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尹雄大さん「モヤモヤの正体」インタビュー 同調圧力の息苦しさ、緩めるには

文:小沼理、写真:北原千恵美

「迷惑をかけない」が日本社会の掟になっている

――『モヤモヤの正体 迷惑とワガママの呪いを解く』は、子育て、コミュニケーション、他者の視線などのテーマから、私たちが社会に対して感じているモヤモヤを紐解いていく一冊です。この本を書くことになったきっかけを教えてください。

 当時の僕は福岡に住んでいたのですが、福岡の都心や出張で東京へ行くたびに、階段を前にベビーカーを抱えて難儀している女性をたびたび見かけました。ですが、ほとんどの人が素通りしていく。そうした光景を不思議に思っていました。

 自分の中に徳を積むための「Tポイントカード」を持っていて、Tは「徳(Toku)」のことです(笑)。ポイントを貯めるため、「お手伝いしましょうか?」と声をかけるようにしています。

 すると彼女たちは、恐縮しつつ警戒した様子で「すみません」「ごめんなさい」と言うことが多いのです。最初にこうした言葉が出てくるところに、母親が普段どういう視線にさらされているか想像させられました。子どもを育てる時、周囲の迷惑にならないように、いつも世間の目を気にしてしまっているのだな、と。

 少子化の深刻化を問題視する人は多いですが、その一方で目の前で困っている親子には冷たく、不寛容でさえある。その背景には何があるのだろうと考えてみたことが、この本を書くきっかけになりました。

――ラッシュ時の公共交通機関にベビーカーを広げたまま乗車することが、他の乗客の迷惑になっているのではと議論になった「ベビーカー問題」にも触れています。母親とそれ以外の乗客のどちらかを断罪するのではなく、両方の立場を想像していたのが印象的でした。

 母親を非難する人も満員電車に詰め込まれて不快に感じているはずで、そうした自分の感覚を抑圧しているんですよね。自分は我慢しているのに、他人を配慮しろと言われても頷けない。まして「子育てに寛容になるべき」と正論を言われても心に響かない。その人が長年かけて育てた考えを捨てるのも容易ではないでしょう。それならジャッジせず、まずはお互いの言い分に耳を傾けるのが大切だと思いました。

 そうして考えていくと、今の日本社会では「みんなに迷惑をかけないこと」が重大な掟になっていると気づきました。でも「みんな」とは、具体的に誰のことを指しているのかわからない、謎の言葉ですよね。実態の見えない「みんな」に翻弄されて、自分自身のことがわからなくなっていることが問題の根底にあるのではないかと考えました。

――「みんな」というよくわからないものによって、がんじがらめになっているということでしょうか。

 そうですね。ただ、はみ出せない息苦しさを感じながら、それが慣習化したことに安心もしているのだと思います。

 かつての3.11の直後もそうでした。当時、ニュースで東京のある駅頭が取り上げられ、出勤しようとする大勢の人が駅前に行列を作っていました。レポーターが「皆さん非常に冷静です」と言っていた。それは冷静なのではなく、強固な習慣から離れられないだけではないでしょうか。

 とりあえずみんながやっていることに参加することで得られる安心感があるのだと思います。だけど安心感と安心は別物ですからね。

――最近は新型コロナウイルスの騒動でさまざまな混乱が起きていて、ついわかりやすい安心感に飛びつきたくなることがあります。

 「正しく恐れる」という言葉が使われることがありますよね。自分の外に正解があって、それと照らし合わせて行動すれば安全が確保されるという考え方でしょう。比べて「まず自分がどうありたいか」という主体的な発想であれば、慎重に行動することになるでしょう。

 大量の情報が飛び交う中で、外部に正しさを求めてるだけでは、いたずらに右往左往してしまうことになりかねないし、不安感は増大していくばかりです。まず自分で判断するという行動があったうえで、「慎重に」でいいのではないでしょうか。

 私たちはつい何にでも根拠を求めようとしますが、そもそも私たちが生まれてきたことに根拠がないので、存在の根底には不安があるはず。その不安をじっと見つめると、みんなと同じではない自分だけの道が見えてくると思います。

「言っている言葉」より「言わんとしている姿」

――「みんな」への息苦しさは、尹さん自身の体験も元になっているのでしょうか。

 学校で教えられた「小さく前習え」が息苦しさを感じた思い出深い出来事でした。前に並ぶ人との距離は見ればわかる。何のためにやるのか意味がわからない。こうした儀式めいたことを前に、真面目な顔をしているのが耐えられませんでした。つい噴き出して、先生からよく叱られていましたね。

 学校ではそうして協調性を重視する一方で、個性的であれと言われる。並び立たないはずのメッセージを発する大人に対して、心の中で「なんでこんなことしなきゃいけないんだろう」と怒っていました。

 昔は合わないのに合わせようとする努力ばかりしていた気がします。みんながやっていることができないのは悪いことだと思っていたけれど、それは多くの人にとっては「普通」のやり方に合わないだけのことだと気づきました。

