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「記憶する体」伊藤亜紗さんインタビュー 障害者の体の記憶とは

文:小沼理、写真:山田秀隆

正確なメモを取る全盲の女性の「体の記憶」

——『記憶する体』(春秋社)では全盲や、片腕、片脚がないといった様々な障害がある12人の方にお話をうかがい、その体の使い方を分析しています。最初の章で紹介されていた西島玲那さんは、全盲だけど正確なメモを取りながら話をすると書かれていて、単純にすごいと感じました。

 西島さんの場合はただ文字を書くだけではなく、前の箇所に戻ってアンダーラインを引くことさえできますから、私も最初は驚きました。西島さんは人生の途中で視力を失った中途障害者ですが、目が見えていた頃から、話すときにメモをとる習慣があったそうです。こういった能力は失明後、次第に衰えていくことが多いのですが、彼女の場合は失明して10年以上が経った今も、その能力が真空パックされたように残っているんです。

——過去の行為を体が記憶しているんですね。この切り口で本を書こうと思ったのはどうしてでしょうか。

 『記憶する体』では、ジャンルを横断して様々な障害の領域を繋げるようなものが書きたいと思っていました。障害がある方たちのコミュニティは、視覚障害なら視覚障害、四肢切断なら四肢切断と種類ごとに分かれがちなんです。同じ障害を抱えた人同士だからこそ共有できる話題もたくさんありますが、一方で障害の違いを超えて共通する問題も多くあるはず。その典型が中途障害という現象です。人生の途中で障害を得るという経験は、体に何をもたらすのか。こうした問題について考えたくて「体の記憶」をキーワードにしました。

 中途障害の方に接していると、二つの体を持っているように感じることがあります。記憶として知っている健常者としての体と、現在の障害を持った体、この二つをうまく使いこなしたり、そのズレから独特の感覚が生まれたりするのです。本の中ではこれを「多重人格」ならぬ「多重身体」という言葉で表現しています。幻肢はその典型例ですね。かつての腕や足のある体と、現在の腕や足がない体のズレが、幻肢として感じられるわけですから。

 一方で、先天的に障害がある人がもつ記憶も、おもしろい働きをすることがあります。たとえば、二分脊椎症で下半身を動かすことができないかんばらけんたさんも、多重身体の持ち主です。かんばらさんは下半身の感覚がないにもかかわらず、自分の脚が怪我しているのを見ると「痛いような気がしてくる」と言います。それが起こるのは、上半身が感じた痛みの記憶が下半身に染み出していったからです。

 西島さんは全盲の中途障害者、かんばらさんは二分脊椎症の先天的な障害者。お二人の障害領域は重なりませんが、体の記憶を切り口にすると共通性が見えてきます。その領域を繋げたいと考えたこと、私自身がそんな体の不思議さに惹かれたことが執筆の動機になりました。

一人一人の「体のローカルルール」を語ること

——主に取り上げられている12名の方のケースを読んで、「視覚障害者」「若年性認知症」と一言で言っても、その実態が多様であることに驚きました。

 そうですね。全盲の中途障害者の例では、西島さんの他に井上浩一さんという男性のケースも紹介しています。井上さんは点字を触ると、「0=濃いピンク」「1=暗めの白」といった具合に、それぞれの文字に対応した色が見えるんです。点字を読むたびに、頭がチカチカする。6歳で失明する直前に見ていた、文字学習用のかるたの記憶が残ったために、文字と色が結びついてしまったのではないかと井上さんは分析しています。

——僕は音楽を聴きながら読書ができないのですが、逆に聴きながらのほうが集中できるという人もいます。そうした個人的な経験が蓄積されて、体が作られているんですね。

 「アイデンティティ」という言葉は心理的なものによく使われますが、私は体にもアイデンティティがあると思っているんです。姿形という意味ではなくて、話し方やご飯の食べ方、階段の下り方などが生きる中で積み重ねられて、その人なりの個性ができていくということです。

 たとえば恋愛はこうした「体のローカル・ルール」を肯定し合うものですよね。誰かと一緒にいると、ちょっとした仕草で相手が何を言おうとしているかわかったり、どんな気分なのか読めたりします。最初は気になっていた変な癖も、次第に理解できて、愛着が湧くこともあります。

 「体のローカル・ルール」は、視覚障害の方でも、腕に麻痺がある人でも、一人一人に固有のものがあります。考えて工夫したことだけがルールになるわけでもありません。考えてやったからといったってうまくいかなかったり、逆に思いもよらないことから新たな方法が見つかったりするのが体の醍醐味です。そうした思いどおりになることとならないことが組んず解れつしながら、長い時間の中で体が作り上げられていく。体は地層のようなものですね。

3Dプリンターで作った、立食パーティ用の義手

——障害者が健常者と同じ体になれば必ずしも問題が解決するわけではないということにも、この本を読んではじめて気づきました。健常者の感覚だと、つい手足が二本ずつあり、視覚や聴覚が機能する方が生活しやすいように感じてしまいます。

 本の中で取り上げた、先天的に左肘から下がない川村綾人さんは、いつも義手をつけている割に独特の距離があります。彼曰く「スマホと義手が同時に落ちたらスマホを先に取る」(笑)。外出するときには注目を浴びたくないのでいつも義手をつけるけど、単純に動作のことを考えたら義手は必要ない。「片腕がない体」が彼のスタンダードであり、そこに不自由はないのです。

