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鯨の本当の美味さ 楡周平

 近海捕鯨が再開された。

 とは言え、「いまさら鯨」というのが大方の反応だろう。戦後の食糧事情が厳しい中で育った世代には、給食にでた竜田揚げかベーコンを思い出し、いまひとつ食指を動かす気にはなれまい。

 ところがである。鯨は本当に美味(うま)いのだ。肉の中でも屈指の美味さと断言しよう。

 私が鯨の美味さに目覚めたのは、幼少期のことである。父親は船乗りであったが、勤めていた会社が客船以外はなんでもござれ。捕鯨船団を率いる母船に乗り、何度も南氷洋に出向くことがあったのだ。

 南洋捕鯨が終わり父親が家に帰って来ると、程なくしてチッキが届く。カンバスで厳重に梱包(こんぽう)された荷物を解くと、一斗缶が姿を現し、中にびっしりと詰まっていたのは尾の身である。

 到着した頃には解凍がほどよく進んでおり、その日の夕食には皿に山と積まれた尾の身の刺身(さしみ)が食卓に上った。

 炊きたてのご飯と鯨の尾の身。嚙(か)みしめた途端、マグロとも違う。牛肉とも違う。上品な脂と旨味(うまみ)が米の甘みと渾然(こんぜん)一体となって口いっぱいに広がる。

 鯨は本当に美味いものだと子供心に感動したものだった。

 しかし、商業捕鯨の中止とともに鯨肉は店頭から姿を消した。とは言え、輸入肉、あるいは近海ものは入手可能であったし、鯨料理専門店もある。たまに食すことはあったのだったが、私の記憶の中にある鯨とは全くの別物。 もっとも遠き記憶は、とかく美化されがちなもの。私の中の鯨の味も、その類かと思っていたのだが……。

 ところがである。あったのだ。記憶のままの鯨を出す店が。

 一昨年、調査捕鯨に従事した方に尾の身の話をしたところ、「だったら、美味い鯨を出す店がありますよ」とおっしゃって、案内されたのが東京・神田にある「一乃谷」という鯨料理専門店だ。

 大皿に盛られた刺身を見て驚いた。

 尾の身、鹿の子、赤身、囀(さえず)り、腸、皮、ベーコンに至っては四種類もある。

 つい最近も、鯨好きを自認する、和歌山出身者をお連れしたのだが、尾の身を口に入れるや「なにこれ。私が知ってる鯨と全然違う!」と目を丸くして驚愕(きょうがく)なさる。ステーキはビーフより美味いし、皮で取った出汁(だし)に、尾の身を浸して食す、すき焼きの美味さには驚くばかり。いや、本当に鯨は美味いのである。

 そして、さらに美味さを倍増させるのが南氷洋から持ち帰った氷である。 酒を注ぎ入れると、氷の中に閉ざされていた何万年も前の大気が、パチパチと小さな音を立て、微細な泡となって立ち上る。いやあ、酒の進むこと。まさに至福の一時である。=朝日新聞2019年11月9日掲載