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「KGBの男」書評 核攻撃の不安を伝え西側が反応

評者: 保阪正康 / 朝⽇新聞掲載:2020年08月08日
KGBの男 冷戦史上最大の二重スパイ 著者:ベン・マッキンタイアー 出版社:中央公論新社 ジャンル:伝記

ISBN: 9784120053108
発売⽇: 2020/06/09
サイズ: 20cm/492p

KGBの男 冷戦史上最大の二重スパイ [著]ベン・マッキンタイアー

 ソ連の社会主義体制が崩壊した時、KGB(国家保安委員会)の元職員らが退職者の会を作り、西側メディアに自らの体験を一斉に語ったことがある。長年の功績にもかかわらず年金もつかない仕打ちに怒ったのだ。私は新聞記者、政治学者とともに何人かの元職員から話を聞いた。証言は具体例(1930~50年代が中心)を元にしていてスパイ小説の比ではなかった。
 本書は、KGBの敏腕な情報工作員が、自らの祖国の政治姿勢に疑問を持ち、スパイとして担当している西側社会に惹かれ、やがて二重スパイになる、という実話だ。ソ連が崩壊に向かう70~80年代である。
 表は外交官だが、裏では情報工作員としてイギリスの情報機関MI6の工作員と接してソ連の情報を正確に伝えていく。著者の筆は盤石の取材によって、この工作員のソ連社会での地位、家族・友人関係、そして組織内部の人間関係を全て洗い出している。
 彼の手渡したソ連の内部情報は、東西冷戦の最終局面で大いに役立った。ソ連はゴルバチョフの登場直前には、アメリカが核攻撃を加えてくるのではと疑心暗鬼に陥っていた。この情報に接して、レーガン米大統領やサッチャー英首相は、不安を和らげる政策や外交戦略をとっている。ゴルバチョフへの対応策なども的確に西側に流している。単に情報を流すだけでなく、西側陣営のために「解釈」まで伝えていたのである。
 一方で、CIAの対ソ工作員がソ連側にスパイ情報を売り、KGBも必死に調査を始める。そこでこの工作員はモスクワからの脱出を図るのだが、協力するイギリスの外交官と家族たちの緻密な計画を、著者はジャーナリスト出身の作家らしく、読み物としても読者を驚かせる手法で書く。
 老いた元工作員が「冷戦下で戦ったどの国の工作員たちも、人格を正常に保つために苦労した」と述懐したことが、私には何度も思い出された。
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Ben Macintyre 英タイムズ紙でコラムニスト・副主筆を務める。『ナチが愛した二重スパイ』など。