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#35 あなたを幸せな色に染める薔薇のジャム 千早茜さん「透明な夜の香り」

文:根津香菜子、絵:伊藤桃子

 アッサムを濃いめに淹れ、スコーンにはクロテッドクリームと朔さんが作った薔薇のジャムを添えた。宝石のように紅いジャムだった。(中略)宝石のような紅いジャムをスコーンに塗り、ひとくち食べるとミツコさんは微笑んだ。「ねえ、小川さんたら、いったいどれだけの花を犠牲にしたの。頭の中に花畑が広がったわ」(『透明な夜の香り』より)

 「美味しいもの」には大体いい匂いや香りがします。しかし「香り」は人にとって常に「良いもの」とは限りません。今回ご紹介する作品は「香り」がテーマのお話です。ある秘密を抱えた元書店員の一香(いちか)は、古い洋館でお客様が好む香りをオーダーメイドで作る調香師・小川朔のもとで家事手伝いとして働くことに。人並外れた嗅覚を持つ朔のもとには、様々な事情を抱えた依頼人が訪れます。作中には、ハーブやスパイスなどを使ったメニューが色々出てきて、ページをめくるとその香りが匂い立ってくるような気分に♪ 作者の千早茜さんにお話をうかがいました。

香りは体験や心身と直結した感覚

——本作には、食べ物や草花、生活臭など様々な香りや匂いが出てきますが、香りをテーマにしようと思った経緯を教えてください。

 『人形たちの白昼夢』という短編集の中に「スヴニール」という話があるのですが、言葉が話せなくなった女性がレストランに招かれて、そこでコース料理を食べ進めるうちに香りと味で記憶を呼び戻すという内容で、これが『透明な夜の香り』の原型になっています。
 「小説すばる」の担当編集の方から「調香師さんが出てくるエンタメ作品を読んでみたい」という依頼をいただいて書いた長編なのですが、調香師さんや香りについて調べていく中で、香りと記憶の結びつきを知り、そこに「秘密」や「天才」といった要素を加えていって、この物語ができました。

——千早さんが朔に作ってほしい「香り」はありますか? 

 この質問、私もいろんな人に聞くんですよ(笑)。本作を書くにあたって調香師さんに取材をした時に、香りの感覚というのは経験にとても左右されやすいと言われたんです。その人が今までどんな体験をしてきたのか。例えば、病院で働いている人がそこで何かいいことがあったら、その病院の匂いはその人にとって「良い匂い」になるんです。なので、自分の中に「本当は好きなのに経験のせいで嫌いになってしまった匂いや香り」があるんじゃないかと思うんです。朔だったら、私の本当の好きな匂いを見つけてくれるのかなと。私の体にいい作用を及ぼしてくれる香りや、自分では好きじゃないかもと思っていたけれど、使ってみたら実はすごく合った、というような香りを作ってほしいです。ところで私からも質問なのですが、根津さんが朔に作ってほしい香りは何ですか?

——何でしょう……。でも「こういう香りを作ってください」というよりは、私と実際に会って話をして、朔さんが感じてもらったことを香りで例えてくれたら嬉しいなと思います。「この人はこういう香りだ」と思ってくれた香りが知りたいですね。

 その香りを知ることは怖くはないですか?

——怖いです(笑)。とても怖いですが、それができる人って朔さんしかいないかなと思いますし、想像できない香りだからこそ、知りたい気持ちがあります。

 この質問をすると、8割の人が答えるのは過去の香りなんですよ。印象深い旅先の香りとか、小さいころ入院していた時に母親が持ってきてくれた柑橘の香りとか、大体が昔にあったいいことや懐かしいことを香りにしたがるんですけど、2割くらいの人は根津さんみたいに「今の自分を見つめたい、知りたい」という方がいらっしゃるんです。「職業とかが関係あるのかな」と、色々考えるのが好きなんですよ(笑)。

——作中の「香りは再起動のスイッチ」という言葉が印象に残っています。千早さんが再起動する香りはありますか?

 調理している時の香りかもしれませんね。大きい仕事が一つ終わったら、ちょっとした料理をするようにしています。この前は、黙々と新ショウガを刻んで黒糖に漬けていました。手を動かして料理をすると、香りがたって、創作の世界から現実へと気持ちが切り替わる気がします。それから、夏はミントやローズを使ったお茶、というようにお茶は季節ごとに飲むものを変えています。

——一香のように、その香りを嗅ぐと一瞬でよみがえる記憶を持つ人は多いかと思います。私が一番記憶に残っている匂いには「怖いこと」「嫌なこと」が結びついていて、幸せな思い出よりも強く残っているんですよね。

 香りってとても原始的な感覚らしいので、やっぱり嫌な記憶と結びついていることが多いと思います。一香もそうですけど、私も嫌なことの方が多いですね。嗅覚って防衛本能なんですよ。腐った食べ物の臭いを「これは食べちゃだめだ」と危険を察知するためにあるものなので、嫌なことの方が鮮烈に結びつくような気がします。

——杖のグリップに仕込むための香りをオーダーしたミツコさんに、朔がおもてなしとして作ったのが、食用薔薇で作ったジャム(スコーンとクロテッドクリーム付き)です。千早さんは薔薇のジャムを召し上がったことはありますか。

 何回かありますよ。食べた感想は「あぁ、薔薇だな」っていうくらいなんですが(苦笑)。私は作品に食べ物をよく出すのですが、割と現実的に小説を描いているので、私が好きなものではなく、登場人物たちの経済状況とか経験や知識、年齢などを考えて食べ物を選んでいるんです。薔薇って、その存在以上に色々なものを人に見せるものなんだろうなと感じています。以前、友達とパフェを食べに行ったときにハーブティーを頼んだのですが、何種類かある中から自分で香りを嗅いで選べる店だったんです。それだけでもテンションが上がるんですけど、ハーブティーにはちみつと薔薇のジャムが添えられていたんです。それを見た瞬間に、友達の表情がパァッ~って輝いて「食べる前からこの人、幸せになっている」って思ったんです。その顔を見ているだけで、こちらも幸せな気持ちになりました。

——「薔薇のジャム」と言われただけで、その人の周りの色が変わる感じがしますよね。

 私の中でそれは「やわらかいピンク色」というイメージなんですが、そんな幸せな色に染まりますよね。きっと薔薇って、人を喜ばせるものなんだなって思います。たぶん朔がミツコさんに薔薇ジャムを作ったのは、ミツコさんは目が見えないということもあって、彼なりの「香りの花束」のつもりだったんだろうなと思います。

——女性にとって「薔薇の香り」とはどんな意味を持つものなのでしょうか。

 今「香り」として使われている植物って、大体薬効があるものなんですよね。中でも薔薇は、特に女性系の病気やストレスに効くとされているそうです。ある化粧品メーカーが行った研究で、薔薇の香りをつけた化粧水と無香の化粧水をつけて肌のバリア機能はどっちが上がるかというのを調べたものがあるんですが、薔薇の香りがする方が男性も女性もバリア機能が上がって、リラックス状態になったとか。性別関係なく、人が心地よいと感じる香りなんですね。香りには癒しや再生という効果があって、それを物語にも取り入れたつもりです。