図が載っていたんですよ。人間なら心臓とか肺があるところに、妖怪ならではの、胃がたくさんあったり、変な「ナントカ袋」があったりして、そういうのもドキドキしました。

――東京都生まれだそうですが、どちらだったのでしょう。

 多摩の方です。もうずっと東京の西側に住んでいます。

――振り返ってみて、わんぱくな男の子だったのか、それともおうちで本を読むのが好きな子供だったのでしょうか。

 やっぱりインドアですかね。ただ、わりと子供の頃は同調圧力に弱いタイプで、本当は嫌だったけれど仲間外れになりたくなくて、外でゴムボールで野球をやったりもしていました。運動神経はあまり良くなかったので、本当は家で漫画や本を読んだりテレビを見たりするほうが好きだったかなと思います。小学校の頃は完全ソロプレイはあまりしていなくて。一人でいろいろするようになるのは、もうちょっと大人になってからでしたね。

――テレビや漫画というと、その頃はどのようなものを。

 テレビはアニメをよく見ていました。それと、テレビ朝日でやっていた「パオパオチャンネル」とか、もっと幼い頃だと「ポンキッキ」とか。小学生になってからは漫画をよく読むようになりました。その頃うちの近所にコンビニと図書館ができたんですよ。コンビニで漫画を読んで、活字の本は図書館で読むのが子供ながらのライフスタイルになりました。子供だからって言い訳していいのか分からないけれど、コンビニでは店員さんが煙たがっているのを無視して、「ジャンプ」「サンデー」「マガジン」「チャンピオン」という4大少年誌を全部読んでいたかな。追い出されなかったし、僕以外にも読んでいる人がいたので、そういう時代だったのかもしれません。「ジャンプ」全盛時代ですから、掲載されている漫画がアニメになってそれを見るパターンがすごく多かった。『Dr.スランプ アラレちゃん』とか、『キン肉マン』とか。「ジャンプ」じゃないけれど『ドカベン』も再放送だったと思うんですけれど見て、アニメも漫画も好きでした。もちろん『ドラえもん』や『サザエさん』も見ましたね。あとそうだ、テレビ番組といえばオカルト。小学校時代の真ん中あたりから、妖怪好きからの影響かもしれないけれど、すごくオカルトに興味が湧いてきて。夏休みとかに必ずやる「あなたの知らない世界」を見ていました。それで、新倉イワオさんという、その番組を構成されている方の本を図書館で借りて読んだりしました。他に、水木さんの大百科の後で『ゲゲゲの鬼太郎』を読むようになって。KCコミックス版はまあまあソフトなんだけれど、その前身の『墓場の鬼太郎』とか、『新ゲゲゲの鬼太郎』はハードな話が多くて、ちょっと哲学的だったりもしましたね。それと、つのだじろうさんの『うしろの百太郎』とか『恐怖新聞』なんかも好きでした。

――不思議な話や怖い話が好きだったのですね。

 幽霊みたいな話も好きだし、不思議な話だと思ったら人間がやってました、というミステリーチックな種明かしがある話も、両方好きでした。だから今の言葉でいうと、ホラーとミステリー、両方の要素がこの頃から好きだったんだなと思います。オカルト好きとしてよく憶えているのは、家に五島勉さんの『ノストラダムスの大予言』があったので、怖いけれど読まずにはいられず、読んで不安になっちゃって。はじめて読んだ時、僕、泣いたらしいんですよ。
 それと、小学校高学年で「週刊少年マガジン」で『MMR』というのが始まるんです。「マガジンミステリー調査班」ですね。ノストラダムスの大予言とか、その手の話がまことしやかに描かれている。今はもう「MMR」ってネットスラングになっていますが、当時の僕はもう真に受けて、「マガジンですごい漫画が始まった」と思っていて。あれは後に大編集者になる樹林伸さんをモデルにしたキバヤシっていうのが隊長で、毎回「これを調査するぞ」といってその手の話を断定口調でガンガン攻めて紹介していて。悪の秘密結社みたいなのが世界中にいくつもあるとか、宇宙人がキャトルミューティレーションをやっているとかを読んで、僕は「こんな陰謀があるんだ!」「そうだったんだ!」って。こういうのを「ビリーバー」って言うんですよ。僕、完全にビリーバーの道を歩み始めていました。

――1999年に自分は死ぬんだって思ってました?

 そう、そうです。ノストラダムスの他にもイナゴの大群がどうしたとか、世界中の海が干上がって魚がどうこうとかで、地獄が出現するといった黙示録的な要素があって。自分が死ぬことももちろん怖いんだけど、世界に地獄が出現するってことが怖かった。しかも、僕が小学生の頃だとまだ冷戦構造があったので、世の中に核戦争の恐怖がリアリティとしてあったんですよ。子供心にもそれは分かるから、本当にアメリカとソ連が戦争を始めて何かあるんじゃないかとも思っていました。

図書館、コンビニ、レンタルショップ

――学校の課題図書になるような本は読みませんでしたか。

 あったかな。課題図書ではないんですけれど、小学校の時に先生のおすすめ本があって、それは素直に面白かった。斎藤惇夫さんの『冒険者たち』っていう。

――ガンバと15ひきの仲間ですよね。ネズミたちの話で、「ガンバの冒険」というタイトルでアニメ化もされた。

 そうそうそう、「ガンバの冒険」の原作なんですよね。これは本当に感動したっていうか、あんまり面白かったのでシリーズ全部読みました。ガンバのアニメも知っていたんだけれど、僕は原作のほうがいいなって思っていました。それで思い出したんですけれど、後に中学生くらいで授業で勧められるような本も、小学生のうちにわりと図書館で読んでいたんです。当時の漫画、特に藤子不二雄先生の作品なんかは結構文学作品が出てくるんですよね。たとえば『ドラえもん』の中で、のび太が『十五少年漂流記』をものすごく面白いって言って読んでいて。「のび太が読んでいる本、面白そうだな」と思って自分も借りて読んだりとか。あと、当時「少年ジャンプ」に『飛ぶ教室』っていう、核戦争後の世界で子供たちが生き抜く漫画があって好きだったんですけれど、図書館に行ったらケストナーの『飛ぶ教室』がある。有名な児童文学だってことを知らないので、同じタイトルだと思って借りて読んだら、内容は全然違って寄宿舎の話なんですけれど、面白かった。それらは後に、中学校の夏休みの課題図書になっていましたね。なんだかんだ言って、小中学校の時は図書館にずいぶんお世話になりました。ちなみにその図書館で、篠田節子さんが働いていたという。

――えっ!

