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文豪たちの金銭感覚って? 「令和の文士」の穂村弘さん(歌人)と町田康さん(作家)が語り尽くす!

文:福アニー、写真:松嶋愛

生活のために「魂を売る」問題

町田康(以下、町田):どうもこんばんは。穂村さんとトークショーでご一緒するのは2回目で、一対一は初めてですね。前回は寺山修司のイベントで、今日は「文士の収入」がテーマということで、よろしくお願いいたします。

穂村弘(以下、穂村):よろしくお願いします。『お金本』に町田さんと私の文章が収録されているご縁で、今日の刊行記念トークイベントに登壇させていただいています。この本に出てくる文豪や作家はほぼ全員が貧乏で、俺は金持ちだって言ってるのは赤塚不二夫とやなせたかしくらい。夏目漱石はもうちょっとお金持ってるイメージだったんですけど。

町田:夏目漱石は若い人が文壇デビューするとき、編集者のような出版プロデューサーのような役割も担っていたようですね。

穂村:漱石にはお弟子さんがいっぱいいて、内田百閒も何度もお金を借りていて。でも漱石本人は、この本に収録されている「文士の生活」の中で、自分は金持ちじゃないってことを盛んに言っている。まったく文豪感がなくて、名前を隠したら彼だってわからない。

町田:この脇に一切行かないストレートな感じ、漱石の直進感や断言力を感じませんか(笑)。

穂村:漱石だと思うからじゃないかな(笑)。僕もこれを読んだとき、すごく「おお~」って心の動きがあったけど、漱石だからっていうのはあるのかも。

町田:ただ「文士の生活」には、本質的なことも書かれていて。お金と文学のかかわりとして、この本に通奏低音のように鳴り響いてるテーマがあると思うんですよ。つまり生活と芸術の問題。生活のために文章を売ることを実際よしとしないんだけど、生活のジレンマも現れていて、文豪と言われる人もそうでない人も、結局そのことをずっと言ってるんじゃないのかなって。それは現代にもものすごく通じるというか。たとえば音楽でも「メジャーデビューすると売れ線をやらされてダサくなる」みたいなことがあったわけだし。短歌はどうなんですか?

穂村:魂を売る問題ね(笑)。音楽はそれがすごく可視化されやすいし、物書きも迷うときがありますよね。でもそのメジャーバンドの場合は、魂を売りませんかって言って買ってくれる人がいたわけでしょ。でも短歌は叩き売りみたいになっても誰も買ってくれないから、そこの迷いはあまりないかな。

町田:でも俵万智さんとか、売れる歌集もありますよね。

穂村:それは本当に例外中の例外で、俵さんくらいですよ。たとえばこのお酒がおいしいって広告用の短歌を作ってくれませんかって依頼があったとき、まず飲んでみて、うまいかまずいかで考えますよね。うまかったら自分を説得にかかりますよ、本当にうまいんだから魂を売るんじゃないって。逆に、もっとも意識的に売ってるのは谷川俊太郎さんで、価値観も尖っていながら、生命保険のCMの詩を書いてますよね。あと岡井隆さんって短歌の巨匠がお酒の広告をやったとき、旋頭歌(和歌の一体で五・七・七・五・七・七)を作ったんですよ。短歌を微妙にかわしてて感心しました。サブ魂を売る感じ(笑)。

町田:魂が問われてますね(笑)。そもそも心で思ってないことを、技術だけを用いて素晴らしい歌にするってことはできるんですか?

穂村:短歌にはもともと「題詠」というのがあって、自分がそのテーマで作ろうなんてまったく考えたこともないような題をいきなり出されるわけです。だから(ウイスキーの)山崎って題詠なんだと思うことができれば、魂を売ってないのかな。もともと和歌だって天皇がクライアントで、柿本人麻呂や額田王がコピーライターで、コピーの対象となるのは「国家繁栄」とか「戦勝祈願」とかなわけで。我々はそれを見て、別に魂を売ったとは思わないでしょ。

町田:個人の思想や感情じゃなくて「歌」という形式があるから、色々当てはめることができると。たとえば和歌だと恋愛の歌の詠み合いしてますけど、あれって群衆を意識したヤラセなんですか?

