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【追悼】藤田宜永さん 「反恋愛」書き続けた迷える少年 作家・桐野夏生さん寄稿

「いい夫婦の日」の取材で、妻の小池真理子さんについて語る藤田宜永さん=東京・有楽町、2007年

 藤田宜永は、二〇二〇年一月三十日の朝、この世を去った。

 夫人の小池真理子から知らせを受けて駆けつけると、病との凄絶(せいぜつ)な闘いなど微塵(みじん)も感じさせずに、藤田は一人静かに横たわっていた。サングラスを取った藤田の素顔を見たのは、初めてだった。その顔は、『愛さずにはいられない』の著者写真を思い出させた。

 「若き日の著者」と題された写真の藤田は、肩まである長い髪を左側で分け、少し小首を傾(かし)げてこちらを見ている。その眼差(まなざ)しは優しく、何かに戸惑っているようでもある。再び迷える少年に戻ったような藤田に、私は心を揺り動かされていた。

母親との確執

 『愛さずにはいられない』は、藤田の数多い作品群の中でも、とりわけ傑作である。藤田の自伝的作品で、あとがきにも「この小説は一生で一度しか書かないし、書けない」とある。

 福井の裕福な家に生まれた一人息子の「僕」は、母親との確執から逃れ、高校から東京で下宿する。十六歳で童貞を失った「僕」のハチャメチャ青春譚(たん)は、小気味いいほどに無軌道で面白い。タバコ、酒、ゴーゴークラブ、ナンパ、同棲(どうせい)、落第。

 「僕」は気が付いてもいる。女に惹(ひ)かれるのと同時に、女を烈(はげ)しく憎んでもいる自分に。「僕」は、それが母親への憎しみに起因していることを知っているのだ。だから、友人たちが抱く、母親への無自覚な信頼には齟齬(そご)を感じて孤独になるし、父親を嫌う少女には自分を投影して恋をする。だが、自分を裏返したような相似形の少女との付き合いにも疲れてゆく。

 なぜ、母親は自分を愛そうとはしなかったのか。では、母親とは何者だったのか。

 『愛さずにはいられない』は、藤田が生涯かけて書くことになるテーマが、はっきりと露(あら)わになった作品である。

プロ中のプロ

 『愛さずにはいられない』や、『恋しい女』(新潮文庫・品切れ)など、藤田の作品タイトルには「愛」や「恋」という字が多く見られる。しかし、巷間(こうかん)言われるように、藤田はハードボイルド作家から、恋愛作家に転向したのではない。むしろ、「反恋愛」を書いた作家である。

 『恋しい女』は、その意味で純粋な反恋愛小説だ。主人公の男は金があって独身。愛人が二人いる。ある日、何を考えているのかわからない二十代の女に出会う。その女の秘密は何か。男は惑いながらも惹かれてゆくのだが、それは相手を理解するという知識を所有できないがゆえの渇望でもある。主人公は、女に照射される自分の心だけが知りたいのだ。

 『奈緒と私の楽園』も、構造は似ている。主人公の中年男が、不思議なキャラクターの女に会う。男はやがて、自分が知りたいのに知り得ない女は、母親と同種の女なのではないか、と気付く。かように、藤田の、母親との確執は、手を替え品を替え、幾たびも現れ出(い)でてくるテーマなのである。

 一方、藤田は多様な作品を書いてみせるプロ中のプロでもあった。テンポよい探偵竹花シリーズもあれば、吉川英治文学賞を受賞した『大雪物語』のような善意に満ちた短編集もある。

 生前、藤田の仕事場を見せてもらったことがある。コンクリートの塔のような不思議な建物だった。塔のカーブに沿って机や本棚が綺麗(きれい)に配してあり、とても整然としていた。さざえ堂のような螺旋(らせん)階段を上ってゆくと、上階にはどうやって運び入れたのかわからないベッドがあり、居心地がよさそうだった。その部屋で、藤田はたくさんの作品を書いたのだ。

 後に小池真理子から、亡くなる一週間前に、藤田は人におぶわれて仕事場の見納めをしたと聞いた。どんな心境だったのか。もちろん想像はできるが、ここでは書かないことにする。=朝日新聞2020年3月28日掲載