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「この英語、訳せない!」そんな時どうする? 翻訳家・越前敏弥さんインタビュー

文:篠原諄也 写真:有村蓮

専門家からのクレームも?

――本書では訳せない英語の事例が紹介されていました。20年以上翻訳をされている越前さんでも分からない時があるんですね。

 それはもう頻繁にあります。分からないといっても、色んなレベルがあると思うんですね。いい訳語が浮かばないことはもちろんあるし、それ以前に「こいつ(原著者)は何が言いたいんだ!」と思うことはしょっちゅうです。八割方分かっているけど、なんかすっきりしないことがあったり。一晩寝ると分かったり、ゲラになってはじめて分かることもあります。下手すると単に(原著が)誤植であることもあるんですけどね。

――最初に「brother」(兄か弟か)「sister」(姉か妹か)が取り上げられていました。誰もが知っているけれど訳出に苦労する単語の筆頭格だとされていました。越前さんが新訳を担当したある古典長編ミステリーでは、旧訳の「妹」を「姉」に変えたことがあったそうですね。

 作品名はネタバレになるので言えないんですが実際にあった話でした。「妹」から「姉」にした理由は、なんとなく面倒見が良かったとでも言うしかありません。作品の中で果たす役割が「姉」に近かった。でも作者自身は多分「どっちでもいい」と思っているんじゃないかと思います。英語圏の場合は兄弟・姉妹の長幼をあまり気にしないんです。

――ひとつの単語の訳を考えるのに、最大でどれくらいの時間をかけたことがありますか?

 ダン・ブラウンの『インフェルノ』の時に2ヶ月くらい考えました。ずっとそればかり考えていたわけじゃないですけど。ある秘密結社のトップにあたる人物の役職を何と訳すかということですね。英語で「Provost」で「総監」としましたが、「会長」や「統領」など色々な言葉と迷いました。当時は「総監」でネット検索しても、AKB48の総監督の高橋みなみがダーっと出てくるばかりでしたね(笑)。

――本書でも警官関係などの組織の役職の訳は難しいと書いていましたね。

 難しいし、正解がない場合が多いですしね。怖いのが専門家が結構いらっしゃるんです。それが年配の人だったりして、クレームが入ることもある。一番怖いのは軍隊関係です。実体験がある人がまだ生きていますから「戦前の日本軍ではこう言わなかった」と言われても「ハハー」なんですよ(笑)。「でもこれは翻訳書で国が違うから」など色々お答えの仕方はあるんですけど、自分の実体験をもっておっしゃるわけだから一理あるんですよね。

 どんなジャンルにも専門家がいらっしゃいますから、聞ける場合は聞きます。ただどうしても国によって事情は違うわけですから、日本の専門用語が全部通用するわけではない。最終的には翻訳のプロとして最善を尽くすしかないと思います。

――普段どんな辞書を使っているんでしょうか?

 いわゆる串刺し検索というものを使っています。パソコンのソフトでいくつもの辞書を同時に引くんですね。僕のパソコンは英和辞典、英語の専門辞典、国語辞典、現代用語の基礎知識など、30くらいの辞書が入っています。さらに自分がオリジナルで作った辞書も入れられるんですよ。『この英語、訳せない!』も辞書化していて、出てくるキーワードを入れると、どのページにあるかが分かるようになっているんですね。

 プロの翻訳者は大体そのレベルでやっていると思います。最近はオンラインの串刺し検索に変わってきつつあります。スマホの串刺し検索のソフトもあるようです。

――ネット検索もよく使いますか?ネット検索の登場は翻訳の世界では大きな変化だったのでしょうか?

 もちろん使います。そうですがあえて言えば、ネット検索がない時代には細かいことなんか誰も分からなかったわけですよね。逆に言うと調べなくても良かったというのかな。それが今、極端にいうとどこの田舎町でも、Googleでストリートビューを使えば見られるわけですよ。道路が一通になっているとか、どういう標識があるかとか。読者が調べようと思えば調べられます。ということは、翻訳者は読者がやるようなことの一枚上をいかないといけないわけですよね。だから今はそこまで調べなきゃいけない時代になってしまった。そういう意味では楽になったか、むしろ面倒になったか。どっちだろうと思いますね。

――辞書やネットで調べても分からない時はどうしますか?