穂村:そうらしいですよ。いまでいうカラオケ的な、マイクが回ってきてじゃあ三角関係の歌うたいますみたいな。首が飛んじゃうような歌は、本当のマジなら残らない。でも不倫の歌はいっぱい残ってるから、それを全体として許容する場があったのかなと。豊かな言葉の共同体ですね。

町田:魂を売る短歌はまあまあ受けるけど、買い付けがあまりない。とすると、音楽は売れるかもとかあるけど、短歌はある意味最初から心が平穏ですよね。

穂村:ただ俵さんが爆発的に売れた時、みんなちょっと動揺したと思いますけどね。それまでは隕石が落ちてくるくらいありえないと思ってたけど、目の前に落ちたから、ここにも来る可能性があるって。

ちょっと話は逸れますけど、石川啄木も歌人として身を立てるなんてまったく考えてなくて、本当は小説家になりたかった。それでわざとふざけた短歌を作ったら、それが逆に斬新に見えて、短歌で歴史に残っちゃった。でも自分が歴史に残ったことは知らないという。短歌のプロも他ジャンルに比べて非常に大衆的なメンタルを持ってるので、啄木に対して受容的。いまでも詩の世界でポエムって受け入れられないけど、短歌の世界ではかなりポエム的なものは受け入れられるんですね。ベタなものやお涙頂戴的なものにすごく優しいし、それを批評的に見るってまなざしは弱いジャンルかな。

衝動的に「ぽわ~ん」を買う

町田:次に萩原朔太郎が、室生犀星に宛てた「手紙 昭和四年」が引っかかった。犀星は貧乏で朔太郎は医者の息子で金持ちなんだけど、かいつまんで言うと、「新潮社から前借りしようとしたのに、君がいらないことをするから僕がすぐに金をもらえない」っていう怒り。魂の最上の部分が詩となって書かれてるとすれば、これは魂の最低の部分が書かれてる(笑)。

穂村:すごいウジウジした愚痴(笑)。書いてて自己嫌悪にならなかったのかな。でもやっぱり魂には幅があるから、こういうの見ると安心しますよね。あと草野心平がお金がなくなっちゃったときに、そこまで親しい知り合いじゃなかった宮沢賢治に、お米を送ってほしいと頼んだ「放浪時代」のエピソードもよかった。でも届いたのは造園学の本で、これを処分して米に変えてほしいと。賢治としても精一杯の本を送って、草野心平もそれを大事に取っとくんじゃなくて、実際売ったんだけど、「だいたいを読んでから」ってところにすごくグッときた。

町田:たとえば自分が賞を与えたことがあるような若い人に、「穂村先生、お金に困ってるから15万円貸してください」って言われたどうします?

穂村:僕はあげない。町田さんはどうですか?

町田:うーん、15万って金額より、そいつを疑いますよね。甘えんなって言いたくなる。

穂村:歌人で塚本邦雄って絢爛たる美意識の持ち主がいるけど、彼が都落ちする後輩を見送りに行って、そのとき5千円を手渡したっていうことをその後輩から聞いたことがあって。僕はその5千円って金額にも感動した、1万円じゃないんだって。

あと寺山修司に送った手紙のなかで、寺山を叱ってる文章があるんだけど、君はなんで速達をいちいち大きい封筒に入れてくるんだ、しかも大小別々に送ってくるんじゃなく、小は大の中に入れよと。そうすれば浮いたお金でラーメン半分食えるじゃないかと。塚本の作風を知ってる人はわかると思うけど、ラーメン半分とはかけ離れた高踏的な作風なのに、そんなことをいちいちダメ出ししてて、でも、そこがよかったですね。結局お金って魂と直結で、いちいち魂を問われる感じになるから、どれが正解か自分でも自信がない。

町田:自分にとって金に関して幸福な状態ってなんなのかって言ったら、金のことを一切考えないで、必要なものや欲しいものを全部買って生きていけたら幸せだと。でもそうなると、欲望ってあまり生まれないのかなって。物欲はじめ、欲望の発生するメカニズムについてどう考えますか?