 司書ではなくて、市の職員で図書館勤めだったんですね。オープニングスタッフだったそうです。ご本人にお会いした時もちょっとお話ししたんですけれど、時期が重なっているので、100%、会っているはずなんです。もちろんお互い憶えているわけないんですけれど。

――そんなことが。さて、読書感想文や作文など、文章を書くのは好きでしたか。

 作家という職業があると気づいたのが小学校の高学年くらいでした。学校で読書感想文なんかはそれなりに書いていましたけれど、それとは別に初めて短篇小説を書いてみようと思ったんですよね。実際書けるわけじゃなくて最初の10行くらいで挫折しちゃうんですけど。ともあれ、書いてみようと思ったきっかけがはっきりあって、まず赤川次郎さんが好きだったんですよ。ちょっとだけ経緯を説明しますね。

――ぜひお願いします。

 おそらくこのコーナーの最多登場作家は星新一さんじゃないかと思うんですが、僕ももちろん読みました。短くてオチのあるショートショートがすごく好きで、図書館のショートショートコーナーを順番に読んでいくということをやったんです。そしたらそこに『二人だけの競奏曲』という、横田順彌さんと赤川次郎さんが同じテーマで1本ずつショートショートを書いた本があったんです。横田さんも突然ダジャレが入ってきたりして面白かったんですけれど、赤川次郎っていう人の書くものは僕にすごく合うなと思って、「ちょっとこの人の書いているもの、他にも読んでみよう」となり、図書館にあった「三毛猫ホームズ」のシリーズや『三姉妹探偵団』、「四字熟語」シリーズなんかを読んで、ドはまりしたというか。はじめて作家読みをしたのがたぶん、赤川次郎さんです。それで、赤川さんの『ぼくのミステリ作法』という作家エッセイを読んだら「僕はこんなことを考えながら書いています」などと書かれている。それで「あ、そうか、当たり前だけど、この赤川次郎という人は作家で、職業で、こうやって小説を書いてこの人は生活しているんだな」って。それで、自分も書けるものなら書いてみたいなって思ったんです。漫画も好きだったから、同じように「漫画を描くっていう仕事もあるんだな」と思い、ノートの端っこに俺ストーリー、俺漫画を描き始めました。でも小説は結局、子供の頃は1作も完成しなかったですね。内容はミステリーっぽいもの、ファンタジーっぽいものでした。オカルトも好きだから主人公が幽霊になっちゃうものとか、宇宙人にさらわれるとか、そんなものばっかり。北杜夫さんの「さびしい王様」シリーズも同じ頃に読むようになっていたので、王様ものを自分でアレンジしたりして。でも、どれも設定だけ作って書き始めて、途中で嫌になっちゃうっていう。まあ、子供ですからね。それが事始めというか。

――小さい頃は同調圧力に負けていたということで、その頃には一人で行動されるようになっていたのですか。

 そんなこともないですね。子供って、なんであんなに時間があったんだろうっていうほど時間がありますし、なんだかんだいって友達と遊んで帰ってきた後に一人で書くという形でした。でも高学年になるとみんな習い事を始めたりして忙しくなるし、本当に野球をやる奴はリトルリーグに入ったりするから、みんなで集まって野球するのも週1回くらいになるので、少しずつ一人で行動するのが自然になっていました。僕、誘われたら断らないけれど、自分からは誘わないので(笑)。それで小学校の高学年、中学生くらいは家で本を読むことが増えていったのかな。

――その頃はどんな読書を。

 読書ではないのですが当時の大事件として、コンビニと図書館に加えて、レンタルビデオショップが近所にできたというのがあります。これで僕を形作った文化資本が全部揃った(笑)。レンタルビデオを観るようになって、家で過ごす時間が増えました。まあ、ファミコンも大ブームでしたから、当然やっていましたし。

――映画はどんなものを?

 強烈に憶えているのはまず、「バック・トゥ・ザ・フューチャー」ですね。僕を虜にした最初の作品です。当時、80年代後半から90年代の超大作、「ゴーストバスターズ」や「ターミネーター」など一通りレンタル屋さんで借りてみたけれど、「バック・トゥ・ザ・フューチャー」は「ああ、こんな世界もあるのかって」って。マイケル・J・フォックスも大好きになって当時出演していた映画はだいたい観たかな。「ドク・ハリウッド」とか「摩天楼はバラ色に」とか。映画から本、というパターンも増えて、中学生の時だったか「ネバーエンディング・ストーリー」を観て「原作があるらしい、しかも映画になっているのは原作の半分以下らしい」と聞いて、エンデの『はてしない物語』を読んで。あれって今思うとメタ小説ですよね。おそらくはじめてメタ小説のような仕掛けのある小説を読みました。図書館にあったハードカバー版で読みましたが、本の装丁からして仕掛けになっているんですよね。

――そうなんですよね、あれ感動しますよね。

 それがすごいなと思って。物体としての本の良さというのをあれで知りました。それでお決まりのパターンとして、エンデの『モモ』や『サーカス物語』を読んでいって。そんなふうに、映画から本、漫画から本というパターンが結構多いんです。もうちょっと先になって高校生くらいだったと思うけれど映画の『ミザリー』を観てスティーヴン・キングを読むというパターンもありました。

ゲームブック、サブカル

――学校で薦められる古典的名作はいかがでしたか。

 国語の教科書に出てくる小説は、よく選ばれていますよね。子供相手だからといって舐めていない作品をぶっこんできているパターンが多いと僕は思っています。印象的なところでは宮本輝さんとかは教科書で知りました。でも当たり前ですが、自分で発見する本のほうに強く惹かれますよね。そうだ、中学生だった頃、ゲームブックも全盛期だったんですよね。ロールプレイングゲームができる本。「ソーサリー」とか「グレイルクエスト」というシリーズがあるんですけれど、一番好きだったのは「ギリシャ神話アドベンチャーゲーム」というシリーズ。アテネの王テセウスの弟という設定のアルテウスが活躍する三部作があって、すごい大冒険なんですよ。兄のテセウスがミノス王の宮殿で死んじゃって弟が復讐に行くという話です。そのミノス島まで行って、陰謀を乗り越えて、最後にミノタウロスをやっつけてお姫様を救い出すという冒険活劇が1部、2部で、第3部に『冒険者の帰還』というのがあるんだけれど、そこで突然ですね、「ミノス王を殺したお前は穢れている」「親族を殺した人間とは結婚できない」と言われてお姫様と結ばれなかったりして。故郷に帰ると故郷はもう滅ぼされていた、みたいな話になっていて、最後全然スカッとしないんですよ。それが強烈だなと思って。「なんだこの虚無は」って。終わり方がめちゃくちゃ心に残りましたね。まあ当時「虚無」という言葉は使ってないと思いますが、「ああ、こういう物語があるんだな」と。それから結構、ギリシャ神話にも興味を持ちました。これもまたフィードバックされるパターンなんですけれど、ゲームブックからギリシャ神話を読んだり、あとゲームブックの中にアーサー王とかエクスカリバーが出てくるから、『アーサー王と円卓の騎士』なんかを図書館で借りて、ファンタジー世界にちょっと触れました。もともとオカルト好きというのがあったから、そういうものとも相性は良くて、それで読んでいくといろんな本の中に必ず出てくる1人の男の名前がある。トルーキン。『指輪物語』の作者ですね。で、絶対読まなきゃと思って読み始めて途中で挫折するっていう。

