1. HOME
  2. インタビュー
  3. 怪談作家・深津さくらさん「怪談びたり」インタビュー 9年間の不登校の日々…でも怪談に救われた 

怪談作家・深津さくらさん「怪談びたり」インタビュー 9年間の不登校の日々…でも怪談に救われた 

文・写真:吉村智樹

誰かが喧嘩をしているだけで泣いてしまう

――あとがきに「小中学校には通わず」「同世代と交わることのない九年間を過ごした」と書かれていますね。どのような性格のお子さんだったのですか。

 過剰に多感な子でした。「空がきれい」「花がきれい」、それだけでエキサイトしてしまうんです。「空がきれいだわ!」って興奮している私を見て、祖母はとても気味悪がっていたそうです。

――美しい光景に惹かれて興奮するなんて、素晴らしいと思うのですが。

 う~ん、共感しすぎてしまうんです。誰かが叱られている姿を見ると自分が叱られているように感じて落ち込んでしまう。誰かが喧嘩をしているのを見るだけで泣いてしまう。テレビ番組の再現ドラマで出演者が死ぬシーンがあったら、火がついたように泣いて手がつけられなくなるとか。あまりにも敏感なので、母は私に悲しいテレビドラマや怖いシーンはなるべく見せないようにしていたそうです。

――家庭環境をお聴きしてよろしいですか。

 茨城県に住んでいて、母子家庭でした。私がものごころつく頃には両親は離婚していました。団地住まいで決して裕福ではありません。けれども母はとてもやさしくて明るい人で、私は自分の家がとても好きでした。

――『怪談びたり』には「家で本ばかり読んでいた」とも書かれています。読書はお好きだったのですか。

 はい。母が読書家で、家の本棚には純文学がたくさん並んでいました。そんな母の影響で、幼い頃から母の本棚に並んでいる本は上から下まですべて読んでいました。

――好きな作家はいますか。

 川上弘美さん、伊藤比呂美さんが好きでした。そして十代の頃に特に熱心に読んだ作家は『博士の愛した数式』『ミーナの行進』などで知られる小川洋子さん。小説もエッセイもとても好きです。人の心に寄り添う素敵な文章なんですけれど、どこか奇妙で。「いったいなにが起きたんだろう」と不思議な気持ちになるんです。幻想的で不条理なところが十代の私には魅力がありました。自分が書く作文が小川さんにめちゃめちゃ似てしまう。それくらい強い影響を受けましたね。

クラスメイトの前で全否定された

――小学校に通わなくなった理由は、なんなのでしょう。

 いろいろあったんです。ひとつを挙げるならば、担任が絶対に例外を認めない先生だったんです。図工の時間、写生をする授業があって、私は画用紙に太陽を赤く塗りました。すると先生は私が描いた絵を黒板に貼りだし、クラスのみんなが観ている前で「太陽が赤いわけがない!」って私に怒鳴りました。

――え?! 太陽が赤く感じる場合もありますよね。

 ええ。でも先生にとって太陽は黄色く描くものであり、空は青くなればならない。植物は緑色で、人の肌は昔でいう「はだいろ」でなくてはならない。それ以外の色は誤りだと。「他の子は、さくらさんのような絵は描かないように」とクラスメイトの前で全否定されて。それまで「大人は間違ったことは言わない」と信じていたから、そうではないとわかって絶望的も気持ちになりました。

――それは確かにしんどいですね。

 例外を許さない教育が毎日毎日続くので、ほとほと疲れてしまって。先生だけではなく、教室ではいつも誰かが誰かの悪口を言っている。誰かが誰かをいじめている。「学校はなんて暴力的で矛盾だらけなんだろう」と。私にとって学校はひとときも心が休まらない場所でした。そして限界を感じ、不登校になりました。「もう通うのは無理だ」って。

「不登校を許すなんて過保護」と母が責められた

――登校しなかったあいだ、お家ではどのように過ごしていましたか。

 夢中になって、たくさん絵を描いていました。一冊100円で売られていた100枚綴りのらくがき帳を一日で使い切ってしまうほどの量でした。空想の動物や架空の植物をよく描いていましたね。あと絵本を読み終えたら、続きを想像して描くんです。たとえば『ぐりとぐら』のその後を勝手に考えて描くとか。

