1. HOME
  2. コラム
  3. 作家の口福
  4. 理想郷の記憶 黒川創

理想郷の記憶 黒川創

 京都の生家近くに吉田山があり、私が幼いころは、中腹で吉田神社の神鹿(しんろく)が数頭、柵のなかに飼われていた。柵の前に置かれた台に、ジャガイモ、ニンジンなどの切れ端を載せたアルマイトの皿が並んでいて、「一皿一〇円」と書いてある。これを神鹿に食べさせた人は、代金を木箱に入れておいてください、ということなのだ。野菜屑(くず)などを家から持参してエサとして与えても、とがめられはしなかった。

 一九六〇年代なかば、私が二歳から四歳ごろにかけてのことだったろう。祖母に連れられ、家の台所で生じた野菜屑を携えて、毎日、ここのシカたちに食べさせた。柵の周囲のシダなど、下草をちぎって差し出しても、もぐもぐと食べてくれていた。

 秋には、吉田神社の参道に、イチョウの黄色い実がたくさん落ちる。祖母はこれを拾い集めて(手がかぶれないように木箸を使う)持ち帰り、果肉が腐りきるまで、庭にしばらく埋めておく。それを洗って、種の部分だけを干し、このギンナンを台所で炒(い)っていた。

 春には、近くの鴨川べりでツクシやヨモギを摘み、ツクシは佃煮(つくだに)にした。

 子どもの私にも、自分の手を伸ばして口に運べるものが、身辺に意外とたくさんあった。通っていた保育園の庭にはザクロの木があり、秋口、その実が割れて、赤く半透明の果肉が覗(のぞ)く。歯で噛(か)むと、甘酸っぱい。園庭には、月桂樹(げっけいじゅ)もあった。その葉をいじると、強い香りが手のひらに移った。

 小学校では、中庭にクルミの大きな木があった。枝から、地面に実が落ちてくる。石でこれを打ち割り、香ばしい核の部分を指でほじって食べていた。

 吉田山の裏手の小さな崖を仲間たちと這(は)いのぼるとき、初夏には、ヘビイチゴに出会えることが多かった。食べても食欲を満たせるほどの代物ではないのだが、甘みを舌で確かめられると、うれしかった。夏休みが終わって、学校が再開するころには、熟れたアケビの実が茂みに見つかるようになる。

 大失敗となったのは、見事な色の柿の実を見つけ、木によじ登って、むしり取り、齧(かじ)りついたときだった。一瞬、何が起こったのか、わからなかった。殴りつけられたような衝撃が、いきなり口のなかから、頭頂部に突き抜けた。「渋柿」って、これなのか! 強烈な渋みは、いくらぺっぺとツバを吐いても、消えてくれなかった。

 ユートピア(理想郷)とは、自然の恵みを受けつつ、食うぶんには困らない環境に身を置くという、いつの世にも変わらぬ、つましい願いから現れ出てきたものではないだろうか。一人ひとりのなかに、そこにつながる記憶がある。これを掘り起こしていくことが、人類同士の殺しあいを遠ざける道ではないかと思っている。=朝日新聞2020年5月16日掲載