 寝るのがまず大事なことなんですよね(笑)。夜遅くまで考えて頭がまわらない時、一晩寝たらスッと出てくることがよくあります。それでも分からなければ、とりあえず保留にしておく。僕の場合は原稿に星印をつけて、そのまま次に行っちゃうんですけどね。うまい訳語がないかなと絶えず考えています。それでどこでも思いついた時に、Gmailの下書きをメモ帳代わりにしてメモしておくんです。

あえて裏をかく面白さがある

――「私」「僕」「俺」など一人称を何を選ぶかが難しいそうですね。

 一人称は一番難しかったりします。小説を「私」で訳していて、途中で「僕」にひっくり返したこともあります。そもそも男だったら、大きく「私」「僕」「俺」の3通りがありますが、どれかにぴったりする場合のほうが少ないんですよね。実際には「私」と「俺」の真ん中あたりがちょうどいいといったことがしばしばある。どうしてもどっちとも言えないなという時は、できる限り一人称の訳語そのものを減らしていきます。これは一人称だけでなく、代名詞全体に言えることですけど。

――発言や行動などを精読して、どれが適切かを決めるんですよね。

 いろんな根拠がもちろんあるわけですけど、その裏をかくのも面白かったりするんです。たとえば不気味な殺人鬼が出てくるとします。暴力的な人間だから通常は「俺」と考えるんだけど、そこで「僕」にするとより不気味になるというケースがあるわけですよ。それも下手にやったらダメなんだけども。ハードボイルドだと皆「俺」にしたがるけど、必ずしもそうじゃないんです。

――翻訳をやっていて大変なこと、逆に面白いことは何でしょう?

 一番大変だと思う瞬間は締め切りに追われている時じゃないかな(笑)。つまり思い通りに時間をかけられない時です。言葉と格闘していること自体が辛いのは余程のことがないとありません。余裕があるかどうかで決まると思います。

 余裕があって、言葉と格闘したり戯れたりしている時は面白い。この本にも書きましたが、頭韻(行や音節の最初の音をそろえる技巧)や脚韻(最後の音をそろえる技巧)に「血が騒ぐ」と書いています。いってみれば、翻訳技巧の頂点みたいなものですから。たっぷり時間をかけられたら楽しいですね。

――翻訳者の方の見せ場というか、オリジナリティが出るところなのですね。

 そうなんですよね。機械翻訳にはできないことだから。人間の翻訳者が機械翻訳に勝てるのは、そういうジャンルがまずあると思うんですよね。心情の読み取りなどもちろんありますけど。単語や熟語のレベルでもある。機械はいくつもの可能性は一気に提示してくるんですけど、どれが面白いかは人間じゃないと判断が無理ですから。

「訳す」ことの重要性

――翻訳のAI代替論についてはどうお考えでしょうか?

 まだ文芸の世界ではあまり現実的じゃないですけど、実務翻訳の世界ではかなりの部分が侵食されてきているのは事実です。いわゆるポストエディットというものです。機械翻訳でいったん訳文を打ち出して人間が手直しをしていく。そういう仕事の発注が今増えてきているらしいんですね。僕は直接関わっていないんですけど。

 そうすると、報酬が何分の一かになる。でも実際、ポストエディットの作業をちゃんとやったら、翻訳を一からやるのと変わらないくらいの負担なんですよね。原文のニュアンスをちゃんと生かすことまで考えたら。そこが今、業界の大きな問題になっている。発注する側は当然、低コストでできるからそういう形でやろうとしますが、それは質の低下につながりかねない。それはどういうところに落ち着いていくのか。いずれ出版翻訳や文芸翻訳の問題にもなるのか。編集者が同じことをやりかねないですよね。そうなった時にどうなるかという不安があります。それに負けないような技術を磨いていかないといけないだろうなと思いますけどね。

――機械に任せるのではなくて、人が「訳す」という行為の重要性はどのような点でしょう?

 訳すことによって原文がさらに理解できる場合があります。これは翻訳の仕事だけの問題ではなくて、英語教育の中でもそうだと思っているんですね。英語の直読直解ができたとしても、とりあえず分かったことにしても、実際はよく分かっていないことは多くあります。僕が訳してみたところで、自分の勘違いに気がつくことがある。高校生のレベルでも当然あるはずなんですよ。

 翻訳は日本語と格闘している時間がずいぶんある。その日本語との格闘の中で、英語の読みも深くなっていく気がするんですね。なかなか意味がとれなかった場合に、日本語で訳を考えているうちに「あれ英語では微妙に違う別のことを言っているんじゃないか」と気がついたりする。言語の間を行き来することで、日本語と英語のことを深く理解することができる。そこが翻訳の面白いところだと思います。