穂村:僕は衝動買いしかしたくないんですよ。衝動買いってなにかって言ったら、憧れを買うって感じなんです。たとえばこれは大正三年一月八日にパリで投函された絵葉書なんだけど、なぜ買ったかというと、画家の藤田嗣治の年賀状だからなんですよ。文面は肉筆で、絵は印刷。ようするに美術的な価値はない。これ3万円なんだけど、どうですか? ただ105年前のパリで藤田がこれを万年筆で書いて投函したって思ったとき、僕は「ぽわ~ん」ってなってしまった。

町田:その3万円は「ぽわ~ん」代なんですよ。なんだか「ぽわ~ん」に鍵がありそうですね。僕が無駄に金を使うときは、仕事が行き詰まってきたときですね。余計なものを買って気を紛らわせる。前に運動不足解消にもなるし、渋滞も駐車場も気にしなくていいしと思って自転車買ったんですけど、都心は坂がすごくて。いままで気づかなかった恐るべきアップダウンの繰り返しで、一日でやめました(笑)。

穂村:それも一種の「ぽわ~ん」現象ですよね。自転車を買うことによって、それに乗ってるかっこいい自分の絵が浮かぶ。そこにお金を払ってしまう。

町田:そもそも「ぽわ~ん」ってしたいのはなぜですか?

穂村:自分が藤田嗣治みたいな存在になるのは大変だし、努力だけで行ける境地ではないでしょ。だけど買うだけなら、一瞬でそれが小さく実現できる。この絵葉書のにおいをくんくんすると、藤田的なものに接近できるというか。他には作家の倉橋由美子の文庫本も装丁している、僕ら世代の憧れのアーティスト、野中ユリのもの。これは僕が好きな本の装丁に使われたデカルコマニー(紙と紙の間などに絵具を挟み、再び開いて偶発的な模様を得る技法)の現物なんです。5万円だったんですけど、買ったあとなんの後悔もない。さっきの嗣治の絵葉書は微妙なんだけど(笑)。そしてこれは彼女のスケッチブック、15万円。

町田:インクが跳ねたやつですか!?

穂村:インクの飛び散り具合がみんな違うんだけど、50枚くらい全部これなんです。買ってよかったか自信がなかったけど。今、ほっとしてます。無駄じゃなかった、町田さんとの対談のネタにできたって。

町田:いま穂村さんの話を聞いた時に、穂村さんの歌を読むよりも、穂村さんという人間の違う側面を見た感じがするんですよね。『お金本』は全部お金ってフィルターを通して、文豪を見てるじゃないですか。全体的に読んで思ったのは、それを通して見ると、人間ってすごくわかりやすくなるなって。共感しやすいのは共通の魂のフォーマットがあるからで、だからお金って交換しやすいのかなって。

穂村:友達の作家がある仕事を受けるかどうか考えたときに、町田さんがやってたから受けたって言ってたから、そういう考えもありますよね。

町田:名前の信用か。もちろんこれだけ出すならちゃんとしてる、これすら出せないならヤバいというような、金の信用もありますけどね。

一番狂気を感じる文章は…

町田:じゃあ『お金本』の話に戻りましょうかね(笑)。一番驚いたのは、二葉亭四迷の「予が半生の懺悔」。『浮雲』を書いたけど、自分としてはあれは小説じゃない、いまいちなんだと。自分は正直に生きていたい、芸術を尊重したい、金に媚びたくないと。その一方で、自分は親のすねをかじって自ら稼いでいない。儒教的な感覚で言うと人の道としてどうなの、親のすねかじって芸術って言ってんのどうなのって。

それだったら自分の小説をがんがん売っていったらいいんじゃないか、でもそれは芸術に顔が立たない、とはいえ文学的な営為をやめて本を出さなかったら稼げないから親に対して申し訳ないと、非常に困ってるんですね。自分のやってることは「詐欺」だとまで言っている。「実際的(プラクチカル)と理想的(アイデイアル)の衝突だ」と。「進退維谷」に「ヂレンマ」とルビが振ってあるのもおもしろい。そういう二葉亭の「正直」が通奏低音のように流れてるかと思えば、吉川英治の「書簡 昭和三十三年」のような文章もある。