 医療や福祉の現場でも行き違いが起こりがちなのですが、障害がある方には「障害がある体」としての多層化した記憶や愛着があります。「健常者の姿に近づく方が良い」という前提で動いてしまうと、当事者の感じ方からは離れてしまいます。

 面白いのが、本にも登場する竹腰美夏さんが開発した短い義手です。彼女は先天的に片腕がない知人が「普段はまったく問題ないけど、唯一困るのが立食パーティ」と言っているのを聞いて、お皿が乗せられる台がついた義手を3Dプリンターで作ったんです。立食パーティって、皿を手で持って反対の手で食べなければならないので、両手を前提にした食事のスタイルなんですよね。

 ここでは最先端の複雑なテクノロジーも使われておらず、健常者に近づく努力もしていません。あるのは、その人に合わせる柔軟さ。こんな風に、答えのバリエーションが複数化していくことが大切だと感じます。

——本にはリオパラリンピックの閉会式にも出演したダンサーの大前光市さんも登場しますが、大前さんもあえていびつな義足を開発し、パフォーマンスの幅を広げているそう。これも「答えの複数化」ですね。そして、大前さんの「僕らは考えざるをえない人」という言葉が印象に残りました。

 皆さん自分の体と日々向き合って、研究し続けていますよね。そこで見出されるのは普遍的な答えではないかもしれないけれど、言葉にすることで、意外な人がその知恵を拝借して自分の体のために転用する、ということがあってほしいと思います。障害のある体について語る言葉は、まだまだ足りていないと感じています。

——語られてこなかったのは何か理由があるのでしょうか?

 歴史的な話になるのですが、「障害者」という概念はもともと産業革命の頃に標準的な労働ができない人を指す言葉として登場し、「障害とは個人がもつ、治すべき特徴」だと捉えられていました。これを「医学モデル(個人モデル)」と言います。ところが1970年代頃になると「社会モデル」という考え方が登場します。これは「障害は社会の側にあるのであって、障害者はそれによって無力化されている」というものです。車いすの方が段差を前にしたとき、障害は「その人が歩けないこと」ではなく「段差」のほうにあるという考え方ですね。

 社会モデルは障害者運動の理論的支柱として、大きな役割を果たしました。しかし、社会に変化を求めようとする運動の言葉は、どうしてもマッチョになりがちです。社会を変えるためには、例えば「障害とともに生きていく」といった強い言葉が好まれがちですが、個人と障害のつきあい方はもっと多彩で、繊細なもの。強い言葉は個人の多様な感じ方を隠してしまうし、「私も障害を受け入れなくちゃ」という強迫観念に繋がる危険があります。

 一人一人の体を置いてけぼりにしないためにも、個人の体の感じ方がもっと語られてほしいと思っています。

障害当事者の視点で、小説のように書いた

——読者の方からはどんな感想が寄せられていますか?

 この本に登場した人は、他の人のエピソードにすごく興味を持ってくれましたね。それは当初の目的でもあったのでうれしかったです。

 健常者の方は、感想を言いにくそうですね(笑)。自分でも、なかなか感想をまとめにくい本だと思います。これまでに書いた『目の見えない人は世界をどう見ているのか』(光文社)や『どもる体』(医学書院)は、それぞれ視覚障害者と吃音を研究した本ですが、健常者の方が自分自身に置き換えて想像しながら読んでほしいと思っていました。

 『記憶する体』は、自分自身に置き換えて読んでもらうのも大歓迎なのですが、そうした読まれ方を意識して書いたわけではありません。これまでと違い、小説のように書こうと思っていました。小説の登場人物って、読者のことを意識していないですよね。障害当事者の視点にあえて閉じこもり、一人一人が体験したできごとや感覚を記述することで、彼らの固有性を正確に描きたいと思っていたんです。

——自分の身に置き換えられないぶん、その人の体の固有性に向き合えると思いました。向き合うほど「この障害がある方はこう」と言えず、どんどんわからなくなっていくのですが、おかげで色んな人たちが生きている社会について想像力が働かせられると思います。

 そうして社会の見え方が変わったらうれしいです。最近、個人的に“多様性”という言葉に対する反対キャンペーンをやっているんです。今、いたるところで「多様性」という言葉が使われていますが、「色んな人がそれぞれの価値観で干渉しすぎず生きる」という、よくて現状肯定、場合によっては分断につながる言葉になりつつあると感じています。

 この場合の「多様性」では、一人一人の固有性にまで想像が及ばず、かえって「視覚障害者」「腕のない人」といったラベリングにつながってしまいます。でも、現実はそんなに生やさしいものではなくて、カテゴリの中の一人一人に異なる感じ方があるし、一人の中でも年齢によって変化します。この本が「多様性」という言葉で思考停止せず、「ありとあらゆるものが違う」「いろいろな体がむちゃくちゃにうごめいている」というすごさに圧倒されながら社会を見るきっかけになればいいですね。

——一人一人がおびただしいほどに違うと受け入れるところから、本当の多様性がはじまるとも言えそうです。

 そうですね。何か多様性に代わる言葉を作るといいのかもしれません。なんだろう……「無限性」とか? なんだか手に負えなくて嫌になりそうですね(笑)。でも、別にすべてを把握する必要はありません。まずは身の回りの数人のローカル・ルールによりそって、足もとから考えはじめるのが大切なのだと思います。