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傘の帳尻 澤田瞳子

 世の中で忘れ物の筆頭といえば傘というが、不思議にこれまでに傘をなくした経験がない。

 飲食店や電車の中での置き忘れが、皆無とは言わない。ただ毎回すぐ取りに戻れるタイミングで「あ、忘れた」と思い出してしまうため、完全になくすには至らないのだ。

 傘をすぐ忘れる人に言わせれば、きっとそれはいいことなのだろう。だが問題は、出先で雨に降られて急いで買った傘が、手元にどんどん増えていく事実だ。

 大学院生の頃、外出先の名古屋で豪雨に遭った。たまたま近くに三百円ショップがあったので、「どうせすぐになくすだろう」と青い傘を買い求めたのだが、それが二十年近くを経ていまだ手元にある。まだ使える品を捨てるのも憚(はばか)られるが、気に入って買ったわけでもないので、進んで使いたいとも思わない。同様に買ってしまった傘がぽつぽつと増え、玄関の傘立てはとっくにいっぱいだ。もしうまく傘をなくすことができれば、帳尻がちょうど合うのに。

 とはいえ日々の生活とは決して、必要なもののみを選べるわけではない。ポストに入る不動産広告や、お弁当についていたのに使わなかった割り箸のように、暮らしの中には様々な澱(おり)が降り積もってゆく。今日の雨のみをしのぐために買った傘だって、明日になれば同様だ。

 そして忘却や失念は、決して悪いことではない。誰かから投げつけられた心ない言葉、目にしてしまった嫌な光景。そういうものを忘れるのは、人にとって必要な行為だ。

 ならば何かをどこかに忘れて来るとは、生活の中でいつしかまとわりついた様々な澱を、振り払う行為なのではないか。そう思うとあちこちで傘を忘れて来る人がとても羨(うらや)ましいが、一方で万事極端なわたしのことだ。傘を忘れて来るようになったら、今度はあっという間に家の傘立てを空っぽにするかもしれない。ああ、本当に傘を持つとは難しい。=朝日新聞2020年8月5日掲載