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架空の神話大系・クトゥルー神話はいかにして生まれ、世界に広がったのか? 森瀬繚さんインタビュー

文・朝宮運河 写真・斉藤順子

そもそもクトゥルー神話とは?

――近年、「クトゥルー神話」という単語をよく目にするようになりました。ゲームやアニメの題材としてしばしば取りあげられますが、クトゥルー神話とはどんなものなのでしょうか。

 主に1920年代から30年代にかけて、アメリカで作品を発表していたH・P・ラヴクラフトという小説家がいます。ラヴクラフトは同一の神々やキャラクター、地名や本を複数の作品に登場させて、物語同士をリンクさせるという手法を好んで取り入れました。たとえば「クトゥルー」をはじめとする神々の名や、『ネクロノミコン』に代表される禁断の書物、「アーカム」や「キングスポート」などの地名はラヴクラフトの小説ではおなじみのものです。
 ラヴクラフトは生活の糧を得るために他人の小説のリライトやゴーストライティングを請け負っていたのですが、そこにも自作に共通する単語をいくつも忍ばせ、作品世界を広げていった。そんな試みに触発された同時代の作家たちも、ラヴクラフトとさまざまな固有名詞をシェアし合うようになるんです。そうした結果、あたかも共通する世界観を持っているように見える、シェアードワールド的な作品群が生まれることになったんですね。クトゥルー神話とはそうした物語の総称です。

――神話といっても、20世紀に生まれた架空の神話なわけですね。

 そうです。ラヴクラフトが1917年に執筆した「ダゴン」という短編が、クトゥルー神話作品の第一号だと言われていますね。ただしこの小説を書いた時点で、ラヴクラフトの頭にはシェアードワールド的な発想はなかったはず。後年、徐々に世界観が広がり、多くの作品がリンクしてゆく過程で、結果的に「ダゴン」がクトゥルー神話に取り込まれたということだと思います。
 ただこうした教科書的な定義に加えて、クトゥルー神話にはもうひとつの軸があります。そして僕としてはこちらの方をむしろ重要視しています。

――と言いますと?

 1981年にアメリカのケイオシアムというゲーム会社が、『コール・オブ・クトゥルフ』(邦題は『クトゥルフ神話TRPG』)というテーブルトークRPGを発売しました。その名のとおりクトゥルー神話をモチーフにしたこのゲームは、主に英語圏で書かれた数多くのクトゥルー神話作品を取り込み、世界設定として活用しています。
 ラヴクラフトの死後、世界中でクトゥルー神話作品が書き継がれていましたが、公式設定と呼べるような標準化された設定は実のところ存在しませんでした。そこに『クトゥルフの呼び声』が登場し、ゲームの設定という形で、クトゥルー神話の世界を体系化したんです。これが人気を呼んでヒットした。今日、大半の人にとってクトゥルー神話というのは事実上、この『クトゥルフの呼び声』で扱われている世界観を指していると言って良いでしょう。

――ゲームの世界観とクトゥルー神話がほぼイコールになっている、ということですね。

 その結果、『コール・オブ・クトゥルフ』に採用されたクリーチャーや設定は有名なのに、そうでない作品は見過ごされたり、忘れ去られているというような現象も起きています。2020年現在のクトゥルー神話において、始祖ラヴクラフトの存在感は以前ほど大きくないですし、ファンの中には「え、小説がオリジナルだったの?」という人もいると思います。これは日本に限らないでしょうね。

作家同士の遊びから広まった、クトゥルー神話

――森瀬さんの著書『All Over クトゥルー クトゥルー神話作品大全』を読むと、クトゥルー神話が表現ジャンルの壁を越え、爆発的に広がっていることが分かります。クトゥルー神話はなぜ多くの人を魅了したのでしょうか。

 その答えはシンプルで、純粋に「楽しかったから」だと思います。物語同士を繋げるということは、シュメール時代の神話物語や古典ギリシャ時代の叙事詩でもなされています。複数の物語をリンクさせたいという欲求は、人間にもともと備わっているのではないでしょうか。
 ラヴクラフトにしても、ゼロからクトゥルー神話を作りあげたわけではなく、エドガー・アラン・ポーやアンブローズ・ビアスなどの先行作品から、さまざまな要素を抜き出しています。そして「面白いからやったらいいよ」と親しい作家たちに手紙で勧めている(笑)。クトゥルー神話が広がった理由は、ラヴクラフトが友人たちに勧めたから。その面白そうな遊びを目にした後続世代がさらに参入し、ラヴクラフトの死後もクトゥルー神話の輪が広がっていったんです。

