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「コロナ in 韓国」本でひもとく 情報の共有が克服への希望に 戸田郁子さん

韓国で8月、新型コロナの感染が再燃しソウルの教会で消毒をする係官=AP

 今日もテレビで政府の定例ブリーフィングを見た。疾病管理庁の鄭銀敬(チョン・ウンギョン)長官の落ち着いた語り口は、わかりやすくて説得力があると評判だ。

 半年前、医系技官である彼女は動揺していた。人口250万の大邱(テグ)市で日に500人近い新規感染者が発生していたのだ。髪を逆立て、ほとんど寝ていない様子が画面から見てとれた。分け目からは白髪が目立った。

 ある日、鄭長官の髪形がショートカットになった。白髪染めどころか、ドライヤーで乾かす時間も惜しいのだろう。グレーヘアの鄭長官の姿は、頼もしい。

 6年前、済州島に向かう修学旅行生を乗せたセウォル号が海に沈むとき、青瓦台に姿を現さなかった朴槿恵(パク・クネ)前大統領が、「髪をセットしていた」と言ったことを苦々しく思い出す。司令塔が迷走すれば、国民の命はたやすく見捨てられるのだ。

大邱市の抑制例

 8月半ば以降、首都圏を中心とする感染が再燃している。保健福祉相は、「大邱で身につけた自信と連帯で、危機を乗り越えよう」と呼びかけた。「第2の武漢」と呼ばれ、7千人近い感染者を出した大邱は、都市封鎖なしに感染を抑えた。

 『新型コロナウイルスと闘った、韓国・大邱の医療従事者たち』は「大邱システム」を構築し運営した、最前線からの報告だ。

 検査の時短化、感染症専門病院を定め、重症者用病床を確保、軽症者向けの生活治療センターを開設した手順。当事者だからこその問題点の指摘もある。恐怖にさいなまれた本音もある。情報の共有は、ウイルス克服への希望につながると信じる。

 大邱で日本文学を研究する友人は最近、西洋美術の本に没頭していると言う。『私の西洋美術巡礼』は、日本で刊行された翌年の1992年に韓国語版が出た。20刷りを重ねたカラーの訳本は、話中の絵画が見やすくデザインされている。

 遠いところにあると思っていた西洋絵画が、実は自分と地続きの場所にあることを示唆され、震える。在日の政治犯として韓国の監獄にあった、著者の二人の兄の苦痛ともつながる、凄惨な絵画に息をのむ。

 それにしても中世のキリスト教関連の絵画は、なぜこんなにも血みどろなのか。見入るうちに、「また教会か」という嘆声が、耳の奥に蘇(よみがえ)ってくる。
 大邱の大感染の源は、新天地教会だった。首都圏の感染の中心には、ソウルのサラン第一教会がある。信仰が悪いのではない。感染病予防に努めない態度に、怒りを覚えるのだ。

民のそばに信仰

 韓国で、キリスト教がこれほど定着した理由はなんだろう。

 拙訳の『黒山(フクサン)』(金薫=キム・フン著、クオン・2970円)は朝鮮王朝の終盤、キリストの教えが野火のように広がったころを描いた小説だ。農奴たちの祈禱(きとう)文は、「どうか鞭(むち)打たれぬよう、飢えぬようにして下さい」という明快さだった。

 『私の西洋美術巡礼』で聖書の引用部分を読み比べると、韓国語の方が明らかに平明だ。わかりやすさは、大衆化への第一歩に違いない。

 家に閉じこもり、無性に読みたくなった小説が『こびとが打ち上げた小さなボール』だ。70年代のソウルと仁川を舞台に、底辺の暮らしを描いたが、決して古びない内容だ。工場労働者に組合作りを呼びかけて、一条の希望を授けたのは牧師だ。

 低き処(ところ)に臨む者は、常に民のかたわらにあったはずだ。しかしコロナ感染の中心にある教会の牧師たちに、神の前の平等以外の欲望が見え隠れするのは、なぜだろうか。

 「サラン第一教会の全牧師を、これ以上牧師と呼ぶな」という声が、他教会の長老たちからあがっている。コロナ禍で教会にも、軋(きし)みが際立ってきた。=朝日新聞2020年9月19日掲載