――学校でそのような空想画を描いていたら、例の担任から怒られていたかもしれませんね。学校へ行かなくなって、ホッとしたのではないでしょうか。

 いいえ。私の場合はそうではないんです。本来は登校しなければならないというプレッシャーと、恐くて学校へ行けない自分の弱さに対する劣等感、母に迷惑をかけている罪悪感、それらが日に日に胸に募っていって。「私はこれからどうしたらいいんだろう」って、お先は真っ暗でした。

――不登校に対する、周囲の理解はありましたか。

 皆が理解してくれたわけではありませんでした。地味な生徒だったのに、登校をしないことで反対に注目されてしまって。クラスメイトが家にやってきて「なんで学校へ来ないの?」と質問攻めにされたり、からかわれたり。「学校へ行かないと、ちゃんとした大人になれないよ」と、よく知らない大人からお説教をされた日もありました。「不登校を許すなんて過保護すぎる」と母が責められている姿も見ました。家にいても、怯えていました。

――家にいて心が休まらないのは厳しいですね。

 私を学校へ通わせるために、いろんな人が私に諭しました。「学校へ行かないと将来、働くことはできないんだよ」「もう友達はできないんだよ」「これからずっと孤独な人生だよ」って。私はそれをすべて真に受けてしまって。いまだったらいろんな選択肢があるとわかるんです。けれども小学生だった私は「自分にはもう未来はないんだ」と落ち込んでいました。学校へ行ってもつらいし、行かなくてもつらい。中学生になるまで、そんな日が続いていました。

――小学校は、どのようにして卒業をしたのですか。

 母が学校側と話し合いました。そして月に一度は学校に行って、テストを受けて合格点に達していたら通学はしなくていいと決まりました。勉強するのは大好きで、苦ではありません。母が購読してくれた進研ゼミのドリルをひたすら解きながら学校のテストを受け、基準となる点数をクリアし続けた結果、卒業をすることができました。

美術館だけが現実を忘れられる逃げ場所

――中学時代はどのように過ごされたのですか。

 中学生になっても変わらず学校への抵抗感が拭えずにいました。小学生時代と同じく母が学校側と交渉し、試験でよい点をとり続けられたならば登校は免れられるようになりました。そのようななか、美術館を訪れるのが好きになりました。特に水戸芸術館は心の拠り所でした。館内で作品を鑑賞しているあいだだけは、母に迷惑をかけていることや、周囲から奇異な目で見られている事実を、いったんぜんぶ忘れられたんです。美術館は私の逃げ場所であり、聖域でした。

――心に残る作品はありましたか。

 奈良美智さんの作品が印象に残っています。奈良さんの絵が光に照らされていて、「こんなに美しいものがこの世にあるのか」と、とても感動したんです。そして「絵を描いて生きてゆく道があるのかもしれない」と、ひらめきました。将来に希望を抱く感情が、そのときはじめて芽生えたんです。視界が「ぱあっ」と明るく開いてゆく感覚をおぼえましたね。

「怪談びたり」には深津さんが描いた絵も数多く収録されている

――美大に進学されたのは、奈良美智の作品がきっかけだったのですか。

 そうですね。美大ならば私と同じように絵が好きな人たちが集まっている。そこならば、いじめられないだろう。太陽を赤く描いても怒られないだろう。そう考えました。母は私が毎日ずっと絵を描いているのを見ていたので「ぜひやりなさい」と応援をしてくれました。そして中学卒業後に通信制高校で学びながら、地元にひとつだけあった美術の予備校へ通ったんです。

――中学校も無事に卒業できたのですね。

 はい。「高等学校卒業程度認定試験」を合格し、17歳で大学受験の資格を取得しました。そして2011年に金沢美術工芸大学を受験したんです。学費で母の負担を大きくしてはいけませんから、国公立の美大しか選択しませんでした。

