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ソンタグの日記 恐怖や利己心、作家も人間だ 作家・小野正嗣〈朝日新聞文芸時評20年2月〉

長谷川繁 タイトルなし

 きょうから東京国立近代美術館で、世界的にもっとも著名な現代画家の一人、スコットランド出身のピーター・ドイグの展覧会が始まる。

 ドイグは、2002年からカリブ海のトリニダード・トバゴに拠点を置いている。彼の描く南国の島の風景には、いわばコラージュのように過去の巨匠たちの作品や画家自らが撮影・収集した写真に触発されたイメージが重ね合わせられ、ひとつの風景が複数の風景に開かれている。

 ドイグには、カリブ海のセントルシア出身のノーベル賞詩人・劇作家デレク・ウォルコットと共作した本があるが、後者の代表作が西洋文化の起源であるギリシア神話の世界を、故郷であるカリブ海の島の現実に重ね合わせた叙事詩『オメロス』であることを思うと、二人の芸術家の手法的な共鳴は興味深い。

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 一月にニューヨークを訪れて友人のアメリカ人カップルと散歩した際、ドイグの絵を話題にすると二人は、ヒルトン・アルスがドイグについて書いているから読むといいと勧めてくれる。長年、雑誌「ザ・ニューヨーカー」で劇評を書き、ピュリッツァー賞批評部門を受賞したアルスは、村上春樹も解説を書いているトルーマン・カポーティの初期短篇(たんぺん)集『ここから世界が始まる』(小川高義訳、新潮社)に作品解題を寄せている。

 カリブ海のバルバドス出身の両親を持つアルスは写真批評でも知られ、カポーティの戦後すぐ(1948年)の第一長編『遠い声 遠い部屋』(河野一郎訳、新潮文庫)の原作本の裏表紙にある、ソファに寝そべりこちらを見つめる若きカポーティの有名な写真に、女性になりたいという作家の欲望の実現を見る。同性愛者だった作家は、人気・崇拝・名声を獲得した女性の書き手としての自己像を演出しているのだ、と。

 アルスのことを僕に教えてくれたカップルは、ほら、とそばの巨大なマンションを指さした。「私たちは昔あそこに住んでてね、すぐ上の最上階にスーザン・ソンタグが住んでたんだ」。「ソンタグ!」と僕。

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 01年の同時多発テロの際、アメリカ全体を包んだ愛国主義的な空気に抗(あらが)い、母国の覇権主義を冷静に批判した明晰(めいせき)な知性の人ソンタグ。『同じ時のなかで』(木幡和枝訳、NTT出版)所収のいくつかの講演には、彼女の文学への絶対的信頼、文学は支配的な信念に対抗し、自分でも自分たちでもないもののために涙を流す能力を養い鍛錬するという揺るぎない確信が力強く表明され、励まされる。ソンタグこそ人気・崇拝・名声を手にした女性作家の典型に見える。

 だが昨秋刊行されたベンジャミン・モーザーによる浩瀚(こうかん)な伝記『ソンタグ その生涯と仕事』(未訳)を読むと、才能溢(あふ)れる少女の頃からソンタグがたえず不安や疑念に苛(さいな)まれていたことがわかる。モーザーはその理由として、若くして夫を亡くしたアルコール依存症の美しい母親との複雑な関係や、彼女の性的アイデンティティ(ソンタグは結婚するなど異性とも性的関係を持ったが、自らを同性愛者だと考えていた)を重視している。ソンタグを苛む苦悩は、『私は生まれなおしている』、『こころは体につられて』(ともに木幡和枝訳、河出書房新社)として刊行された日記やノートからも感じられる。

 モーザーは相当数の関係者にインタビューを行っており、他者のまなざしに映ったソンタグ、名声を求めて悪戦苦闘するその姿はときにひどく利己的だ。一九歳で産んだ幼い息子を夫のもとに残して英仏に留学し、しかもそこで恋人を作ったり……すごい母親だとため息も出る。

 だが息子のノンフィクション作家のデイヴィッド・リーフが、母の最期について綴(つづ)った『死の海を泳いで』(上岡伸雄訳、岩波書店)からは、大切な人を失ったときに誰もが感じる「ほかにできることが、言うべきことがあったのでは……」という後悔と自責の念が強く伝わってきて、息子がどれほど母を愛していたかがわかる。

 そして死を激しく恐怖し、あられもなく生に執着するソンタグの姿は、あまりに人間的である。

 作家の日記やノートや書簡を、それらに基づく伝記を読む必要があるのか。作品がすべてだ、という立場があることも知っている。だが、ソンタグを一躍有名にした『反解釈』(高橋康也ほか訳、ちくま学芸文庫)で彼女が指摘するとおり、僕たちが作家の日記に探すのは「苦悩する自我」だとしたら、その苦悩に触れることでソンタグの残した作品をもっと読みたくなるのもまた事実なのだ。=朝日新聞2020年2月26日掲載