2017年に「小田原ジャンパー事件」なるものがありました。生活保護を担当する小田原市の職員が「保護なめんな」などの悪態をローマ字や英語で書いたジャンパーを着て10年間も受給世帯を訪問していたという問題です。
近刊の『雨宮処凛の活動家健康法』(言視舎)には、その後の事件の展開が書かれています。著者の雨宮さんは所属団体を通して小田原市に公開質問状を出し、対応を注視しました。市では生活保護の現場の職員が外部と意見を交換し、改善に励み、生活保護の状況が良くなったというのです。メディアは概して行政の醜聞を追うことに熱心で、こうした地道でポジティブな現場の動きを伝えていません。
雨宮さんがこうした活動に力を注ぐのは、生活保護とは、窓口に来た人がそこで追い返されたら死ぬ確率が最も高い仕事だという確信があるからです。
そのことをエモーショナルな迫力をもって立証するマンガが、柏木ハルコの『健康で文化的な最低限度の生活』です。すでに5年に及ぶ連載で、生活保護が困窮者の命を守る最後のセーフティーネットであるという様々な局面を描きだしています。この網の目からこぼれ落ちたら、もうあとはないという切迫感が痛いほど伝わってきます。
最初の興味は、生活保護の実態。とくに受給者の生活の模様です。人々はどんな人生を歩んで生活保護を必要とする事態に至り、いまどんな生活を営んでいるのか? それはきわめてリアルな日本の今を伝える群像ドラマです。
次いで、生活保護という制度がどのようにして成立しているかという行政現場の仕事への関心にも応えてくれます。とくに、受給の条件を法的に厳しくチェックする行政上の方針と、現場で働きできるだけ困った人を助けたいというケースワーカーの希望との葛藤がドラマティックです。
また、主人公である新人女性ケースワーカーの悩みや悲嘆や喜びをとおして、彼女の成長が確かに感じとれる点に、単なるエピソードの羅列ではなく、一貫した自己確立の物語としてのこのマンガの醍醐(だいご)味があります。5年も続けば題材の新味が薄くなるはずなのに、主人公とともにこの作品は面白くなりつづけているのです。
とくに最新刊の第8巻で完結した「子どもの貧困」編は、子どもの7人に1人が貧困状態にあるという現代日本の恐るべき状況を取りあげ、私たちの甘い認識をゆるがします。「子どもは、未来だ。子どもを大切にできない場所に未来は来ない」。本当にそう思います。=朝日新聞2019年9月11日掲載
編集部一押し!
- インタビュー 恩田陸さん「spring」 バレエの魅力、丸ごと言葉で表現 朝日新聞文化部
-
- ニュース 本屋大賞に「成瀬は天下を取りにいく」 宮島未奈さん「これからも、成瀬と一緒なら大丈夫」(発表会詳報) 吉野太一郎
-
- インタビュー 北澤平祐さんの絵本「ひげが ながすぎる ねこ」 他と違うこと、大変だけど受け入れた先にいいことも 坂田未希子
- インタビュー 「親ガチャの哲学」戸谷洋志さんインタビュー 生まれる環境は選べない。では、どう乗り越える? 篠原諄也
- 小説家になりたい人が、なった人に聞いてみた。 【特別版】芥川賞・九段理江さん「芥川賞を獲るコツ、わかりました」 小説家になりたい人が、芥川賞作家になった人に聞いてみた。 清繭子
- BLことはじめ BL担当書店員が青田買い!「期待のニューカマー2023」 井上將利
- インタビュー 新井紀子さん×山本康一さん対談(後編) 辞書は民主主義のよりどころ PR by 三省堂
- インタビュー 新井紀子さん×山本康一さん対談(前編) 「AI時代」の辞書の役割とは PR by 三省堂
- インタビュー 村山由佳さん「二人キリ」インタビュー 性愛の極北に至ったはみ出し者の純粋さに向き合う PR by 集英社
- 朝日ブックアカデミー 専門外の本を読もう 鈴木哲也・京大学術出版会編集長が語る「学術書の読み方」 PR by 京都大学学術出版会
- 朝日ブックアカデミー 獣医師の仕事に胸が熱く 藤岡陽子さんが語る執筆の舞台裏 「リラの花咲くけものみち」刊行記念トークイベント PR by 光文社
- 朝日ブックアカデミー 内なる読者を大切に 月村了衛さんが語る「作家とはなにか」 「半暮刻」刊行記念トークイベント PR by 双葉社