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恩田陸さん新刊「歩道橋シネマ」インタビュー 「蜜蜂と遠雷」の次に読みたいショーケース的短編集

文:野波健祐 写真:斉藤順子

――『歩道橋シネマ』はノン・シリーズの短編集としては4冊目になります(過去3冊は『図書室の海』『朝日のようにさわやかに』『私と踊って』)。ちょうど『蜜蜂と遠雷』の刊行をはさんだ時期の作品が並んでいます。あとがきにも書かれていますが、5年おきに出してきたのが、今回は7年ぶり。今年は映画化もありましたし、その辺りが影響しているのでしょうか。

 必ずしも、決めているわけではないんです。自分のタイムスパン的には前と同じくらい。確かに『蜜蜂と遠雷』の受賞前後はものすごく忙しかったですけれども、いまは落ち着きましたね。小説の執筆作業への影響はそんなにないんですが、音楽関係の対談やエッセイの依頼は増えました。

――映画関係の宣伝にも、かなり時間を取られたんじゃないでしょうか。あの小説をどうやって映画にするんだろうと思っていたんですが、見応えのある作品になっていました。何か原作者として注文はされたんですか。

 私も映画化は無理だろうと思っていたので、試写を見たときにほっとしました。試写室で監督が出迎えてくださったんですけど、真っ青で(笑)。互いにすごい緊張していたのがわかって。こちらからのお願いは、前後編だけはやめてね、と言ったくらいですね。漫画原作の映画にもありますけど、みっともない気がするんですよ。もともと収まりっこない話なんだから、映像化ではなく、映画としてきちんと一本にしてくださいと。監督はそこのところを理解してくださって、一本の映画としてよくできていたので、本当にうれしかったです。

――短編集のなかにも当時の多忙な日々の気分がうかがえる「皇居前広場の回転」が収められています(笑)。喧噪の日々に倦んでいる主人公が、夜の会食のために移動している車からみた都心の風景を、どこか私小説風に綴った一編。この作品含め、短編集には、長編作品ではほとんど見られない、一人称で書かれたものが多いように思います。

 長編の一人称が苦手なので(笑)。一人の目線だけだと書けないことが多すぎてつらいんです。短編は場面を切り取れるというか、断片でも収まるというのがあって、現実に体験していることがちょっとずつ入っている話が多いですね。

――冒頭に置かれた「線路脇の家」もそうですね。エドワード・ホッパーの同名絵画の話から、語り手が以前に電車から見た不思議な家の話へと転がっていく。最後に謎が解き明かされるのだけれども、ミステリーというわけでもない不思議な話です。

 この本のなかでも、かなりお気に入りの話ですね。直接の執筆のきっかけは、ホッパーのドキュメンタリーをテレビで見ていたときに思い出したからなんですが、バブルのころ、留守宅で雨戸が閉まっていて、真っ暗ななかに人がいるという家を何度かみたことがあって。なんなんだろう、この人たちはと思っていて。

――本の最後に対になるように置かれた表題作「歩道橋シネマ」も、一人称による風景の物語です。都市の風景のなか、かなり離れた4つの直線で区切られた空間が映画館のスクリーンのように見える歩道橋がある。そんな噂を聞いた男がその場所を訪ねると……。

 ノスタルジックというか、記憶というか、そんなことをテーマにした話で、書いていて懐かしい感じがした、私らしい作品だと思います。

――ふだんから、何かそういう風景を覚えているようにしているのでしょうか。

 たぶん無意識のうちに見てるんでしょうね。常に頭の片隅で、小説のことを考えているというか、ネタを探しているんですけど。なんとなく考えているものがフィルターを通って、小説という形になる。特に意識しているわけではないので、メモをとるわけでもなく。忘れちゃうネタというのはやはりたいしたネタではないんですね。

――アイデアが秀逸といえば、この季節にふさわしいのが「柊と太陽」です。未来の日本なのかパラレルワールドの未来なのかわからない世界で、クリスマスが意外な風習として伝わっているお話。みなが知る行事への「大胆な解釈」が楽しい。

 「小説新潮」のクリスマス特集で書いたものですね。プロテスタント系の幼稚園に通っていて、クリスマスになると、馬小屋に生まれたキリストの元に東方の三博士が訪れるという劇をやっていたんですが、あれってまるっきりフィクションなんですよね。そんな幼い頃の疑惑が……大人になってだまされた!と。キリストの誕生日は全く不明だし、サンタクロースも聖ニコラウスと言われているけど本当なのかどうか。むしろクリスマスは冬至を祝う民間信仰と習合しているに違いなくて。もともともやもやしているものがあって、結構悩みましたけど、書き始めたらすーっと書けましたね。

