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東山彰良のTurn! Turn! Turn! #8 神戸 文士が愛した港町の刹那さ

文:東山彰良 写真:河合真人

 縁もゆかりもない神戸の街を見たくなったのは、俳人西東三鬼(さいとうさんき)(1900~62)のせいだった。

 私は日本の小説をほとんど読まない。うまく言えないのだけれど、行間に漂う閉塞(へいそく)感のようなものを感じて息苦しくなってしまう。

 じゃあ、海外の小説にはそのような閉塞感がないのかと訊(き)かれれば、私にはよくわからない。ただ、翻訳というフィルターを透過した文章は、なんと言うか、わたしにとっては好ましくない灰汁(あく)のような湿り気のようなものが濾(こ)し取られている気がする。風通しがいいのだ。たしかに私が日本語で味わっているその翻訳作品の風味は、当地の言葉で味わうものとは異なるはずだ。もしかするとマルケスやセルバンテスの小説をスペイン語圏の人が読めば、やはりそこになんらかの閉塞感を感じ取るのかもしれない。逆の場合もある。ジョイスやメルヴィルやベケットは私には難解すぎて手も足も出ないが、もし英語で読むことができたなら、壁に投げつけたりしなかったかもしれない。

神戸の観光名所の一つ「風見鶏の館」。朝から多くの観光客が訪れていた=神戸市中央区北野町

 三鬼を読んだときに私が感じるのは、その日本人離れした諦観(ていかん)だ。第2次世界大戦中のことを書いているので、世の中は閉塞感だらけだったはずなのに、彼の文章はなんとも風通しがいい。そのころ、三鬼らが詠む新興俳句は当局に反乱の兆しを嗅ぎ取られ、禁じられてしまう。治安維持法に基づいて俳人らが弾圧され、多くが豚箱送りとなった。

 そんななか、三鬼は東京での一切合切を打ち捨て、単身神戸はトアロードにある「奇妙なホテル」に居を定める。なにが奇妙なのかといえば、住人の国籍の多様性と商売のいかがわしさだ。得体(えたい)の知れないエジプト人や台湾人、バーのマダムたち(そのころバーで働くのは売春することを意味していた)に囲まれて、三鬼の奇妙で愉快なホテル暮らしが幕を開ける。おりしも戦争真っ只中(ただなか)で、神戸が空襲を受けるのも時間の問題だった。にもかかわらず、ホテルの住人たちは防空訓練にすら参加せずにのらくら過ごし、色恋沙汰にかまけ、酒を飲み、そして窓辺で頰杖をついている。『神戸』『続神戸』は、俳句を詠めないこのころの無聊(ぶりょう)を紛らわせるために書かれたのだろうか。明日をも知れぬモラトリアムを活写する三鬼の筆は、生を謳歌(おうか)する貪欲(どんよく)さと死への心構えを軽やかに描き出す。

 私は外套(がいとう)の襟を立てて、ゆっくりと坂を下りて行った。その前を、どこの横町から出て来たのか、バーに働いていそうな女が寒そうに急いでいた。私は猟犬のように彼女を尾行した。彼女は果たして三宮駅の近くのバーへはいったので、私もそのままバーへはいって行った。そして一時間の後には、アパートを兼ねたホテルを、その女から教わったのである。
 (『神戸』より)

山側からまっすぐに延びるトアロード=神戸市中央区山本通

 またしても小雨がそぼ降るなか(この連載は雨に呪われている!)、私はその「アパートを兼ねたホテル」を訪ねて、三宮駅からトアロードをとぼとぼのぼっていったのだった。

 山手から港へ向かって一直線に延びるトアロードは、まるで標高が高くなるにつれて植物相が変化する山のようだった。雑然とした下界からのぼっていくと、すこしずつ街の色どりが変化していく。かまびすしい熱帯のような駅周辺から抜け出して、ひんやりした界隈(かいわい)を漫(そぞ)ろ歩くのは気分がよかった。空襲で焼けてしまったその「奇妙なホテル」の本当の名はトーア・アパートメント・ホテルと言う。このホテルの支配人だった水村保氏は三鬼の小説にも善人「パパさん」として登場する。ご子息の正也氏が神戸新聞(1993年5月30日)に明かした旧トーア・アパートメント・ホテル跡地に立ってみたが、現在はビルや駐車場になっている。

メリケンパークの夜景が海面できらきらと輝いた=神戸市中央区東川崎町

 翌日は神戸文学館で「トアロード お洒落(しゃれ)で不思議な国際通り」と題された企画展を見物した。三鬼がいたころのトアロードの写真や、神戸に縁のある作家たちを紹介する展示物をつらつら眺め、神戸海星女子学院大学の箕野聡子先生の講演を聞いた。驚いたことに、多くの作家たちが神戸のことを書いていた。私が好きなところでは野坂昭如、村上春樹、稲垣足穂などなど。ほかにも谷崎潤一郎や堀辰雄、石川達三などの作品にもトアロードが出てくるとのことだった。

 私はそのことについてとっくり考えてみた。小説にはかならず舞台となる街なり場所なり惑星なりが出てくるが、はて、こうまで作家たちを惹(ひ)きつける神戸の作品舞台としての魅力はなんだろう?
 空襲?――それもある。古今東西、作家たちはつねに大きな不幸をメシの種にしてきた。洒落ている?――そうかもしれない。だけど一番の理由はやはり三鬼をも魅了した、まるで頰杖をついたバーのマダムのような、あの刹那(せつな)的な空気のためなのではなかろうか。だって、その刹那さは自由ととてもよく似ているのだから。

 私は神戸のことなどなにも知らないけれど、それを言うなら外国船に乗ってやってくる人たちだってそうだ。メリケン波止場に寄港する船は、今も昔もこの街で一炊の夢を見る。それは名だたる文士たちが捉えようとした一瞬のきらめきに似てなくもない。=朝日新聞2019年11月16日掲載