――日本でも栗本薫さんのヒット作『魔界水滸伝』をはじめとして、数多くのクトゥルー作品が書かれてきました。

 日本でのクトゥルー神話をめぐる状況は、英語圏に比べるとやや独特です。日本では1970年代から80年代にかけて、60年代以前の英米の代表的な神話作品があれこれ翻訳されましたが、そこで一旦紹介が落ち着いてしまう。日本の読者や作家たちの中には、クトゥルー神話のイメージがその時点で止まっている方が結構います。当然、海外では新作がどんどん発表されて、それが『コール・オブ・クトゥルフ』にも取り込まれているんですが、元作品が翻訳されていないので、日本では若い世代が設定だけ知っているという状況が続いているんです。ある意味、ガラパゴス化していると言いますか。

――なるほど、翻訳状況によってタイムラグが生じたわけですね。

 それはそれで面白いことだとは思います。ただ、作品の内容とは別に、たとえば作家にまつわる誤りとわかった古い情報については更新された方がいい。たとえば、ラヴクラフトといえば故郷をほとんど出ることなく、隠者的な生活を送ったアウトサイダーというのが従来のイメージでした。栗本薫さんの『魔界水滸伝』などは、こうしたラヴクラフト観を下敷きにしています。ですが、書簡集が何十冊と公刊され、研究が進んだことで、ラヴクラフトは意外にエネルギッシュで、行動的な人物であったことが分かってきた。子供の頃に友達がほとんどいなかったということもなかったようですしね。SNSの発言や書籍で随時紹介するように努めていますが、広まるにはまだまだ時間がかかりそうです。

――森瀬さんがクトゥルー神話研究に深入りするようになった経緯は?

 もともと物語同士が繋がっているタイプの作品が好きだったんです。さまざまな英雄伝説を繋ぎ合わせたアーサー王物語や、多くの作家が手がけているシャーロック・ホームズのパスティーシュ。アニメでは二大ヒーローが競演した『マジンガーZ対デビルマン』が好きでしたし(笑)。クトゥルー神話はその趣味にぴたっとはまった。それにクトゥルー神話って本好きの心をくすぐる世界観なんですよね。古めかしい図書館や禁断の書物が出てきて、学者が活躍をする。子どもの頃から本が好きだったので、そうした衒学的な世界観に惹きつけられたという面もありますね。
 クトゥルー神話について調べてゆくうちに、ラヴクラフト本人にも関心が出てきました。海外の資料に触れたことで、「ラヴクラフトはこういう人だ」という先入観が次々覆されて、興奮したのを覚えています。2008年にはアメリカに渡り、ラヴクラフトの暮らしたプロヴィデンスを中心にニューイングランド地方一帯を巡ってきました。現地に行ってみると、ラヴクラフトは自分が目にした光景を、かなり写実的に記していることが分かります。よくラヴクラフトは想像力で作品を書いていると言われますが、出発点になっているのは視覚的な情報なんですよね。そうしたことが分かるとますます面白くなって、いつしかどっぷり深みにはまっていました(笑)。

ラヴクラフトは読みにくくない、と伝えたい

――森瀬さんは現在、ラヴクラフトの作品を新たに訳出する「新訳クトゥルー神話コレクション」に着手されています。こちらのコレクションをスタートさせた理由は?

 いくつか理由があります。まず20世紀の翻訳は怪奇幻想文学の文脈に沿ったもので、ゲームや小説を含めた創作の背景設定ソースとして手にする読者を想定していません。時代的に当然ですよね。ところが現代では、『コール・オブ・クトゥルフ』からクトゥルー神話に興味を持つ読者が多いわけで、そのあたりをフォローできる資料的な訳書が必要だと思っていたんです。
 それと、「読みづらさ、わかりにくさこそがラヴクラフトの醍醐味」という意見を主にネット上で目にすることがあって、ひどく違和感を覚えたということがあります。僕自身はラヴクラフトの小説を読みにくいと思ったことが、一度もないんですよ。原文に当たってみれば分かりますが、あれほど明晰で、意味の取りやすい英語を書く作家も珍しい。日本ではそのあたりが誤解されているので、ラヴクラフトは決して難読ではないということを、新しい訳文であらためてアピールしたいとも思いました。
 それと、既にラヴクラフト作品の大半が翻訳され尽くした今だからこそ、テーマ別、執筆順に作品を選り抜いて1冊にまとめ、「設定の変遷や物語同士の繋がり、影響関係がわかりやすい」パッケージとして読者に改めて提示したかった。それも、自分で作品集を編んだ大きな動機でした。作品の元になった夢についての手紙であるとか、リライト作品については元の作品も併録しているのも、読者の理解を深めるためです。

――詳しい注釈・解説のお蔭もあり、ビギナーでも手に取りやすいシリーズになっています。若い読者の反応はいかがですか?