――第1巻で、ですか。

 第1巻、「旅の仲間」の段階で「わ、読みづらっ。ごめんなさい、僕、これ無理です」って。『指輪物語』の最初の挫折というのが中学校の時にありました。

――最初の挫折というと?

 あ、都合3回挫折しているんです。で、結局、最後はピーター・ジャクソンによって救われました。

――ああ、映画化された『ロード・オブ・ザ・リング』、ってことですね(笑)。

 それと、中3の時から『VOW』を読んでサブカル趣味というのが始まりましたね。『VOW』って分かりますか。

――雑誌の変な誤植とか、町の変な看板とか紹介していた、あれですよね。

 そうです。あれに中学3年生の時に出会って、目から鱗で。世の中をちょっと端っこから眺めて面白がるみたいな姿勢ですよね。それがきっかけでサブカル趣味がはじまり、現在まで続いています。いろんな漫画とか映画とか小説とか、これまでなんとなく好きだなと思っていたものが、「サブカルチャー」という言葉でまとまるなと感じたんです。オカルトとも相性がいいですし。高校時代になると「宝島」も読みました。「Quick Japan」なんかはちょっと難しかったかな。高校生でそうしたサブカル文化に触れると、ちょっと背伸びしたくなるというか。難しそうな本も読んでみたい気持ちが芽生えました。太宰治を集中的に読んだのも高校生の時だし、あとは安部公房。太宰と安部公房は高校の時の現国の先生がすごく薦めていたので読んでみようかなと思って。当時僕は、安部公房は完全にホラー読みしていました(笑)。『砂の女』とか。

――旅先で砂に囲まれた家に閉じ込められて、出られないっていうホラーですか(笑)。

 最っ高。怖い。存在の不確かさみたいなのってある種のホラーじゃないですか。安部さんがずっと書いている世界ですよね。それと、こっちはドエンタメなんですけれど、さっき言った「ミザリー」を観てスティーヴン・キングに触れて、僕はいわゆるキング中毒にはならなかったんですけれど、そこから海外のエンタメ、思い出せるところで言うとジェフリー・アーチャーとかマイケル・クライトンあたりの小説、あと、今になって人に言うと笑われるかなと思うけれど、シドニィ・シェルダン。

――"超訳"という触れ込みでベストセラーになってましたね。

 大好きでした。その"超訳"という方法論がとんでもないものであるってことは当時の僕は知らないので、でも、今思い出しても話は面白かったと思うんですよね。あと、現代的なフェミニズムに通じるテーマや、宗教の話もあったりして。
 それと、「サブカルから入って背伸びしたくなる」の延長で、当時ベストセラーになっていた『ソフィーの世界』を読みました。哲学の話ですよね。面白く読んだか思い出せないんだけれど「俺読んでんだ」って言いたかったんだろうなと思いますね。その後で橋爪大三郎さんという学者の『はじめての構造主義』という講談社現代新書の本を読んで。現代思想みたいなものにもちょっと興味を持ちました。サブカル近辺の本ってそういう話が出てくるんですよ、構造主義がどうしたとか。

――ああ、ポストモダンとか。

 そうです、まさにポストモダン。構造主義の先にポスト構造主義があって、そういうようなものもちょっと触れました。そういう哲学的な要素と従来好きだったオカルトが若干僕の中で混ざっていて、サブカル文脈でいうとヒッピー文化とか、精神世界にも興味を持ったりして。思弁的、哲学的に物事を考えるっていうこととオカルティズムがやっぱり相性が良かった。当時、今はもうないんですが中野に「大予言」っていう古本屋さんがあって、これ、オカルト好きの人なら絶対に知っている本屋さんなんですけれど、ちょいちょい行って、面白い本がないか探して、とんでもない陰謀説の本とか見つけていました(笑)。

18歳で読めてよかった青春小説

――どんどん興味の対象が広がっていきますね。

 そうやって読書の幅が広がっていくなかで、僕の中で大きかったのが、高校生の時にちょっと背伸びして大人が読む本を読もうということで手に取ったドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』。「すごい、俺は今、すごいものを読んでいる」と、これは本当に思った。当時、宗教とか哲学とかに興味を持ち始めた時でしたから。スメルジャコフって男が出てくるんですけれど、彼の言説っていうのが、これまで読んだエンターテインメントの悪役ともちょっと違う宗教的バックボーンがあってこその思想の分厚さがあって。それと同じ時期、受験勉強するふりして読んでいたのが村上龍さんの『コインロッカー・ベイビーズ』で、これもものすごい衝撃でした。頭をぶん殴られたような。村上龍はこの時に、当時出ている本を一通り読んだと思います。まだ当時、女性と付き合ったこともないくらいなんだけれど、セックスの話も沢山出てくるので、それも含めて大人の世界を知った気がしました。『限りなく透明に近いブルー』なんて乱交パーティの話だったりするんだけれど、「俺、もうこれくらいの小説は全然読むから」とか、『イビサ』を読んで「ああ、イビサ、俺もいつか行くよね」とか(笑)。そういう完全に駄目なサブカル読みをしつつも、村上龍を読んですごく開放感があったんですよね。それが18歳の時。あの時に青春小説の『69 sixty nine』を読めたのもすごく良かった。青春の当事者として読めたというか。たとえば今読んでも感動はあるかもしれないけれど、それはやっぱり懐かしむ形で読んだだろうし、もうちょっと早く読んでいたら「俺の未来にあるかもしれない話だ」と思ったかもしれない。けれど18歳で読んだ時は、本当に主人公のケンっていう子がどこかにいるんじゃないかっていう感覚があって。高校生の時に村上龍体験ができたというのは、僕の中では太いというか厚いということだったかなって、今思い出して、そう感じます。

