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朝吹真理子さん初のエッセイ集「抽斗のなかの海」インタビュー 失神したほど敬愛する作家への思い

文:篠原諄也 写真:斉藤順子

のび太の机みたいに、抽斗が海に繋がっている

――この10年間に書いたエッセイを読み返してみてどうでしたか?

 気がついたら色んなところでエッセイを書いていました。編集者がその中でも日常のこと、本を読むこと・書くこと、その周りのことで一冊にしようと提案してくださいました。結構前に書いたエッセイのいくつかは、自分が書いた実感がなくて、他者のものを読むのに近い感覚がありました。「こんなこと書いてたんだ」とか「今はこんな風には思わない」と思って、今の時間を差し込みたくなってしまうんです。

――各エッセイに今の朝吹さんの「応答」がありますね。解説や当時の裏話などが書かれていて毎回楽しみでした。

 応答を入れる形にしたのは、装丁をお願いした近藤一弥さんが言ってくださってのことでした。もともと近藤さんの静かで忘れられない装丁の大ファンで、いつかお仕事でご一緒したいと思っていました。今回ご挨拶に行った時に「今の時間を差し込みたくなる」と話をすると「朝吹さんは色んなものへの応答で小説やエッセイを書いているから、自分のエッセイに応答すればいいんじゃない?」と言ってくださって。その言葉でハッとなって、確かに自分の時間に応答するのは凄く自然なことだなと思ったんです。

――そんな経緯があったんですね。装丁は青と黄の二色のグラデーションがとても綺麗で、長方形がデザインされています。

 近藤さんと色の濃淡などの細かい調整の打ち合わせまでできて、凄く嬉しかったです。この矩形は一番最初のエッセイで書いた「信号旗K」の意味で作られています。海の上で船が相手の言語は分からないのに「私はあなたと交信したい」と「信号旗K」を掲げるんです。それに凄く魅力を感じました。自分にとっても、エッセイや小説を書くのはそっと「信号旗K」を掲げているイメージがあって。近藤さんにそれを汲んでいただきました。

――昨年出版された小説『TIMELESS』でも、巻末に武満徹やダムタイプの作品名などが書かれていて、本作はそれらへの「応答」であるとしていました。朝吹さんにとって、書くことは先行する作品に対する「応答」だという意識があるのでしょうか?

 そうですね。ゼロから出てくる感じはしなくて、芸術作品に限らなくても、何かに対して返事を書いているような気持ちがあります。特に『TIMELESS』は書き上げるのに凄い時間がかかって、しみじみと私にとって小説を書き上げることは奇跡的なことだと思いました。自分が凄く大事に思っている作品があったから、それに心揺さぶられて何がしかの応答がしたいと思った。前に作品があったから、自分のイメージが生まれたということにどうしても感謝したくて、応答を入れました。

――『TIMELESS』の主人公の名前はうみで、芥川賞受賞作『きことわ』でも海のシーンの描写が印象的です。今回のエッセイ集のタイトルも「海」という言葉が使われていますが、朝吹さんは「海」に何か特別な思いがあるのでしょうか?

 多分あるんだと思うんですけど、あんまり自分で自覚をしたことはないんですよね。くらげも凄い好きですし、昔から古生代の海の生き物にも関心があります。あと、武満徹の最後のエッセイ集『時間の園丁』の「海へ!」という短い文章が大好きなんです。武満が病床で書いた言葉なんですが「できれば、鯨のような優雅で頑健な肉体(からだ)をもち、西も東もない海を泳ぎたい」と書いてあるんですね。それがずっと印象に残っていて、私にとって作品を書くことは、西も東もない時間がとけた海に、手紙をそっとガラス瓶に入れて投げるような気持ちでいるんですよね。それは武満に届くかもしれないし、まだ生まれていない人に届くかもしれない。そういう気持ちを込めて投げているところがあって、その時にいつも想像するのは海なんですよね。

――タイトルの「抽斗のなかの海」とはどういうことでしょう?

 昔から趣味で文章を書いていたんですけど、誰かに見せるわけじゃなく、机の抽斗にしまっていたんです。その抽斗というのは、奥は海に繋がっていて、誰かに届く可能性がある場所だというイメージがありました。多分、ドラえもんののび太の勉強机を羨ましく思っていたから、自分の机にもそういう世界を見つけるようになったと思うんですけど。一人きりで書いているんだけど、どこかに繋がっているような感覚です。

とにかく大江健三郎さんの顔が好き

――本書に収められているエッセイの中でとても印象的だったのが、敬愛する大江健三郎さんに初めて会った時に失神したエピソードでした。それほど好きだったんでしょうか?