穂村:印税を減らして、部数を減らして、定価も下げて、装丁をよくしてくれっていうやつですよね。

町田:出版社にも読者にも悪いから、自分の取る金は少なくていいから、みんなのいいようにして。俺一人が犠牲になりますって。人格者か! あと腰を抜かしたものと言えば、やなせたかしの「お金がもうかる正しい原則」。要約すると、社会が間違ってると悪いものが売れる、それは間違った社会。社会が正しいと良いものが売れる、それは正しい社会。自分は正しい社会だと思ってる、人間も社会も信じてる、だから自分が描いたものは爆発的に売れる。だから僕は金持ちだ!と。どうですかこれ、なんとも言えない(笑)。

穂村:これね、一番狂気を感じる(笑)。こうじゃなきゃアンパンマンは作れないというか、本気でそう思ってたからアンパンは作れたというか。勧善懲悪や善ってものをめちゃくちゃ信じてる……いま我々の感受性は反転してて、すごく栄えてるものを見ると、逆に悪いことやずるいことをしたんだろうと思うようになってると思うんだけど。でもやなせたかしはその真逆を思いっきり言っていて、自分が栄えたのは自分の心が正しいからだ、だからアンパンマンだっていう。すごい文章で圧倒されましたけどね。もちろん文士の本だから、いかれてる人はいっぱい出てくるんだよね。とはいえ文士の壊れ方にはある種の傾向、方向性があると思う。でもやなせたかしはすごく逆方向に壊れていて、なんとも言えない感じです。町田さんは「この魂ならわかる」って文章はあるんですか?

町田:そうですね、川端康成の「私の生活」ですかね。最初から「希望 1、妻はなしに妾と暮らしたいと思ひます」って断言しててすごい。

穂村:この文章は正直に書いてるのがよくわかりますね。逆に小泉節子の「思い出の記」で描かれている小泉八雲はめちゃくちゃ性格が優しいというか、このたどたどしい日本語すごくいいなと。

町田:いいんですけど、これを平たい日本語で書くと、やなせに肉薄していくような気がします(笑)。僕もレアな大阪弁でしゃべるときありますけど、方言でしゃべる人って、なんとなく素朴でいい人に見えるじゃないですか。その効果を狙ってるのかななんて思ったり。普段散文やってると、たとえば井伏鱒二はうまいんですよ、方言を変な風に使ってない方言を作って、自分の心を隠すというか。そういうものは見慣れてるし、自分でも時々やりますから、小泉節子のこの文章を読んだときに感じた情趣っていうのは、おそらくたどたどしい言葉遣いからきていて。

穂村:町田さんはそんなにだったか……。

町田:ところで歌の魅力といえば、同じ歌詞なんだけどある人が歌うと、絶対感動して泣いてしまうっていうのもありますよね。自分で歌詞書いてて思うんですけど、よくこんな陳腐な日本語書けるなって思うようなものしか書けない。でも歌詞で難しいことやっちゃうと、歌ってもなにも伝わらない。声やメロディーやリズムが乗ると、たとえ陳腐な歌詞でも伝わっていくというか。

穂村:僕がそれで何度もやられたのは、喜納昌吉の「花」。歌詞カードで見ると「えっ」てなるけど、歌ってるところを見ると感動するんですよ。いいか悪いかどっちかにしたいけど、引き裂かれたままですね。

「健康」「お金」「愛」を超えて命を全投入できるか

穂村:でもやっぱりお金があるって話は書きにくいし、書いてもおもしろくならない。人間の極限状態を見たいっていうのもあるだろうし。

町田:そうなんですよ、やっぱり人の苦しんでる姿が見たいですからね。文学やるやつって、だいたいいまも昔も金持ちの子が多いんですよ。朔太郎も中也も賢治も。ようするに家に金があって、子供の時から余裕のある環境じゃないと、文学なんてやる気にならん。そのわりに金だ金だ言っている。

穂村:朔太郎は典型的だけど、親との折り合いがあるんでしょ。お金がないって言って、親には嫌味を言われて地獄だって言って。

町田:ぬるい地獄ですよね(笑)。

穂村:『お金本』でもう少し続けると、坂口安吾の「手紙 昭和十一年」も色々凄くてびっくりしたな。借金が返せないって言ってるのに「小生こんど競馬をやらうかと思つてゐますよ」って(笑)。これはきっと親しい人なんでしょうけど。

町田:坂口も金持ちですよね。太宰治の「手紙 昭和十一年」に比べるとぬけがありますよね。穂村さんにとってお金ってどういうものですか?