――その頃、作家になりたいという意識はありましたか。

 そうですね。この頃は、なりたいと明確に思っていました。だってネタ帳を作っていましたから。「こんな小説を書いたら面白いかもしれない」っていう、キャラクター表をノートに書いたりとか。それも村上龍との出合いが大きかったからだと思います。やっぱり彼は早熟の天才でしょう。若くしてデビューして、デビュー作で芥川賞を獲って。その時に天才信仰を植え付けられたんですよ。当時の僕はまだ若者特有の万能感があったから、「俺も」って思ったわけです。芥川賞と直木賞の違いも知らないから、そういう文学賞があるなら両方獲ろうと(笑)。そして「笑っていいとも!」に出るんだ、と。

――あはは。芥川賞・直木賞の先に「いいとも」があるという(笑)。

 タモリさんと何を話すかも結構真面目に考えていました。高校生から大学生半ばくらいまではそうした万能感と閉塞感、両方がありました。遠いようで近い、そのふたつの感情が自分を支配していたような気がするんですよね。そういう意味では、村上龍さんは僕を悪くしたかもしれない。

――大学では何学部に進まれたのですか。

 教育学部なんですよ。大学では映画研究会と文学同人会に入りました。大学でまさにいろんなことが自由になって、それからもう人と無理に付き合うことはしなくなりました。スポーツとかキャンプとかに誘われても「行かない」ってできるようになったのが大学くらい。一人でご飯を食べるのが全然平気になったのも、この頃か、高校生の後半くらいからかな。完全に孤独が好きなわけじゃないんです、寂しいこともあるし人と遊ぶけれども、独りでいるのも好きだという。
 大学時代が人生で一番本を読んだ時期なのは間違いないです。読書の幅も高校生の時以上に広がりました。それまであんまり食指が動かなかった、大きな事件が起こらないタイプの小説なんかも人に薦められて読むようになって、「あ、これも面白いんだな」と。
 特に、鷺沢萠さんの小説がすごく好きになりました。きっかけはたぶん『愛してる』という短編集。大きな事件が起きない、激しくない話でも、ここまで人の心を揺さぶる文章があるんだなっていうのを教えてくれたのが鷺沢さんです。鷺沢さん、在日コリアンの話も書いていますよね。僕は小学生時代に在日コリアンの友達がいたんです。でも子供の頃はよく分かってなかった。彼が「俺、日本人じゃないんだよね」って言ったことがあって、その言葉の意味が、大学生くらいになって分かりました。授業でも教わるようになるし、大学では在日コリアンのグループみたいなものもあったし、多様な在り方があるんだなって気づきはじめたのがこの頃。ちょっと遅いのかもしれないですけれどね。
 僕は1994年に大学に入学して、95年に地下鉄サリン事件があって。当時はまだバブルの残り香があって、でもとてつもない社会の閉塞感があって、その頃に自分の人生の中でも一番多感な時期を過ごしたから、結構この頃に読んだもの、触れたものっていうのは今でも憶えているっていうか。ちょっとね、黒歴史的なところも少なくないのですが。

――黒歴史ですか?

 サブカル趣味が最初のうちはよかったんですよ。よかったというか。面白サブカル本ってあるんですよね。『大映テレビの研究』とか『マンガ地獄変』とか。そこからさっきいった中野の「大予言」なんかで、ちょっとニューエイジのものに興味が出てきて。別にやってはないですけれど『マリファナ・ハイ』という非常に有名な本とか、『パラダイム・ブック』っていう、「これから世界は変わるんだぜ」っていう感じのことが書かれてある本とかを読んだりして。オウム事件が起きた時に、「俺はあそこにいたかもしれない」ってちょっと思ったわけですよね。「これはもしかして危ない方向なのか」と思いつつ。
 さすがにこの頃になると『ノストラダムスの大予言』なんかは「これおかしいんじゃねえの」って気づいて(笑)、『MMR』とかも完全にネタ化していて。だけど1999年が近づくにつれてオカルト商法みたいなものがすごく世の中に出回っていて。それをしり目に現代書館の「フォー・ビギナーズ」という、主に人文系の思想家とかのムック本シリーズを読み漁ったり、「別冊宝島」の『いまどきの神サマ』って宗教の本とかを読んで、知識を溜め込んではいるんだけど、どこかまだビリーバーであることを抜けられていない感じの大学生でした。
 それが、95年に『トンデモ本の世界』という本が出版されて、「あ、笑ってよかったんだ」って(笑)。信じないで笑い飛ばしてよかったんだって。これは本当にエポックメイキングでした。ちなみに僕、学部は理系だったんですよ。物理なんです。だから学問的にはオカルトを信じようもないところにきていたんですよ。だけど、どこかにあれを信じている自分を否定しきれていないところがあって。たとえば「生まれ変わりってあるんじゃないか」という気持ちがなかなか抜けなかったりして、でも『トンデモ本の世界』を読んで「いや、笑おうよ」って。本当にゲラゲラ笑いながら読んでいたんですけれど、長年抱えていた呪いが解けたような感覚がありました。と学会の変遷もいろいろありますが、でも当時、20代の学生だった僕にとっては、感謝の読書体験だったかなと思っています。あの本で懐疑主義というものを知って「疑うって悪いことじゃないんだ」っていう当たり前のこと、本に書いてあることにも嘘があるんだってことを「そう思っていいんだ」と思えました。

映画と小説

――映画研究会と文学同人会ではどういう活動をされていたんですか。

 最初に入ったのは映画研究会だったので、それで映画を作り始めて、自分でシナリオを書こうということになって。この時に「別冊宝島」で出ていたシド・フィールドという人の『シナリオ入門』を読みました。「三幕構成」というハリウッドで使われているシナリオの書き方が詳しく書かれている名著で、それを読みながら実際に三幕構成で脚本を書いてみたりしました。その時に、「話を作る、書くって、技術なんじゃないの」って思ったんですよね。それまで村上龍さんへの憧れから天才信仰がありましたが、だけど、自分で書くために勉強してはじめて、それまでセンスとか才能だといって片づけてきたことのかなりの部分は、実は習得可能な技術なんじゃないのって思ったんです。スポーツと一緒で、もちろん個人差や上手い下手はあるけれども、基本的にメソッドに則ってやれば、ある程度できるようになることなんじゃないの、と。実際、その三幕構成を知っているか知らないかでだいぶ違うと僕は思います。
 それで映画の脚本を書くようになって、8ミリフィルムで映画を作ったりしていました。映画を作りながら文学同人会では同人誌を作るために、ちょっとしたサスペンス小説みたいなものも何本か書きました。話が前後するんですがその前に、その文学同人会で「村上龍が好きだ」と言ったら、先輩から「じゃあこれも読まなきゃ」と言って澁澤龍彦とバタイユを薦められて。