美大受験中に東日本大震災で実家が被災

――不登校だった日々が過ぎ去り、そこからは順調でしたか。

 いいえ……受験するために石川県を訪れているあいだに東日本大震災が起きました。地元・茨城の街が壊滅してしまって。私が住んでいる水戸エリアは震度6強を観測しました。

――3月11日でしたね。大学受験の日と重なってしまったのですね。

 試験は5日間に亘っていて、ちょうど二次試験で油絵を描いているときに震災が起きました。受験を諦めてすぐにでも家に戻りたかったんです。けれども道路も鉄道も不通となり、帰れない。試験を受けながら「母や親戚を助けに行かなければならないのに、私はいったいここで何をしているの」と地元の窮状ばかりを考えてしまって。結果はもちろん不合格でした。

――その後は茨城へは戻られたのですか。

 はい。地元に戻り、しばらく被災生活を送りました。ぼろぼろに崩れた街並みを眺めながら「これから私はどんな道へ進めばいいのだろう」と逡巡していました。どうしても、すぐに絵を描く気にはなれなくて。そうしているうちに京都造形芸術大学(現:京都芸術大学)に芸術学の学科があると知ったんです。絵を描くのではなく、アートについて勉強をする学科です。

――京都造形芸術大学は国公立ではありません。学費は大丈夫だったのでしょうか。

 そこは座学のみなので、実技がある学科に較べて学費が半額以下だったんです。「そこならば通えるんじゃないか」って。絵は一生、描いていくだろう。だったら大学では勉強をしっかりやろう。美術の歴史や批評、キュレーションについて学ぼう、そう考えたんです。

実は怪談は「苦手だった」

――「怪談」に関心を抱いたのは、いつですか。

 大学2年生の冬、二十歳のときでした。つきあっていた現在の夫から「怪談イベントがあるから一緒に行こうよ」と誘われたんです。それまで幻想的な物語を読むのは好きでした。けれども本格的な怪談は恐すぎて、苦手で。なので興味半分、しぶしぶ半分でついていったのが本音です。

――初めて訪れたのは、どなたの怪談イベントでしたか。

 文様作家であり、怪談蒐集家であるApsu Shusei(アプスー・シュウセイ/以下アプスーさん)さんが開催する怪談会でした。創作話ではなく「実話怪談」と呼ばれるジャンルの怪談会で、自分自身の実体験だったり、取材をして得た話であったり、本当に起きた話を語るスタイルです。そんなアプスーさんの怪談会が私にはかなり衝撃でした。勝手に思い描いていた怪談とは、まったく違っていたんです。「これは幽霊の仕業です!」とか、そういう内容じゃなかったんです。

文様作家であり、怪談蒐集家であるApsu Shusei(アプスー・シュセイ)さん

――「想像していたのとは違っていた怪談」とは、どのような内容ですか。

 アプスーさんが語る怪談は、まず奇妙な出来事があって、それがなぜ起きたのかを推理するんです。そして点と点を想像でつないでゆきながら、聴衆のイマジネーションを喚起するように話す。私はそれを、とても美術的だと感じました。

――美術的な怪談、ですか?

 たとえば絵画が一枚あるとします。絵は、それ自体はものを言わない。だから作者がどういう想いを込めて描いたのかは、わからない。観る人が『作者が伝えたいメッセージはなんだろう』と考える。解釈する。アプスーさんの怪談は、絵画鑑賞に近いと感じました。

――深津さんは美術を志していたから、なおさら共感できたでのは。

 そうなんです。「実話怪談って、こんなに面白いんだ」「こんなにクリエイティブなんだ」って。初めて聴いた怪談がアプスーさんではなかったら、もしかしたら「あー、怖かった~」だけで終わっていたかもしれないです。それくらい驚きでした。その後、しばらくはアプスーさんの怪談会へ通いました。「あそこへ行くと不思議な話が聴けるんだ」と、わくわくしていましたね。

人と話ができるようになったのは怪談のおかげ

――深津さんご自身が実話怪談を蒐集するようになったのは、なぜですか。

 怪談会へ通ううちに「自分でも怪談を集めてみたい」「いろんな人の体験談を聴いてみたい」と思いはじめたんです。リサーチしたのは、まずは大学時代の友人たち。喫茶店で「不思議な経験、なんかない?」って質問したんです。すると「実は子どもの頃のヘンな記憶があってね」って、みんななんらかのエピソードを持ってるんですよ。私の影響で次第に友だちも怪談が好きになり、恐い話を交換して楽しんでいましたね。いろんな地方から学生が集まる大学だったので、九州の怪談、北海道の怪談、それぞれの出身地ならではの味わいがあって、楽しいひとときでした。

――怪談のトレーディングですか! でも恐怖体験って、誰しもそんなにあるものなんですか?

