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「イエスの学校時代」書評 聖でも愚でもない他者のリアル

評者: いとうせいこう / 朝⽇新聞掲載:2020年07月04日
イエスの学校時代 著者:J・M・クッツェー 出版社:早川書房 ジャンル:小説

ISBN: 9784152099341
発売⽇: 2020/04/16
サイズ: 20cm/319p

イエスの学校時代 [著]J・M・クッツェー

 ひとつ前に『イエスの幼子(おさなご)時代』があり、続いてこの『イエスの学校時代』が出た。著者クッツェーは南アフリカ出身のノーベル文学賞受賞者でもある。
 そしてこれがどちらも本当に〝食えない〟小説なのである。通常「イエスの」などと付いていれば、まず百発百中ストーリーがイエス・キリストの生涯とパラレルだったり、あるいは宗教的な暗示に満ちている。
 だが、どうも右のような要素は前面に出ない。主人公はダビードと名づけられた少年で、前著で難民のように現れた。血のつながらない家族として、やはり故郷を出たシモンなどがいるけれど彼らが何を象徴するのかはわからない。
 本書では彼ら〝聖家族〟が田舎町に逃れてくる。もともといたノビージャという町では特にダビードの身元に関心を持つ者がいるからで、しかしその不安の意味もいまだ不明である。
 それでも、私はこの2冊を忘れられない小説として頭の隅に置いている。では何が魅力的なのかを時に考えて過ごすこともある。
 今回は前にもましてダビードが仮親であろうとするシモンの言うことを聞かない。ただしそれはキリストが倫理を問うように人の心を変えるわけでなく、徹底的に他者としてふるまい、読者を含めた周囲の人間を振り回す。相対的他者だ。
 すべての子供が何かしら社会と乗り入れ不可能なものであることを、私たちは学ぶしかない。決してそれは聖なる真実でなく、しかし確かに真実である。
 また『学校時代』では、ダビードが通いたがる学校に残酷な行いをする者が現れる。それもまた、シモンの理解出来ない他者であり、聖者とも愚者とも言えない。両義的な存在だ。
 となると、これは現実社会の理解出来なさの写し絵でもあり、難民と共にある今の世界では日々聖性の確かめられない他者とこうして生きていく他なく、そのリアルさに私は惹きつけられているのかもしれない。
    ◇
 J.M.Coetzee 1940年、南アフリカ・ケープタウン生まれ。英国ブッカー賞を2度受賞。『恥辱』『遅い男』。