――ああ、なるほど。

 これがドスト氏以来の、第2の「ズガーン」ですよ。バタイユの『マダム・エドワルダ』を読んだ時に、本当にものすごいものを読まされているという感覚を味わいました。龍体験とも似ていたのかな、すごい発散、解放の魅力というのがありました。最後にヘーゲルが出てきたりするのでバタイユの書いていることを一から十まで理解できたかどうか分からないんですけれど、でもその発散と解放が、20歳の鬱屈と万能感、90年代の閉塞感、それら全部に対するカウンターみたいに思えて「これだよ!」って感じたんですよね。で、同人誌にはそういう小説を書きました。

――どんな小説ってことですか。

 まあ、暴力小説。暴力と、恥ずかしいんですけれど、大して知らないくせにセックスが出てくる(笑)。本当に「あ、村上龍なんですね」「あ、バタイユお読みなんですね」っていう感じの。いや、ちょっと、本当、恥ずかしい、やばい、ちょっと...。

――あはは、本当に照れてますね(笑)。

 当時は真剣だったんです。そもそも同人誌なのでそんなに長いものを載せられないですからショートショートと短篇小説の間くらいの分量で。そこから文学や小説のことを勉強しようと思って、筒井康隆さんの『文学部唯野教授』を読んで、それからテリー・イーグルトンの『文学とは何か』という本で文学理論や批評理論にはじめて触れて、これもちょっと僕の中ではエポックで。さっきの書くことと一緒で、読むっていうことも実は技術があるんだと知りました。深い読みとか裏読みとはまた別に、批評的な読み方があるという。これまで国語の授業ではテキストに関してある種の正解を探すというか、「作者は何を考えていたのか」を当てさせていたけれど、それだけじゃない。読むとい行為にもいろんなレイヤーがあって、テキストそのものが社会的にどんな意味を持つのかとか、テキストに無意識のうちに編みこまれているものは何なのかを探っていくような読み方があるんだと知りました。そういうロジックをもっと勉強しようと思い、文系学部の授業に潜り込んだりして。
 読み書きの世界にも感性とかセンスだけではない技術。努力や訓練や勉強によって向上する要素があるという気付きを大学時代に得たというのは、今でも大きいかも。ただ、映画と小説では、映画の方が当時はうまくいったというか。実は学生映画祭で、自分で脚本を書いて監督やったものが賞をもらったことがあるんです。

――まあ。

 で、なんとなく「映画に向いているのかな」と思って、将来は映画監督になろうかな、みたいな。まだ万能感がありますから、村上龍さんも小説を書きながら映画監督をやっていたので、そういうパターンもあるなっていう。後に繋がる話でいうと、当時、高橋克彦先生たちが旗を振って「みちのく国際ミステリー映画祭」を岩手でやってらして、それに僕、賞をもらって学生映画のコンペに2回くらい出品したことがあるんですよ。映画祭に推理作家協会が絡んでいて、プロの作家に会えるというのがあって。ちょっとサスペンス調の映画も作っていたので、そこで僕、大沢在昌さんと北方健三さんと東野圭吾さんと会って、話もしているんです。

――え、学生のうちに。

 学生のうちに。まあ、その後話したらご本人はまったく憶えていなかったんですけれど。夜、学生監督たちがバーで集まっていたら北方さんと東野さんが突然襲来してきて、「ちょっと学生の話を聞いてやりたいなあ」って。北方さんからはボツ原稿を積んだ話とか、昔は純文学を書いていたけれど中上健次に敵わないと思ってエンタメに移ったとう話とかが聞けて。東野さんは「君たちはどうなの、自己満足でやってるんじゃないの」って。「客がいるんだってことを意識しなきゃ」って、学生相手にもマジで。大沢さんはリップサービスの人だから、パーティの席で「君らが映画監督になったら、僕の原作はタダでやらせてあげよう」とか(笑)。

――すごい。お三方の個性がめちゃくちゃ出てる(笑)。

 大沢さんに「僕は映画監督だけじゃなく、小説家もやりたいんですよ」って言ったら「待ってるよ」って。この話、大沢さんに2回くらいしたんですが、その度に「忘れてる」って(笑)。
 そんな出会いがあったりして、学生時代の後半はそっちの活動が真剣になってしまって、教育学部なのに学校の先生になる気は全然なくなってしまって。映像の方に進みたいと思って、大学4年の時に番組制作会社でアルバイトをして、そのままその会社の契約社員になりました。就職氷河期だったんですが、就職活動はせずに大学生活に終止符を打ったんです。濃密な6年間でした。

――あ、大学に6年間いたんですか。

 はい。親不孝です。2年時に単位が足りなくて2回足止めを食らったんですが、今はどうだか知りませんが、当時は親に留年が隠せたんです。息子が大学を卒業するはずの年に卒業しなくて、「母さんごめんなさい。実はまだ2年生なんです」「ええっ」って。その時はちょっと......。最後は許してくれた感じでしたが。

ロスジェネの自覚

――制作会社での仕事はADとか?

