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円居挽さんが自分のセンスを信じるのをやめて覗いたインターネット 他人の趣味嗜好を観察し続けた

 ここまでの連載で扱ってきたものはいずれも中高生の頃に出会ったものである。どれもこれも本や雑誌、あるいは友人からの口コミで知り、大した根拠もなく曖昧に面白がってきた。ある意味ではそれが私自身の限界にもなっていたわけだが、大学に入学してインターネットに触れるようになって全てが一変した(具体的に言うと2002年の春のことだ)。

 例えば「仮面ライダー龍騎」や「ガンダムSEED」、私自身はとても楽しんで観ていたがネットでは賛否両論で、毎週放映直後はマニアたちが侃々諤々の舌戦を繰り広げていた。今でこそ古典的名作的な位置に収まっている両作品だが、当時の私は「こんなに面白いのにどうして……」という気持ちで衝突を眺めていた(いや、今となってはアンチの言い分もそれなりにわかるのだが)。

 あとはインターネット上で可視化された作品愛を目の当たりにしたのも大きかった。それまでは何の根拠も無く「この作品のことなら誰よりも詳しいし、好きだ」という気持ちを抱けていたのだが、ネット上には自分より遥かに深いファンがいくらでもいることを思い知らされた。まあ、当時の私は18歳の若僧だったのだから当然だが、自分は何かの一番のファンにはなれないという事実をはっきりと突きつけられた気がしたのだ。

 さて、前回書いた「コズミック」ショックなどもあり、私は完全に追い詰められた。作家になろうという人間なのにセンスが悪い、作品への愛も足りないとなるといよいよ絶望的だ。だから私は人の評価をより一層気にするようになった。とは言っても決してネガティブな意味ではなく、むしろ「人が何を面白がっているのか」をつぶさに観察するようになったのだ。センスのない人間がセンスらしきものを獲得しようと思ったら他人の考えや趣味嗜好をつぶさに観察するしかないではないか。どうせ私のセンスも作品への愛も知れてるのだから、徹底的に無節操になろうとも思っていた。

 そうして始めた他人の趣味嗜好の観察だが、インターネットはまさにうってつけの場所だった。例えば同じ作品を面白がっている人間でも、どこを楽しんでいるのかは結構違ったりする。そのサンプルを集めるのにインターネットの掲示板やファンサイト、感想サイトをよく巡回した。そうして他人が何を面白がっているのかを観察しつつ、自分の感じている面白さを言語化していく。時には自分が面白がっている部分が世間とズレていることを認め、修正しながら自分のセンスや作風を再形成していく……と書くと聞こえはいいが、要は無垢な受け手であることを止めた代わりに薄汚い相場師になっただけの話だ。作品を株券のように眺め、その価値を勝手に査定するなんて、まったくもって褒められた行いではない。

 ただ、これは私が「面白い」を扱うことを一生の仕事にしようと誓ったからやれたのであって、誰かにお勧めする気にはならない(はたしてこんな真似をしている人間が純粋に作品を楽しんでいると言えるだろうか?)。おまけに今や私は毎日Twitterに張り付いては何か面白いものをひたすら探している。これは株屋や相場師が日々情報収集してしまう心理と同じなのだろうが、それ以上に自分の知らないところで面白いものが存在していることが怖いし、許せないのだ。ここまで来るともう病気だろう。

 さて、これまでずっと面白い/面白くないという話ばかりしてきたが、実のところどんな作品を摂取してどんな感動を得ようが人の勝手だし、その感動は誰かから否定されるようなものではない。感動した作品が実はこけおどしだろうがフェイクだろうが中身がスカスカだろうが、どうあれあなたの体験はあなただけのものなのだから。ましてや作品を株券のように見ているような連中の言葉に心乱される必要なんてどこにもない。さもないと私のようなものに成り果てることになる。

 それでも私はこんな風になってしまったことに後悔はない。この十数年の間に積もり積もった何かがいつか円居挽に大傑作を書かせるかもしれないのだから……。