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人気翻訳家が愛してやまない鬼才、E・マコーマックの新刊「雲」 一冊の古書が誘うミステリアスな世界

文:朝宮運河

 迷宮的ポストモダン小説『パラダイス・モーテル』で知られるスコットランド出身、カナダ在住の作家エリック・マコーマック。彼の待望久しい新刊『雲』(東京創元社)が昨年12月に刊行された。翻訳を手がけたのは、かねてマコーマック好きを公言してきた人気翻訳家の柴田元幸氏。主人公ハリー・スティーンの波乱に満ちた生涯を、奇妙なエピソードを随所に織りまぜながら語った同作は、紛れもなくマコーマック印の幻想小説である。2011年刊行の『ミステリウム』以来、新作を待ちわびていた日本のファンにとって、またとないクリスマスプレゼントとなった。

 あらすじを簡単に紹介しよう。ハリーは偶然立ち寄ったメキシコの古本屋で、19世紀に刊行された英語の本を手にする。タイトルは『黒曜石雲』。それはスコットランドのダンケアンという炭鉱町で発生した「奇怪な出来事」――鏡のような黒雲が垂れこめて、町の人々を驚かせたという事件――にまつわる古記録だった。かつてダンケアンに滞在し、生涯忘れることのできない経験をしたハリーは、その本を購入。スコットランド在住の学芸員に連絡を取り、謎めいた古書『黒曜石雲』の来歴を調べてもらうことにする。

 と、ここまでがプロローグにあたる部分。その後物語の大半を占めるのは、幼少期から壮年期へといたるハリーの長い回想だ。最初の舞台となるのは、グラスゴー近郊にあるスラム街。狭い長屋に多くの人々が暮らし、暴力と迷信がはびこるその地域で、ハリーは読書好きの両親のもと、想像力を育んでゆく。陰惨な殺人事件や幽霊の噂に彩られたハリーの少年時代は、暗く重苦しいが決して不幸なものではなく、この物語においてもとりわけ印象深いパートになっている。
 やがて大学を卒業したハリーは、下宿の大家夫妻の紹介で、炭鉱町ダンケアンに教師として赴任する。その町で老いた父親と暮らす美しい女性、ミリアムと知り合ったハリーだったが、恋は悲しい終わりを迎えた。深い傷を負ったハリーはダンケアンを去り、船乗りとなってアフリカ、南米、南洋と放浪の旅を続けた後、ふとした縁からカナダに移り住む。
 こうしたハリーの一代記の折々に、スコットランドの学芸員による『黒曜石雲』の調査レポートが挟みこまれてゆく、というのが本書の構成。19世紀の古書をめぐる調査は、やがてある意外な真実をハリーに突きつけることになるのだが、それは読んでのお楽しみ。一冊の古書に導かれた旅は、ハリーと読者の眼前に世界の奇妙さをあらためて浮かびあがらせる。

 傷ついた青年が思い人の面影を胸に宿しながら、世界を放浪するという物語の流れは、鬼才マコーマックにしては、やや常識的(またはありきたり?)に感じられるかもしれない。しかし、ご安心あれ。人々をさかさまに映す鏡のような黒雲を筆頭に、本書は奇妙なイメージやエピソードには事欠かない。
 体の内側から刺し殺されていた男、目玉をほじくる鳥、町を呑みこむ巨大な穴、お喋りが止まらなくなる病、幻覚を引き起こす鉱山、南洋の島の風変わりな夫婦生活。作中のミリアムの言葉を借りるなら、「超自然というのとは少し違うかもしれないけど、どうなってるんだろう、と考えてしまうくらいには奇怪」な事柄が、ハリーの行く先々にはつきまとうのだ。そしてその多くは合理的に解決されることなく、物語の片隅に放置される。その凸凹した世界の形に、マコーマックらしさが漂う。『雲』はこれまでのマコーマック作品同様、解決編のないミステリー、出口のない迷宮なのだ。

 ところでプロフィール欄を眺めて気づいたが、ポストモダン小説の旗手として鳴らしたマコーマックも今年で80歳。『雲』にはいよいよ老境にいたったマコーマックが、スコットランドからカナダに移住してきた自らの人生を投影させている気配もある。ぞっとする展開や不条理な世界観を示しながら、本書にどこかウェットで優しい手触りがあるのはそのせいだろうか。
 怪奇幻想小説のファンはもちろん、あらゆるジャンルの本好きにおすすめしたい、普遍的魅力を備えた傑作長編。マコーマック文学の集大成である本書が評判を呼ぶことで、未訳作品の紹介がさらに進むことを心から期待したい(「訳者あとがき」で数編の冒頭が訳されているが、いずれも面白そうなのだ!)