 ドキュメンタリーの制作会社だったんですけれど、ADから始めて、でもすぐ予備取材をやるようになりました。リサーチャーですね。それは後々役に立ったというか。大した話ではないんですけれど、ものの調べ方はそこで覚えました。大宅壮一文庫とか国会図書館の使い方とか。たとえば節約番組で節約している人を探すために主婦雑誌のバックナンバーを延々と読み続けるとか。ドキュメンタリーも脚本が存在するのですが、会社が小さいので僕も脚本家に渡す前の予備脚本を書くようになり、そういうこと自体はすごく勉強になりました。でも仕事としてはハードだし、普通にハラスメントも地獄というか。ああいう業界は下請けにいけばいくほどきつくなるので本当にハードで、ちょっと身体がついていかなくて2年ちょっとで、ちょうど番組が終わったところで辞めることになるんですけれど。この時期に、大学生の時に抱いていた万能感は、完全にへこまされます。体育会系の体力のお化けみたいな人と仕事をする中で、「自分なんか大したことない」っていう感情を抱いたんですよね。それに結局、芽が出ていない。小説も書いていませんでした。書かないでいると多少すがれるものがあるんですよね。書いて結果がでると自分の才能と向き合わなきゃいけない。でも、書かないでいると「もしかしたら俺、天才かもしれない」ってすがれる状態のまま、「いつかか書くぞ」と思っていられる。

――制作会社を辞めてどうされたのですか。

 しばらくフリーターって形になるんですね。パソコン販売の仕事を始め、ここでもアルバイトからすぐ契約社員みたいな形になるんだけれど、その前のフリーター時代に経済が悪くなっているのを実感して。僕はまさにロスジェネ世代と言われている世代で、就職に困っている同級生はかなりいました。学校の先生になった奴が多いんだけれど、職場が大変で過労で職を変えようと思ったけれども、替えの職が見つからない、とか。まだ僕らが学生だった90年代って若干バブルの余韻があって、フリーターでもなんとかなる感じがあったんですけれど、もうそんなことないぞ、という空気が流れ始めていました。僕も一応契約社員になりましたが、今思えば結構なブラック企業だったかなって。週休2日なかったし、月の残業100時間超えてたんじゃないかな。それでも番組制作会社に比べると本当に楽だったんですが、長く勤めるうちにだんだん辛くなっていって。フリーター時代に親元を離れて一人暮らして結婚もするんですけれど、結局、実家に戻りました。その頃「ちょっと書かないか」という話があって、販売の仕事をしながらライター業も始めたんです。漫画のシナリオや、デアゴスティーニのような分冊雑誌の記事を書いたりとか。ライター業で収入のめどが立ちそうになったタイミングがあったんで、やっぱり書く仕事をやりたいなって、販売店を辞めちゃったんですけれど、これはちょっと判断ミスだった可能性が高い。しばらく食えなかったんです。実家にいて、妻の実家も近くてみんな働いていたから、家族に支えられながらしばらく生活していました。

――小説は読んでいなかったのですか。

 自由業になった時点で時間が多少できたので、大学生の時ほど気楽ではないんですけれど、またちょっと読める本を読もうかなという時期になりました。
 この頃、2000年代頭くらいの時期なんですけれど、国産ミステリーがすごく盛り上がっている印象があって、まさに「このミステリーがすごい!」を片手に、1位から順番に読んでいくことをやりました。仕事が忙しいから作家読みはなかなかできないけれど、面白いものを読みたいという気持ちがあるので読んで、「ああ、小説いいなあ」とまた思うようになり。そうそう、中学時代に『指輪物語』の1回目の挫折があり、高校時代、『カラマーゾフの兄弟』を読んでいた時期に2回目の挫折をし、大学生の時にさすがにもう読めるだろうと思って3回目の挫折をしているんですけれど、ここにきてピーター・ジャクソン大先生が「ロード・オブ・ザ・リング」を作ってくれて、長年の僕の中の『指輪物語』問題が解決しました(笑)。それで解決しているのかってツッコミはあると思いますが。

――小説の執筆に関しては。

 「いつか書くぞ」「いつか書くぞ」と思いながら「もうそろそろ30歳か」というところまで来ていたんですね。で、経済状況はどんどん悪くなっていて、朝日新聞が「ロストジェネレーション」という連載を始めて、後に本になって。僕らの世代は「ロスジェネ」って呼ばれるようになる。最初はね、すごく反発がある訳です。まず雑だし。「だいたい世代論なんておかしい」みたいな気持ちがあるわけです。だって、どの世代だってみんな大変なんだから。だけど、確かに子供の頃にテレビの中だけでバブルを見せられてたのに、どんどん経済が縮小していって、社会に出た瞬間、そんなもんなくなってて就職氷河期に直面したってことに対しては「話が違う!」って感覚があった。赤木智弘さんが「論座」に「『丸山眞男』をひっぱたきたい――31歳、フリーター。希望は、戦争。」って論文を書いた。あの号を買って読んで、湯浅誠さんの『反貧困』を読んで。雨宮処凛さんなんかも出てきて、ロスジェネ論壇というものが生まれていて、僕もなんとなくの興味からそういう本を読むようになりました。
 ロスジェネとは違うんだけれど、山本譲司さんという議員秘書だった方が逮捕された後に書いた『累犯障害者』っていう本とかも読んで。この時期に社会の不平等というか、口幅ったいんですけれど、格差みたいなものがどんどん大きくなっていることに対する憤りプラス、罪悪感をおぼえるようになっちゃうんですよ。結構これは、この後の自分が作家になって書くものに直結してくる話になるんですけれど。

――罪悪感というのは。

 自分が割と恵まれていたことに対する罪悪感ですね。僕は食えないライターなんですよ。だけど家族仲がすごく良くて、両親健在で、実家があってみんな働いていて、そしてこれが最大の理由なんですけれど、妻と僕の親が僕より仲がいい感じで、僕一人が穀潰しというか、一応収入があったからパーフェクトな穀潰しではないんですけれど、でもちゃんと稼げてなくても生活が成立しているという。世間には自分がやりたいことなんてとてもできない人もいるし、食うや食わずみたいな生活の同世代が本当に出現してきている状況だったので、すごく罪悪感があった。だけど反面、こんなことで罪悪感持たなきゃいけないのかなって思いもあって、その中で、小説でいうと、平野啓一郎さんの『決壊』を読んだんですよ。何かの書評で読んで、「あ、これは読まなきゃいけないな」って思って読んだら、本当に社会の底が抜けていく様っていうのが描かれた小説で。それと、この頃の芥川賞って、伊藤たかみさんの『八月の路上に捨てる』とか、津村記久子さんの『ポトスライムの舟』とか、いわゆるフリーター文学とかロスジェネ文学と言われるものが受賞していたんです。僕は純文学は当時ほとんど読まなかったんですけれど、読まなきゃいけないと思って読んで、この時に、純文学作家の時代感覚ってすごいなって思ったりもして。と同時に、僕が学生時代にサブカル趣味の延長で現代思想がどうのとか話していたのは、すごく気楽なものだったんだなっていうか、そういう形而上のふわふわした話ができたのは特権だったんだなって思うようになりました。経済や社会についてもうちょっと考えよう、「作家になりたい」って気持ちもあるけれど、ライターとしての質を上げたいと思い、勉強し直すことにしたんです。
 それで、1日1時間、時間を作って、仕事と関係ない、趣味でもない、勉強のための本をノートを取りながら読むってことを始めました。印象深かったものを挙げると、ジョック・ヤングの『後期近代の眩暈』とか、ジークムント・バウマン『リキッド・モダニティ』、レヴィットとダブナーの『ヤバい経済学』、のちにベストセラーになるジャレド・ダイアモンドの『銃・病原菌・鉄』とか。他にもいっぱいあるんですが、社会や経済に関する人文系の本が多かったかな。ダイジェスト版や入門書とか解説書ではなくて、学者やその道の専門家が書いた本を読むというルールを作りました。当時は新書ブームもあったので、それも気になるものをなるべく読むようにして。多くの本が機知に富んだ、これまで考えなかったような視点を与えてくれました。今思えば、その後の創作に活かされています。

