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元には戻らぬ世界 芸術がみせる、現実の生ぐささ 作家・小野正嗣〈朝日新聞文芸時評20年4月〉

浅野友理子 くちあけ

 気づけば、これまで生きてきたのとはちがう世界の中にいるようだ。

 堀田善衛の『方丈記私記』(ちくま文庫)はこういう時に読む本かもしれない。1918年生まれの堀田は、20代後半で東京大空襲を経験する。その「生命の危険」、「物心両面の一大不自由」のさなか、堀田が読み耽(ふけ)ったのが、鴨長明の方丈記である。東京の焼け野原に、長明が生きた乱世が、大火や地震や飢饉(ききん)や戦乱で荒廃した京の都が重ね合わされる。

 そうした特殊な状況下での自らの読解を四半世紀後に回想しつつ、堀田の思考は芸術と現実との関係へ伸びていく。長明と同時代の新古今和歌集がすぐそばの悲惨な現実世界を遮断した芸術であることに驚く堀田はむしろ、貴賤(きせん)を問わず人間の等身大の生にまなざしを注ぐ長明の「生ぐささ」に強く惹(ひ)きつけられる。

 英仏語が堪能でスペインにも暮らした堀田が深い関心を寄せたのが、フランスの文人モンテーニュとスペインの画家ゴヤだった。奇(く)しくも両者の作品には戦乱の世が影を投げかけており、前者はペストの流行も経験している。

 世界文学の古典『エセー』(宮下志朗訳、白水社)の中でモンテーニュは、ペストの猛威を前にした農民たちの決然とした態度に感銘を受ける。古代の哲学者や詩人の言葉に勝るとも劣らぬ、その死との自然な向き合い方に敬意を表し、悪い想像に駆られて右往左往する人間の愚かさに触れて、こう戒める。「われわれときたら、自然が命じたことの機先を制して、これを牛耳ろうとするから、かえって、いつも窮屈な思いをする」

 モンテーニュはボルドー市長も務めた政治家でもあったが、『エセー』の訳者である宮下氏の手になる『モンテーニュ 人生を旅するための7章』(岩波新書)によれば、ペストの猖獗(しょうけつ)を理由に、市長職引き継ぎの式典への出席を辞退したという。政治パフォーマンスよりは命が大切。開けば必ず叡智(えいち)を秘めた言葉に出会える『エセー』は〈ステイホーム〉の日々にはこれ以上ない対話相手だろう。

 いまウイルスの脅威にさらされた僕たちを浸す違和感は、現実の外貌(がいぼう)に劇的な変化が見えないことにも起因するのかもしれない。

 同じ世界のはずが、ちがう世界に。そうした微妙にズレた世界が、南ア出身のノーベル賞作家J・M・クッツェーの『イエスの学校時代』(鴻巣友季子訳、早川書房)の舞台だ。

 この小説の人物たちはみな新しい土地への一種の難民であり、古い世界での記憶を忘却している。主人公の男性シモンは偶然出会った孤児ダビードを引き取り育てている。

 本作の主題は、この6歳のダビードの教育だ。ダビードは普通の学校になじめず退学する。だがシモンにもパートナーにも仕事があり、ずっと家で面倒はみられない。そこで芸術教育に力を入れた学校にダビードを通わせることになる。

 とはいえスピリチュアルな傾向の強い教育方法はシモンを不安にする。実際、賢い少年がより傲慢(ごうまん)でより理解しがたい存在になっていく。社会を揺るがす恐るべき事件が学校で生じるが、少年は犯罪者への愛着を隠さず困惑は深まるばかりだ。

 文学を含む芸術は人間をより人間らしい存在にするのか。新型コロナ禍で行動の自由が制限され、〈普通〉を奪われたいま、ふだん以上に文学や美術などの文化的営(いとな)みが人間の生活には不可欠だと感じられる。

 だが、若くして死すべき者たちに芸術教育を施す施設を描いたカズオ・イシグロの傑作『わたしを離さないで』(土屋政雄訳、ハヤカワepi文庫)にしても、クッツェーの本作にしても、芸術に触れることが人間性の涵養(かんよう)につながるといった安直な等式には疑問符を突きつける。

 むしろ優れた芸術とは、人と少し違うだけで周囲から忌避・差別される孤独な者たちに訪れるあまりに悲しい救済を、平易な文体でユーモラスに寓話(ぐうわ)的に描く今村夏子の『木になった亜沙』(文芸春秋)のように、僕たちの現実の生ぐささと人間の醜さへの省察を促さずにはおかない。

 〈ステイホーム〉が息苦しくなったとき、本当の〈監禁〉を余儀なくされた人の言葉が僕たちを支える。

 非業の死を遂げた革命家ローザ・ルクセンブルクの『獄中からの手紙』(大島かおり編訳、みすず書房)から届く、小さき弱き存在への共感と森羅万象への繊細な感受性に満ちた言葉は、あらゆる壁を越えて、文化と自然への尽きせぬ愛によって僕たちをあたたかく包摂してくれる。=朝日新聞2020年4月29日掲載