――一方で、過去の恩田作品の番外作も何編か収められています。「麦の海に浮かぶ檻」は人気作『麦の海に沈む果実』(2000年)の学園を舞台にしたミステリー風味の作品。過去の短編集にも「睡蓮」(「図書室の海」)、「水晶の夜、翡翠の朝」(「朝日のようにさわやかに」)があって、『麦の海~』の関連作は折にふれて書かれていますね。

 最初に好きなものを書いたと思えた作品だからですかねえ。書き始めたのは、デビューしてまだ数年のころで、何を書いたらいいかというのがよくわからなかったころです。前作の『三月は深き紅の淵を』(1997年、『麦の海~』のストーリーが作中作として出てくる)を書いたとき、「ああ自分の好きなことを書いてもいいんだ」と少し思ったんですけど、本当にやりたい放題書いたのが『麦の海~』。本当に自分の趣味だけで書きました。

――過去作といえば『蜜蜂と遠雷』で初めて恩田さんを知った読者は次にどんな作品を読んでいるのでしょうね。

 私自身は芸道ものつながりで、『チョコレートコスモス』(2007年、演劇のオーディションをめぐる物語)をおすすめしているんですけれども。この短編集を読むと、ほかにもこんなのを書いているとわかるので、ショーケース的に読んで、そこから次の作品にいっていただければありがたいですね。

――確かに、恩田さんのデビュー作は青春ホラー『六番目の小夜子』、一方でミステリーの大きな賞も受けています。そういう意味で「降っても晴れても」「ありふれた事件」と並んだ2作品は個人的にしびれました。前者は、晴れた日でも水玉模様の雨傘をさしている男を巡る「日常の謎」とも言えそうな本格ミステリー、後者は銀行の立てこもり強盗事件を舞台にした実話怪談風ながら不気味な後味を残す怪奇譚。割り切れる謎と割り切れない謎との対比が絶妙です。

 怖い話はもともと好きなんです。得意かどうかはともかく、書きやすい。「ありふれた事件」は実話怪談で知られる雑誌「幽」からの依頼だったので、じゃあ書こうと思って。以前、警察に勤めていた人の話を読んだんですけども、どうしてもよくわからない、割り切れない事件があるらしくて。実際の事件の見た目と違う真相の話を書いてみたいというのが始まりでして。
 ただ、私のど真ん中ストレートは、ホラーというよりも「奇妙な味」系の話なんです。早川書房の「異色作家短編集」のシリーズが根っこにあって、あの中には純文学系もあれば、SFなのかミステリーなのかもわからない作品がジャンル越境的に収められていました。その影響はありますね。

――そんな越境のなかで、音楽小説の『蜜蜂と遠雷』も生まれて。あの作品の感想でしばしば目にしたのは、音楽ってこんなにいろんな言葉で表現できるのかと。やはりある程度、作家生活を送ったからこそ書けたものなんでしょうか。

 そうですね。今回コンクールの取材を重ねましたが、1~2回では書けなかったと思います。12年近く通ったからやっと書けた。音楽をただ聞くのと、取材として聞くのは違いますからね。音楽を言葉にするのは難しい。これをどうやって書こうかとか、そんなの考えたことなかったですから。書いているときは、うーんどうしようどうしようっていつも思ってました。まあ、終わりよければすべてよしですね(笑)

――最後に今後の執筆の話をうかがいますが、本書の収録作「春の祭典」は、バレエをテーマにした長編小説の習作として書かれたそうですね。バレエも、動きを見たまま書けばいいというものでもなく、音楽と同様に難しいのかなと想像してしまいます。

 そうですね~。音楽はある程度自分でも演奏していたけれども、バレエは全く経験がないので、絶賛、悩んでいるところです。コンテンポラリーはジャズに近いところがあって結構見ていたんですけれども、古典バレエを全幕通しで見るというのは、この6~7年。振り付けをする人の話にしたいと思っているんですが、ポーズとか型とかにくわしくはないし、言葉で説明してもわからないだろうし、違うアプローチで書くと思うんですが……ただ、来年には始まる予定なので、もう悩んでいるわけにはいかなくなりました(笑)。