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「輓馬の歌」書評 時代の中でもがいた自由な感性

評者: 寺尾紗穂 / 朝⽇新聞掲載:2019年09月14日
輓馬の歌 《図案対象》と戦没画学生・久保克彦の青春 著者:木村 亨 出版社:国書刊行会 ジャンル:伝記

ISBN: 9784336063663
発売⽇: 2019/06/24
サイズ: 20cm/239p 図版12p

輓馬の歌 《図案対象》と戦没画学生・久保克彦の青春 [著]木村亨

 戦没画学生の叔父の半生を甥が描く。久保克彦の一番の大作は東京美術学校(現東京芸大)の首席となった卒業制作で、現在も芸大が所蔵する《図案対象》だ。表紙の作品を見て、不思議と鮮やかな色使い、「図案部」らしい構図の清新さに惹かれ、手に取った。戦中のモノクロームのイメージとはかけ離れた自由な感性を感じた。代表作が卒業制作である。彼が生きていれば描いたはずの、描かれることのなかった絵を思う。
 序章で久保の死が早々に描かれる。そのあっけなさを受け止めながら、読者は久保の人生に分け入っていくしかない。その構造はまさに、戦争体験者が減り、数字や通り一遍の知識としてしか、あの戦争の犠牲や戦争を感じることができなくなりつつある私達の状況そのもののようでもあり、想像力を働かせて一人の人間の生の輝きと意味とを反芻するための道程を示されているようにも思えた。
 「一時間二円の綺麗なモデルさん」で絵を描く仲間をよそに、久保は上野のホームレスに五銭か十銭を渡して描いた。「彼等は皆彫刻的な人間的な苦悩に彫り刻まれた深い影をもった顔をしている。何という素敵な絵材か」と書き残した。戦意高揚の展覧会で入選すれば軍が絵を買い取り、絵具の配給を受けられた時代、久保は殴られ、教練服を血で染めて帰る日もあった。若くみずみずしい感性は、愚かしい時代の中でもがいていた。
 甥である著者の粘り強い調査は、久保の最後をよく知る伍長を捜し当てている。《図案対象》は長く反戦画として評されてきたが、制作に立ち会った姪の黒田和子はそれに反論し、解釈を展開する。その人を近くで知っていた。残された者の中に降り積もる執着にも似た愛惜は、安易な解釈や結論を拒みながら久保その人に肉薄し、結果戦争の虚無をあぶりだしている。本書の最後、文学の才もあった久保の未完の詩が、降る雪のように静かである。
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 きむら・とおる 1936年生まれ。会社勤務を経て、2005年にNPO法人産業メンタルヘルス研究所を設立。