――そうして気づくまでにはどんな紆余曲折があったのでしょうか? 例えば、尹さんはさまざまな武術の体験をもとにした文章を執筆されていますし、この本の中でも「自信を取り返すためには身体性が必要」と書いています。体に着目した経験も影響しているのでしょうか。

 もともと運動が苦手でした。というか、空間認知がおかしいと感じることが多々ありまして、例えば何かに集中していると「こんなに間が空いていたらぶつからないだろ」という距離で人とぶつかったり、テーブルの上にコップがあるとわかっているのに、話に夢中になっていたら手をぶつけて倒してしまったり……そんな不具合がよく起きるんです。その「自分で自分がまとまらない謎」を解くために、武術を習い始めました。

 身体感覚から考えるようになると、言葉だけでものごとを理解しようとする行為が不思議に感じられるようになってきました。というのも、人は情報にならない、意味以前の感覚を伝えたくて仮の手段として言葉を使っているのに、そこで言葉にしか注目しないとしたら、そもそもコミュニケーションにならない。「言っていること」ではなくて「言わんとしていること」、もどかしげに話したり、言葉が出てこなくて身をよじったりしている姿から、人は何かを了解するのではないかと思います。

理解し合えない相手とは物別れに終わることも

――「もどかしさ」をはじめさまざまなことを感じている身体に着目し、「自分は自分でしかない」と感覚的に認識することの重要さを本の中でも書いていますね。

 そうですね。思考や意識を必要以上に介在させず、自分が本当にどうしたいのかを知ることが大切だと思います。

 私たちは和を乱さないためにイエスと利害損得を考え、意識的に言うことがあります。でも、それこそが息苦しさにつながっています。自分が本当に感じていることとずれているからです。協調性を重んじて相手に合わせるのは日本の文化の特色のひとつでもありますが、文化とは偏りのことである以上、良い点も悪い点もあります。

 以前、ユマニチュードという認知症ケアのメソッドを考案したイヴ・ジネストさんに取材したことがあります。彼は「日本人は共感性が高いから、他に比べて理解が早い。でも、多くの場合においてイエスを言うから本心がわからない」と話していました。

 イヴさんは「イエスは隷従の証で、ノーと言うところに人間の自由がある」とも断言していました。

 日本では「ノー」と面前で言うことはなかなか勇気がいると思います。いまどきは「ノーというなら代案を出せ」と言われかねませんから、率直に言わないことで波風立たないようにする場合もあるでしょう。ただ、率直に言わないことで和は保たれたとしても、それは「決して本当のことを言わない」ことで成り立っている関係性だとすれば、果たしてそこで言う「和」とは何なのでしょう。 

 常に建設的で、排他的な考えを持つ人とも握手をすることがコミュニケーションだと思われている傾向があります。コミニュケーションがいつだって握手することに向かうのであれば、単に対立を恐れているだけのことではないでしょうか。

 対立があるからこそ対話が成り立つはずです。その上で理解し合えない相手とは物別れに終わることもある。こうしたプロセスこそが大切なのに、共感や理解という目的ありきでは互いの違いを認めないことになります。まずは自分の感覚をきちんと感じて、それを伝えることが大切なのだと思います。それが相手の存在を尊重することにもつながります。

根拠のない主観だからこそ価値がある

――本書の中では、他者の容姿やセクシャリティを「普通ではない」とジャッジして、笑いに転化させる「いじり」について苦言を呈していますが、最近は「いじり」ではない笑いも出てきたように感じます。

 2019年のM-1で脚光を浴びた「ぺこぱ」の漫才がそうですね。女性が女性にプロポーズする流れのあと、「女同士が結婚したって別にいいじゃないか!」とツッコミを入れる。どこにいるかわからない「みんな」の常識との違いで「女同士だから変」と言わず、起きていることを包括していく。いまだにLGBTQを面白おかしくネタにする芸人もいたり、それに笑う人がいる中で、確実に感性は変わってきた人はいるのだなと感じました。

――最後に、この本をどんな人に読んでほしいですか。

 最近は市井の人の話を聞く「インタビューセッション」というものを行っています。来られた方は一様に「今日は何を話しに来たのか、自分でもよくわかっていない」と言います。けれども、滑らかではなかったとしても、話したいことがちゃんとあります。そして、人それぞれに独自の文法を持っています。それが根拠のない主観だから価値がないと本人が思っているのです。でも、根拠のない主観だからこそ、あなたが感じたこととして価値があると思います。

 分かりやすいメッセージを発信してくれる人や、世の中を切ってくれる人の言葉を聞いて溜飲を下げることもあると思うのですが、そういうのはもういいんじゃないかと思います。他人の言葉を頼りにしても、いざ何か行動するとなると、なかなか自信が持てません。

 そうではなくて、自分が何にモヤモヤしているのかにフォーカスして、それと対話し、関わる。それでモヤモヤが解けるとは限りませんが、向き合い続けているということが自信になっていくと思います。偉い人の言っていることに飽きている人、自分で何かを考えたい人、自分の体感を大事にしたいと思っている人に手にとっていただきたいです。