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藤巻亮太の旅是好日 数え切れないくらい歌ってきた「3月9日」はそのたびに、新しい

文・写真:藤巻亮太

ライブ延期と地元の友人からの電話

 世間は新型コロナウィルスで大変である。その影響がいろいろなところへと波及しているが、音楽業界もまた例外ではない。僕自身、3月9日に予定していたライブの延期を決めた。もちろんこの状況を考えれば当然のことだ。ただ、この日に僕自身の持ち歌である「3月9日」を生で聴くことを楽しみにしてくれている人たちだけでなく、それと同時に、今年はコロナのせいで卒業式が中止や規模縮小となり、式典で「3月9日」を合唱して大切な思い出を共有することができない卒業生たちが溢れていることを知った。そんな彼ら彼女らに少しでもエールを送りたいと思い立ち、LINEでライブをすることに決めて準備をしていた。

 そんなとき地元山梨のテレビ局につとめる古い友人から電話がかかってきた。「山梨でも卒業式が中止や縮小されているんだよね。だから、こんなときに申し訳ないが3月9日に山梨にきて生番組で歌ってもらえないだろうか。そして地元を少しでも元気づけてくれないか」といわれた。僕の心は快諾を決めていた。そして、電話を切ったあと調べてみると、特急で弾丸ツアーをすればLINEライブもギリギリ間に合うことがわかった。

 当日、本番前にいくつかインタビューを受け、卒業生に向けてメッセージを求められた。目の前に卒業生はいないが、僕は一拍おいて素直に思いのたけをのべた。

 「僕自身の高校時代を思い出してみると、プロのミュージシャンになりたいという目標をみつけていたわけではありません。正直なことをいえば、当時、なにをやっても中途半端で、何かやりたいこと、夢をみつけている人がとてもうらやましかったです。まわりと自分を比べては劣等感を覚えたりしたものです。でも、なんとか大学に入ったあとで、ひとつの転機がきました。それは自分ではじめてオリジナルの1曲をつくりあげたときです。1曲つくりあげたとき、どこか自分が肯定された気持ちになりました。未来がみえず、何をやってよいかもみつけられず、わけのわからない時代もあるよねと・・・・・・。それまでのことを肯定する力を音楽のなかに見つけ出しました。そこからは音楽一直線です。

 さて、卒業を迎える人たちに伝えたいメッセージがあるとすれば、何かしたいことが決まっている人は、そのまま迷うことなく突き進んでほしい。でも、決まっていない人は、わからないこと、迷うこと、そしていろいろトライをして失敗すること、そのどれもが無駄にはならないし、どこかでそれが転機になることもあると信じていてほしいと思います」

大人になってもわからないことに囲まれて

 さて、少しばかり偉そうなことをいった。40歳となり、いわゆる大人になった僕自身、実のところいまでもわからないことなんてもちろんたくさんあるものだ。ここからは本の話になる。日本語で哲学というフィールドを確立したといってもよい人で、それは西田幾多郎という人物だ。この人の有名な本に『善の研究』というものがある。友人にすすめられてこの本を読むことにした。はじめて1ページ目を開いたとき、そこに何が書いてあるのかまったくわからなかった。僕はもちろん日本語が母国語だし、普通に教育も受けている。だが、この本を読み始めたとき、ガラスの壁にむかってロッククライミングをしているかのようだった。どこにも指がかからず、どこにも足がひっかからない。そんな錯覚におそわれたのだ。

トライにトライを重ねた「善の研究」

 こんな難解な文章があるのかと思ったし、間違いなくそれまでの人生で読んできたもので一番難しく、そして理解に苦しんだ。だが同時に、これは挑むべき価値を持つ本だとも思った。そして、たとえその全貌を掴めなかったとしてもかまわないから通読してみようと決めたのだ。まずは一度とにかく通読した。2度目は図書館にこもり、わからない言葉や、わからない概念などは辞書をひきながら、自分なりにこうではないかと解釈したことを付箋に書き込み、それを張り付けながら読み進めた。通算で何度読み返したかわからない。そして、その後、大学の先生や作家などが集まって『善の研究』を議論する場にも運よく飛び込みで参加させてもらうなどわかろうと努力はした。

 それでもこの本はいまだ難解であり、これをわかったなどとは到底いえない。ただ、それでも読み始める前とその後では僕のなかで何かは大きく変わったのだ。うまく言語化できることは難しくても、何かを残してくれたことだけは確信している。この本の1ページ目の書き出しはこうだ。

第一篇 純粋経験 第一章 純粋経験

経験するというのは事実其儘(そのまま)に知るの意である。全く自己の細工を棄てて、事実に従うて知るのである。純粋というのは、普通に経験といって居る者もその実は何らかの思想を交えて居るから、毫も思慮分別を加えない、真に経験其儘の状態をいうのである。例えば、色を見、音を聞く刹那、未だこれが外物の作用であるとか、我がこれを感じて居るとかいうような考のないのみならず、この色、この音は何であるという判断すら加わらない前をいうのである。それで純粋経験は直接経験と同一である。自己の意識状態を直下に経験した時、未だ主もなく客もない、知識とその対象とが全く合一して居る。これが経験の最醇なる者である。(西田幾多郎『善の研究』、岩波文庫)

 ここからは僕なりに「純粋経験」なるものを解釈したうえで感じていることだ。純粋経験とはつまるところ、人生とは1秒たりともおなじことを繰り返さないというコンテクストのなかに存在する気がする。たとえば、刹那刹那で目の前にうつる景色が変わっていく。そして、それら一瞬の景色のすべてが新しいはずなのだ。ただ、僕らはそれに感動しなくなっていく。それは、僕らには圧倒的な経験を積み重ねて慣れていく事実がフィルターとして存在していて、目の前の景色も事象も過去の経験と照らし合わせて常識の範囲で生きていくことになる。この圧倒的な経験なるフィルターは人から取り払うことができないかもしれない。

 しかし、純粋経験とはこれをすべて取り除いて「いま」をみるものなのではないか。もしかすると、いまをみるという感覚すらない世界かもしれない。

 さて、冒頭の話に戻るが、僕は当日「3月9日」をテレビでもLINEライブでも全力で歌った。友人の結婚式のためにつくった歌が、いつの間にか卒業式などの新たな門出の歌として受け入れられている。とてもありがたいことだ。僕はこの歌を数えきれないくらいに歌ってきたのだ。だが、ただの一度たりとも完全に同じシュチュエーションであったことなどないのだ。

 僕が無心で歌うとき、それがいつしか自然と皆がつられて無心で歌い始めたとき、それこそそこにいる全員は、西田幾多郎がいう未だ主も客もない、主客未分の要素があり、そこに純粋なものがあったようにも思う。少し理屈っぽいが、こうしたわけのわからないことに付きあうのもときどきは悪くはないし、効率とショートカットばかりを求めなくてもいいや・・・・・・とそんな風に感じる今日この頃なのだ。