ブロガー、児童文学作家、そして

――ライター業とは別に、執筆活動を始めた経緯を教えてください。

 ちょうどその時、2000年代半ばなんですけれど、祖父が寝たきりになるんですね。僕も含め、家族で介護することになるんです。その後、僕の大叔父にあたる人が倒れて、そちらも介護をすることになった。そのなかで、コムスン事件という介護企業の不正事件が起きて、あれの当事者になっちゃったんです。たまたまコムスンのサービスをうちで利用していたんですよ。その時に、「もうそろそろ何か書きたいな」「これ小説にできないかな」って思い始めるんですね。でも、この時は出だしを1枚だけ書いて「ああー、なかなか書けないな」っていって、1回止まるんですね。1回止まるんですけれど、何かアウトプットはしたいなと思って、ブログを始めるんです。詳しくはWikipediaなどを見てもらえば分かるんですけれど、僕、ブログでちょっと有名になっちゃうんですよ。

――罪山罰太郎という名前ではてなダイアリーでブログを書かれていたそうですね。

 当時、はてな文化圏には独特の空気があって、いろんな人がいて。その中にいて、後に知り合いになるのが深町秋生という、ちょっと一般社会から遠い男がいて。いや、真面目な人なんですけれど。

――え、作家の深町秋生さんですか!

 そうなんです。深町さんもはてなダイアリーをやっていたんです。深町さんはプロの作家で、僕はただの素人ブロガーだったんですが、深町さんが僕のブログを読んで注目してくれたり、僕も深町さんのブログを読んで「面白いな」と思ったり。で、「この人どんな小説書いているんだろう」と思ってデビュー作の『果てしなき渇き』を読んで、あのむせかえるような空気が、ちょっと、昔バタイユを読んだ時の感覚をわーっと思い出させたんですよね。深町さんの小説を読み、ブログで結構好き勝手なことを書いているの横目で見て、「ああ、やっぱり俺は専業作家になりたいな」と思って、「書こう」と。それだけがきっかけなわけじゃないんですけれど、いい加減書こうと思って、でも長い小説は自信がなかった。その時に100枚くらいで応募できる角川学芸児童文学賞というのを発見したんですね。腕試しと思い社会人になってから趣味でちょっとはまっていた将棋の小説を書いて応募したら、受賞したんですよ。それで本を出すことになって、「やった、作家になった」と思ったんですけれど、児童文学はまったく食えないというか、部数も出ない。今はミステリーも部数は厳しいですけれど、それよりも厳しかった。児童文学は嫌いじゃないし、楽しんで書いたし、自信にもなりました。だけど、本当にやりたいのって何だっけって思った時に、やっぱり大人向けのエンターテインメント小説をやりたいんだよなって思って。僕にとってのエンターテインメントって、ホラーかミステリーだなと。

――そこで小説を書き始めた、と。

 いや、毎回のことなんですが、最初に勉強するんですよ。中条省平さんの『小説家になる!』って文庫本と、ディーン・R・クーンツの『ベストセラー小説の書き方』と、当時推理作家協会が出していた『ミステリーの書き方』、だいたいこの3冊を読んでもう1回小説の書き方を学ぼうとしました。でも、いろんな人がいろんなことを言うから、やり方に正解はないのかなって。基礎的な技術は押さえた上で、そこから先は自分なりの型を見つけるのが大事なんだなみたいなことを思って、「よしやろう」と。ミステリーを書こうと思い、最初は江戸川乱歩賞に照準を合わせました。それで、未読だった乱歩賞の有名作品をまず読みました。そうしたら高野和明さんの『13階段』と薬丸岳さんの『天使のナイフ』がとにかく「これ、今まで読んでいなかったのは大失態だわ」と思ったくらい面白くて。薬丸さんの小説はその時にかなり読ませていただいて、この路線だと思いました。

――ああ、『13階段』は死刑制度をめぐる話だし、薬丸さんは少年犯罪の問題をずっと書かれていますよね。社会的な問題が含まれているミステリー。

 『13階段』とか『天使のナイフ』みたいな路線で、かつ、僕がずっと感じているロスジェネ世代のリアリティを取り入れたハードなミステリーを書こうと思い、そういえば前に1回挫折した介護の小説があるから、それをミステリーにアレンジして執筆してみようって書き始めたのが、デビュー作となる『ロスト・ケア』です。
 あと作品への影響で言うと桐野夏生さんや宮部みゆきさんの小説ももともと好きで読んでいた、ということもありますね。昔はオカルトとかファンタジーも読んだけれど、このときは現代社会、現実社会を舞台にした、ちょっとハードな何かしらがあるミステリー、サスペンスを書こうというのが前提にあって、そこに自分にできることとして、ロスト・ジェネレーションというか団塊ジュニア世代の、バブル崩壊後のリアリティを書きたいと思いました。そういう部分にうまく触れている純文学はあるけれどエンタメにはなかなかない、というのもありました。
 ホラーやファンタジーを書くルートもありえたかもしれないけれど、結果的に今ある形になったのは、思えばやっぱり読んできたものによって道が作られてきた感覚があります。直接的には30代の時にいろんな人文系の本で勉強したことは小さくないんですけれど、それまでの読書経験も、最終的にはここに繋がったんだなというのは思うんですよね。18歳の時に村上龍に出会ってなかったら全然違う読書体験、人生になっていたと思うし、その流れでバタイユを読んでいなかったらまた違ったと思う。オカルトを信じたビリーバーの時期も、今となっては今の自分を作る上で大事だったかなって思います。

