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「医療」と「マンガ」の関係に新潮流 情報解説より闘病経験、患者と家族の共感重視に

MK・サーウィックほか「グラフィック・メディスン・マニフェスト――マンガで医療が変わる――」(2019年、北大路書房)表紙

 「グラフィック・メディスン」という耳慣れない言葉を冠した書籍が今年の6月に翻訳、刊行された。MK・サーウィックほか「グラフィック・メディスン・マニフェスト――マンガで医療が変わる――」(北大路書房)である。

 副題の「医療」と「マンガ」という言葉の並びを見て日本のマンガ読者がまっさきに思い浮かべるのは、どちらかというと医療に関する知識やヘルスケア的ノウハウを解説するような「情報マンガ」だろう。だが「グラフィック・メディスン」というコンセプトが特徴的なのは、そうした客観的かつ総合的な情報の伝達手段ではなく、病をめぐる主観的で複雑な個々の経験を表現することができるメディアとして、コミックス/マンガを捉えている点にある。目指すのは、患者と家族と医療者のよりこまやかな相互理解だ。

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 昨年翻訳が出たブライアン・フィース「母のがん」(ちとせプレス)は「グラフィック・メディスン」を代表する作品のひとつだ。ステージ4の肺がんと診断された母親と、長男である著者を含む家族の物語である本作では、母親の苦痛や治療への不安、家族の葛藤や医療関係者への不信感、そして希望などが絵と言葉、そしてコマ割りの合奏による重層的な語りのなかで展開されている。

 イギリスの医師兼コミックス作家であり、「グラフィック・メディスン・マニフェスト」の共著者でもあるイアン・ウィリアムズが2007年にこのコンセプトを提唱して以来、その趣旨に賛同する人々が集まり、10年からは国際会議も毎年開催されるなど、医療におけるひとつのムーブメントを形成しつつあるようだ。18年には日本でも一般社団法人として日本グラフィック・メディスン協会が設立されている。

 専門知としての医学のなかでは一般化され捨象されてしまいがちな、病をめぐる個別の経験やそれぞれの苦しみを多様なやりかたで表現し、人々がそれについて語り合ったり、共有・共感したりできるマンガ/コミックス。こう期待される「グラフィック・メディスン」は、近年の欧米圏において、出来事の経験的側面をより主観的に伝える表現として注目されている「コミック・ジャーナリズム」など、コミックスを巡るその他の動きとも響き合う。一方、ここで強調される、従来の医学的言説やジャーナリズムに対するオルタナティブ(=もうひとつの)・メディアという位置づけは、欧米圏でのコミックスはどちらかといえば周縁に置かれた文化であることにも由来するものだろう。

     

 それに対し、日常的な娯楽として浸透している日本マンガは多様なジャンルと様式を発展させてきた。「母のがん」のような病をめぐる経験についての作品も多い。たとえば内田春菊は昨年、大腸がん手術を受けた自身の経験を「がんまんが 私たちは大病している」(ぶんか社)にまとめている。また、ウェブ上では、多くのアマチュアの描き手が病の経験をマンガにし、ブログやツイッターで発表してもいる。

 そうした日本の闘病マンガを読むと、「母のがん」のような作品とはまた微妙に違った感触もある。先月惜しくも死去した吾妻ひでおの「失踪日記」シリーズ(イースト・プレス)における、アルコール依存や鬱(うつ)といった経験の、壮絶ながらもどこかからりとした描写などには、経験の主観的側面をいったん突き放すような、どこか醒(さ)めたまなざしすら感じられる。自己をいったん解体しマンガ的「キャラクター」に再構成する手続きが、主観的世界に軸足を置いた描写とは異なる視角をもたらすのかもしれない。

 「グラフィック・メディスン」でも、既存の作品を読むだけでなく、自らの経験を「描く」ことの意義が大きくとりあげられている。病の経験をめぐり、視覚表現を通じて多様で活発なコミュニケーションを図るこの試みは、日本で普段あまり意識されないようなマンガの「力」を再認識させてくれるものといえるだろう。=朝日新聞2019年11月26日掲載