 はじめから「恐怖」と限定すると、ないんです。「恐かった経験があったら教えてください」とお願いしても「ないです!」って、きっぱり断られる場合がほとんど。でも「不思議な経験はないですか?」と訊くと、「そういえば……」とお話をしてくださる。そこでわかったんです。恐怖というより、説明がつかない状況だったり、言葉にならない感情だったり、そういった得体のしれないもやもやした記憶ならば、ある人はたくさんいるんだって。実体験なんだけれど辻褄が合わなくて、自分のなかで「怪談」というかたちでは消化をしていない。そのため「笑い話として聞いてね」という方もおられました。

――確かに『怪談びたり』を読むと「きれいに割れた皿の半分が、どこを探しても見つからない」など心霊現象というわけでもない、説明がつかない出来事がたくさん掲載されていますよね。意味がわからないからこそ迫りくる臨場感というか。

 私も、そこに惹かれていったんです。そして「私が集めるべきは、そういう不思議な怪異譚なんだ」と気がつきました。それ以来、私の関心は「言いようのない奇妙な体験をしたとき、人の心はどう動くのか」という部分によりいっそう傾いていきました。

――同世代と交わることなく過ごしてきた十代と、怪談に出会った二十代では、深津さんのキャラクターも大きく変化したのでは。

 そうですね。それまでずっと人の目を避けて避けて避けて避けて生きてきましたから。でも怪談の取材を通じて人に話しかけたり、じっくりと耳を傾けたり、その人の心の内側に想いを馳せたり、人とのコミュニケーションがとれるようになりました。自分の内面が変わっていくようで、とても新鮮でした。

――おかしな言い方ですが、怪談と出会って心に光が射したのでは。

 それは本当にそうだと思います。人と話ができるようになったのは間違いなく怪談のおかげです。怪談に救われましたね。

勇気を出して、人前で怪談を話そう

――はじめは友人をリサーチしていたそうですが、その後はどのような方を調査の対象としたのでしょう。

 ご縁がある方に。それこそ飲み屋でたまたま隣どうしになった人とか、そういった小さな出会いを大切にしながら。怪談を蒐集するうちに「もしも不思議な話を集めているのならば、こういう人がいますよ」と、ご紹介いただけるケースも増えていきました。「こうして話ができてよかった。実は自分ひとりで胸のなかに抱えているのは、しんどかった」と言ってくださる方もいました。「自分がいなくなったら消えてしまう話だった。継いでくれて嬉しい」とも。

――そうやって聴き集めた怪談を「怪談士」として人前で話そうと思ったのは、いつですか。

 大学を卒業して、25歳のときです。アプスーさんを通じて「事故物件住みます芸人」で知られる松原タニシさんと出会い、「2018年になったら『OKOWA(オーコワ)』という、恐い話の新しいトーナメント大会が誕生するんだけれど出場してみないか」とお声がけをいただいたんです。それまで自分の語りでコンテストに出るなんて考えた事もなく、不安しかありませんでした。でも「人生に一回くらいは勇気を出して人前に立つ瞬間があってもいいのではないか」と考えなおし、挑戦しました。不思議な体験を聞かせてくださった方のためにも語り継ぎたいと考えたんです。

「OKOWA connect フェス」より(ちゅるんカンパニー提供)

――初の著書がいきなり3刷のヒット作となりました。今後はどのように進んでいきたいですか。

 人々の日常生活のなかでふとした瞬間に感じる違和、ひずみ。そういった怪異をこれからも表現したい。異物に出会った人々が、どんなふうに心が動いたのか、それを書いてゆきたいですね。

――最後に、最近ご自身のまわりで起きた怪異な出来事を教えてください。

 『怪談びたり』を制作しているときですね。編集の方が原稿に朱(あか/修正すべき点のチェック)を入れてくださって、私は指示された箇所を書きなおそうとしたんです。でも必ず同じところでいつも決まってデータが飛ぶんです。何度も。「カラーひよこ」という話なんですが。原因がわからなくって。あれは本当に困りました……。