――乱歩賞を目指していたんですよね。でも『ロスト・ケア』で日本ミステリー文学大賞新人賞を受賞してデビューされていますよね。

 いやあこれが、乱歩賞の締切に間に合わず......(笑)。その次に来る大型ミステリー新人賞を探してみて「あ、日本ミステリー文学大賞っていうのがあるぞ」って。申し訳ないんですけれど、その時点では知らなかった。それで一応、過去の受賞作の近年のものを読んで「カテゴリーエラーではない」と確認して、応募したんです。もう1年待つかどうかも悩んだんですよ。もうちょっと待てば『このミステリーがすごい!』大賞の締切もあって、どっちに出すかも考えました。でも作風的にも日ミスのほうが合いそうだなというのがありました。ただ若干気になったのが、選考委員に綾辻行人さんがいらして、綾辻さんといえば『十角館の殺人』の冒頭で、社会派小説をディスりまくってますから(笑)。あ、これは壁だ、と。この人を説得できなかったら駄目なんだなって。でも、その綾辻さんが高く評価してくださって、満場一致みたいな形で受賞に至ったんです。本が出た時も「綾辻行人絶賛」みたいな文言も出て。後に綾辻さんと話したら「いやいや、僕はね、いい作品は褒めますよ」って(笑)、当たり前のことを言ってくださった。綾辻さんが高く評価してくださったことは自信になったし、その後本を売る武器になったのかもしれ作家の日常、新作について

――デビューされてから、読む本は変わりましたか。

 最大に変わったのは、資料本をひたすら読むようになったこと。資料本を読むようになってからなんですけれど、歴史にもかなり興味が湧いてきました。『凍てつく太陽』という太平洋戦争の話も書きましたが、戦争の証言というのは山ほどあるんですよね。今、昔の人の証言というものに興味があります。だいたい100年くらい前までならいろんなジャンルの市井の人の声を直接拾ったものがある。国会図書館に行くと、自分の半生を語った本を自費出版したものとかも結構あって、そういう中に面白いものがあったり、こんなことがあったのか、と分かるものもある。だいたい資料漁りのなかで見つかることが多いんですけれど。

――1日の執筆時間などのタイムテーブルは。

 ざっくりですけれど、一応、午前と午後の二部制にしています。でも大した話じゃないです。途中で昼飯食うからという(笑)。10時から1時までの約3時間が午前の部。で、お昼を食べて、2時くらいから早く終われば6時くらいが午後の部。で、夜はインプットの時間というのがざっくりしたスケジュールなんですけれど、なかなかこの通りには...。たとえばこういうふうに取材を受ける日もあるし、昼間に映画に行っちゃう日もあるし、いろいろです。昔は夜型だったけれど今は子供もいるので、どうしても昼型、朝型で家族に合わせる形にはなりましたが。
 一応、仕事場を借りてるんですけれど、なかなかひとりきりになると集中しない。インターネットで将棋をやっちゃったりするので(笑)。それで、カフェとか、最近ではコワーキングスペースなんかも利用して執筆しています。人に介入されるのは嫌なんですけれど、ある程度ざわざわしたところの方が仕事できますね。カフェだとそんなに長くいると悪いので、2~3時間おきにローテーションしたりしてますが、コワーキングだと1日中いられますね。

――毎回、小説のテーマというのはどのように選ぶんですか。

 なるべく書くものを広げていきたいとは思っていて、必ずしも現代社会にこだわっていませんし、動物パニックの話を書いたり(『ブラック・ドッグ』)、いろいろ手を変え品を変えやっているんですけれど、結局、強い興味を持ってそれなりに調べたり取材したりして書いたものほうが出来がいいような気がして。やっぱり興味がないものは駄目なんだなって。格好つけて言うと問題意識があるかないか、かもしれないんですけれど。いわゆる社会派というものの依頼が多いんですけれど、でも、作家だから、仕事だからといってネタを無理やり探すのはあまりうまくいかない感じがします。

――新作『Blue』は、平成という時代をまるっと振り返る一冊ですよね。平成元年に生まれた少年の謎と、残虐な殺人事件の謎を追っていくうちに、平成の風俗だけでなく、児童虐待や外国人労働者などの現代の問題が浮かび上がってくる。

 これは平成史をやろうと思っていました。今日、今まで長々と語ったことも、ほとんど平成の話ですよね。

――あ、言われてみればそうですね。

 僕が中学生の時、思春期の入り口で昭和と平成が切り替わっているので、人生の一大事は全部平成にあったんです。これを振り返るっていうのは自分を振り返ることになる。これはもちろんフィクションの話ですけれど、そういう意味では書くのは楽しかったです。
みなさんにもそれぞれの平成史があると思うんですよね。たとえば『Blue』の中ではSMAPの「世界に一つだけの花」とかオザケンの「ラブリー」とか、曲の引用も意図的にたくさんやっているんですが、読む人ごとに「あ、これが流行った頃、俺はあれしてたな」とか「僕にはあんなことがあったな」って振り返ることがあると思うんです。そういう意味で『Blue』に関しては、読者の方で最後完成させてほしいなって思っています。

――確かに私も、読みながら「これすっごく分かる」とか「これ懐かしい」とか、自分の記憶と照らし合わせながら読みました。

 それは嬉しいです。なるべく共通の体験を、絶対にみんなが思い出さざるを得ないものを書きました。たとえば東日本大震災なんかは日本人全員の共通体験としてある。そういう大きいものと、あの時東京にいないと知らなかっただろうなってことなんかを取りまぜました。さっき批評理論を勉強した話をしましたけれど、最後にテキストから何を読み取るかで最終的に小説は完成すると思うんで、『Blue』に関してはなるべく、その余白を作りました。もちろん、主人公周辺の物語はきっちり、著者の責任として作るんだけれど、そうじゃない部分、文化風俗の部分で、行間を多く持たせて、そこで読んだ人が自分の人生と照らし合わせて体験できるような作品にしたいなと考えて書きました。

――今後、書いてみたいテーマはありますか。

 もう連載は始まっているんですけれど、「小説トリッパー」で「そして、海の泡になる」というバブル期のモデル小説を書いています。ある事件について。当時を知っている人なら「ああ、あったあった」と思いながら読める小説かもしれないし、知らない人も「こんな人がいたの」という感じで読めるはず。その後に、今年の後半から「小説新潮」で連載が始まるんです。僕、ずっとブラジル移民のことを調べてまして。実はブラジルにも取材に行きました。戦前移民の、ご存命の方に何名かお会いして話を聞いてきて、その話を今年の後半からスタートさせます。超大作になると思います。

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