穂村:お金に関してめちゃくちゃな人を見ると、変に負けたような気がして。お金が大事だって合意にそこまでサインした覚えはないのに、自分はいつの間にかその合意を守る人になってて、でもそいつは平然とそれを破っている、あるいは超えているというね。最近よく思うのは、ある年齢以上になると、みんなが大事なものはだいたい決まっているなと。それは「健康」「お金」「愛」。

僕自身、子供の頃は「オオクワガタ」「ミヤマクワガタ」「カブトムシ」だったのに。50歳過ぎてその三つが上位の人は狂っちゃってるけど、そういう人がいてもいいし、自分も上位三つのうち、一個くらいは置き換えたい。愛も健康もお金もそんなに大事かって考え方もあると思うし、もしそれとは違う価値観が提示されてる小説があったら読んでみたい。その点、町田さんはもっと壊れてるみたいなイメージで見られがちだと思うんですけど、どうですか?

町田:僕、全然壊れてないですよ(笑)。健康とお金って別のものかっていうと、わりと同じもののような気がするんですよ。つまり健康っていうのは、本来健康なわけがない、どんどん弱って死んでいってるんだから。健康がずっと続くわけでもないし、人間がひとつの種である以上、持続可能ってことはありえないわけじゃないですか。地球より先にクラッシュするのは当たり前なことで。それで永続っていうのは宗教ですよね、健康っていうのもある意味宗教。じゃあなんで宗教を欲するのかっていったら、自分にとって時間感覚がなくなる死が訪れるから。

つまり金ってどうやって生まれてくるのかっていうと、結局なにか先の保障じゃないですか。金に憑りつかれたり狂ったりするのはなんでかって自分なりに考えてみると、資本の流れというよりは、時間の精髄というか、先の時間そのものみたいなところがあって。そうすると人間の命が有限である以上、先の時間を普通は金で買うと思うけど、違うんですよ。金そのものが自分の先の時間なんですよ。むしろ金が寿命に近いんじゃないか。そういう意味では、金がないと不安になるって心の動きは、自然だと思うんです。

穂村:もし明日地球が滅びるって確定したら、お金はまったく意味をなさなくなる。あるいは奥村晃作って歌人が作ってる短歌で、「イヌネコと蔑(なみ)して言ふがイヌネコは一生無所有の生を完(まつた)うす」っていうのがあって。つまり、犬や猫の生はお金とは無関係で、現在という時間だけに命を全投入している。確かに犬がめちゃくちゃ楽しみにしてたご飯を高速で食べちゃうのを見ると、もうちょっと味わえよって思いつつ、なんか負けた感が(笑)。

町田:犬猫が今しかないとすると、人間には過去と未来があって、未来を欲するときは金を欲して、過去を欲するときは物語を欲する。物語と金に挟まれた現在を我々は生きてるというか。

穂村:縛られて生きたくないって気持ちはあるんだけど、詰将棋のようにどんどん目先の正解と思われる考えを突き進めると、もっとも縛られるところにいくんですよ。だからそれを断ち切るには、ある種の理不尽なものがないと断ち切れなくて、文学はそういうもののひとつだと勝手に思っていて。文学には、健康と愛と金のような、我々を縛ったり我々が逃れられなかったりするもの以外の非合理性があって、だからそれを読めばもっと命が自由になるんじゃないかって。本来、韻文って特殊な時空間を作るためのものだったからね。ただ今その力がすごく衰えていて、すごく散文化しているので、我々もそういう呪術的な感覚を実感できなくなってしまっている。日常の中でそういうの感じることってありますか?

町田:ごく短い瞬間ですけど、酩酊や陶酔や眩暈というのは、どんな人にでもあるんじゃないですか。たとえば歌や踊りや文章書いたり読んだりするときに、そういう感覚を得られる。その瞬間をなんとか引き延ばそうとして、努力してるのが『お金本』に出てくるような人たちなんでしょうね。僕もライブとかリズムに乗って文章書いてる時とかに感じますね。