 面白かった、読みやすかったという方もいますが、特に興味深かったのは「自分が思っていたのと違う」という反応でした。確かにラヴクラフトの原典は、ゲームやコミックのように次々とクリーチャーが出てきて、探索者が狂気に陥って……というものではないですから(笑)。そうしたさまざまな反応も含めて、新訳した甲斐があったと思っています。

“クトゥルー”か“クトゥルフ”か

――ところでラヴクラフトの造語である「CTHULHU」をどう読むかは、以前から議論がありますね。日本では“クトゥルフ”と読まれることも多いですが、森瀬さんは今回“クトゥルー”読みを採用されています。

 色々な理由があるのですが、一番大きいのは、世界標準がクトゥルーだということです。ラヴクラフトと親交があったロバート・H・バーロウという作家が、ラヴクラフトは“クトゥルー”と発音していたと証言していますし、英語圏のオーディオブックを聞いても大半が“クトゥルー”もしくは“クゥルー”で発音されています。表記からして、スペイン語では「CTHULU」、中国語では「克蘇魯」と「ルー」読みですね。海外で“クトゥルフ”と言って通じなかったという話もよく聞きます。クトゥルー神話はワールドワイドなものですし、日本産のクトゥルー神話作品を海外に発信してゆくためにも、今回のコレクションでは世界標準に合わせました。

――「新訳クトゥルー神話コレクション」は2020年秋現在、5巻まで刊行されています。これまで訳してきた中で、特に森瀬さんが思い入れのある作品は?

 すべて、と言いたいところですが、あえて挙げるなら「新訳コレクション」第1集に収めた「墳丘」でしょうか。ラヴクラフトがズィーリア・ビショップという作家のために代作した作品です。昔読んだ時はそれほど印象に残っていなかったんですが、今回新訳するために読みなおしてみて、こんなに面白かったのかと改めて驚きました。主人公が地下世界に降りてゆく描写は、ジュール・ヴェルヌの冒険小説のようで、ラヴクラフトの物語作家としての技巧が存分に味わえます。これまでビショップ作品扱いされてきた「墳丘」を、ラヴクラフトのクトゥルー神話作品として紹介できたことにも達成感を覚えています。

――かつてはマニアックな趣味だったクトゥルー神話も、今ではかなりポピュラーな存在になりました。こうした現状について、森瀬さんはどう思われていますか?

 小学生でも知っているんですから、隔世の感がありますよね(笑)。この夏もラヴクラフト原作の映画『カラー・アウト・オブ・スペース 遭遇』が劇場公開されたり、海外ドラマ『ラヴクラフト・カントリー 恐怖の旅路』の配信がスタートしたりと、話題には事欠きません。クトゥルー神話の世界が着実に、受け入れられつつあるのは間違いありません。僕もそうした流れをサポートしていきたいですし、「新訳クトゥルー神話コレクション」がビギナーの役に立てばいいなと思っています。

――まだしばらくはラヴクラフト漬けの生活が続きそうですね。

 そうなんです(笑)。使命感に駆られているうちに、生活の大半がラヴクラフトとクトゥルー神話に占められていました。他にも翻訳したい作家は多いですし、オリジナル作品を執筆しなければという思いもあるんですが、いかんせん時間が足りません。「新訳クトゥルー神話コレクション」の完結はもちろん、これまでコレクションしてきたクトゥルー神話絡みのアメコミ研究の成果をまとめなければ、という思いもあります。僕は永久にクトゥルー神話からは離れられないかもしれませんね(笑)。

【クトゥルー神話の豊潤な世界】

②「新クトゥルフ神話TRPGルールブック」ヒットのわけ
③海野なまこ「クトゥルフ様が めっちゃ雑に教えてくれる クトゥルフ神話用語辞典」インタビュー
④好書好日ボドゲ部・定番ゲームのクトゥルー版を遊んでみた「ラブクラフト・レタ-」

⑤好書好日ボドゲ部・定番ゲームのクトゥルー版を遊んでみた「パンデミック クトゥルフの呼び声」

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