 失神するくらいですからね。日中韓の文学者による大江健三郎を巡るシンポジウムがあって、日本の若手作家として講演してほしいと呼ばれました。講演はいいことを言わないといけない感じが苦手なんですけど、凄く大江さんが好きだったしお会いできることもあって、お引き受けしました。当日は大江さんに会える喜びと講演をするストレスで興奮していて、胃液が出るくらい気持ち悪くなってたんですよ。

 夕方まで飲まず食わずだったんですけど、シンポジウムが終わった後にパーティがありました。そこで「やっと終わった!しかも大江がいる!」みたいな感じで、お酒を普段ほとんど飲めないのに、空きっ腹で3杯くらい飲んじゃったんですよ。それで大江さんが先に帰ることになって、何人かでお見送りをした後に気絶しちゃったんです。気絶するって凄い恥ずかしいじゃないですか。意識が戻った後も千鳥足でトイレに行ったりしていたから「朝吹さんもうやばい」ってなって、タクシーに入れられて帰りました。せっかく大江さんにお会いしたのに、何も覚えてないんですよね。

――話した内容も覚えていないんですか?

 もうね、びっくりするくらい覚えていないんですよ。びっくりするくらい、大したことも言えてないと思います。凄い好きだったのに。ただ、その後対談をする機会があって、その時はちゃんと意思疎通はできていたので結構記憶はあるんです。対談の休憩時間に大江さんに「書いては消しをしているらしいじゃない」と言われて「もったいないから全部とっておいて、見直して使えるところは使った方がいい」と、信じられないくらい前向きな実践方法を教わって、励みになったのを覚えています。

――そもそもなぜ大江さんをお好きだったのでしょう?

 とにかく大江さんの顔が好きなんですよ。全集の月報に、大江さんがご長男の光さんと一緒に自転車に乗っている写真があって、高校生くらいの時から、「なんて素敵なお顔だろう」と思っていました。あのメガネも大好きです。

 高校生の時に何となく分かっていた日本語のことが、本当は全然分かっていなかったんだと気づきました。読むことって、本当に難しいなと思った。言葉は自分の体の外にあることに意識的になった、そのきっかけの大事な一人が大江さんでした。どんな風に耳をすませて、人の言葉を読んでいったらいいのか。大江さんの作品を読んで考えました。大江さんの言葉を食べるように読みたいと思って、音読していましたね。

――特に『新しい人よ眼ざめよ』は何度も繰り返し読んでいるそうですね。

 何度も読んでいるからボロボロになっていて、友達にも渡すので絶えず本棚に三冊くらいあります。人生には大なり小なり色々な危機が訪れると思うんですけど、そういう時に読みたい本です。大江さんは諦念や絶望を引き受けた上で、それでもなお希望をどこかで見出そうとしている姿勢があります。凄く感銘を受けました。

雑多でノイズがあることが小説の面白さ

――朝吹さんが好きな作品や物事について語る表現がとても心に残るエッセイ集でした。朝吹さんは最近ハマってるものってありますか?

 発酵です。最近、発酵デザイナーの小倉ヒラクさんと、情報学研究者のドミニク・チェンさんのお二人と出会う機会があってお話ししました。「言葉は発酵する」と思っていると話したら、ドミニクさんも「思考は発酵する」という文章をゲンロン(批評誌)に書いたばかりだったようで。「発酵文学会」をやりたいねと言ってるんですよね。

――発酵の魅力とは?

 昔から粘菌とか大好きでした。発酵って時間感覚が全然違うし、それを「待つ」というのが凄くいいなと思います。あと美味しくなるためには、雑菌が必要なんですよね。ぬか漬けで雑菌を少なくしようとすると、酸っぱくて美味しくなくなるそうです。何も役に立たない雑菌が美味しさのポイントなのは凄く大事な話だと思っていて。

――朝吹さんは小説は雑多なものが集まった「闇鍋」のようだと表現していますね。

 小説は闇鍋っぽくて、雑味が面白さの一つだと思いますね。それだけだとただばっちいんですけど、色んなものと組み合わせることで、それが重要になるという。小説も雑多でノイズがちょっとある方がいいなと思っています。

――小説とも似ているんですね。今後の創作活動の展望を教えてください。

 最近は出版社に缶詰で、小説を書いています。どういう内容になるかちょっと分からないんですが、登場人物たちが崎陽軒のシウマイ弁当を食べています。書きあがるかどうかはいつも分からないんですけど...。

 基本的にあんまり未来のことを考えなくて。どんな編集者と出会って、どんな会話をするかで、作品は変わってくると思っています。でもまぁ自分の話は結構どうでもよくて、現在の唯一の展望としては「発酵文学会」をリアルに進めていきたいですね(笑)。