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高山羽根子さんが読んできた本たち 作家の読書道(第221回)

楽しませる悦びを知る

――いちばん古い読書の記憶を教えてください。

 おそらく私は他の作家のみなさんと比べると、子どもの頃の読書経験というのがたくさんはなくて。でも親はわりと、私やふたりの妹に本を読ませたがっていたんじゃないかと思います。そんなに近いところに本屋さんがなくて、バイクで届けてくれる本屋さんが定期的に「こども文学全集」みたいなものを届けてくれていました。それを熟読したというより、読んでいはいた、くらいの記憶があります。自分で本を買って読むようになるのは10代中盤か、それ以降になります。漫画もそんなに読まない人間でしたし。それまでは図書館で読めるものをなんとなく読んでいましたね。青い鳥文庫みたいなものとか、冒険っぽいものとか、古典を子ども向けに分かりやすくしてあるものとか。

――プロフィールによれば、富山のご出身ですよね。

 あ、生まれたのは富山なんですが、わりとすぐに東京に越して、その後神奈川県の茅ケ崎にいきました。小学校に入る前です。富山は祖父母の家があって、夏休みに行ったり、妹が生まれる時に長期間滞在することもありました。祖父母の家は駅から5分とか10分の都会で、百貨店に大きな本屋さんも入っていて、そこにいくとすごく本を買ってもらえました。近くに本がなかったというのは茅ケ崎の時のことで、今は郊外型のショッピングモールがありますが、当時はスーパーも本屋さんも、そこまで近くにはなくて。図書館もバスを使わないと行けない距離でした。

――高山さんは後に美術大学に入るわけですが、小さい頃から絵を見たり描いたりするのは好きだったのですか。

 ああ、そうですね。安野光雅さんの『もりのえほん』というのがあって、あれは大人になってからもずっと見てました。自分で落書きもよくしていました。絵の教室にも通っていましたが、それはピアノ教室とかテニス教室とかいろんなことをやらされるなかのひとつで、そのなかでは一番続いていたかなというくらい。中学も高校も美術部ではなかったので、絵をしっかりやろうと思ったのは高校生の時、美大を受験をすることにしてからなんです。なのでそれまでは描くとしたら本当に、友達とマックに行くとトレイに敷かれた紙の裏側が真っ白だから、あれを裏返して友達4人くらいでボールペンで好き勝手描きながら喋る、とか。あとはノートに落書きして友達と交換しあうくらいでした。

――絵を描くのが得意だったり、まわりから褒められたりしたことは。

 見よう見まねでなんとなくできていたんですよ。絵を描くにしても文字を書くにしても。音楽とスポーツは全然できなかったんですけれど。で、やって褒められることは嬉しくてずっと続けていた、というのはあるかもしれないです。

――文字や文章も落書きで書いていたのですか。

 感じていることを書く時に、絵にするのと文字にするのとどっちが楽かな、という感じで、字が書きやすかったら字で書いていたし、絵で描きやすかったら絵で描くという感じでした。小さい頃はそんなに喋る子ではなくて、何か伝える時に口でうまく伝わらないことを絵で描くと分かってもらえたりしました。10代になると今よりもっと喋る子だったので、人と喋りながら字も書いて絵も描いて、みたいな感じでした。

――感想文や作文は得意でしたか。

 中学の時に1回だけ書いたものを「面白い」と言ってもらえた記憶があります。映画の「瀬戸内少年野球団」の感想だったかな。島の外から先生が来たり、島の外に行ってしまう女の子がいたりするので、島の内側と外側は違う世界になっている、みたいなことを書いたんです。現国の先生がとても思慮深い方で、褒める時も生徒の名前を出さず、「誰が書いたかは言わないけれど、この文章はとても良かったのでみんな読んでください」と言う人で。みんなは私が書いた文章だと知らないので、褒められた感覚は自分にしかなかったんですが嬉しかったです。今思えば、それが最初の呪いだったかもしれない。呪いはそのまま福音とも言い換えられるんですけれど。

――書くことの悦びを知ってしまったという呪いですか。

 そう、それと「ああ、面白いと言ってくれるんだ」という。映画自体が面白かったので、面白いことをどう面白いと思ったか書いて面白いと言ってもらったという、入れ子構造みたいですけれど、それが自分のなかで、「楽しんでもらえるんだ」という感覚になって。ふざけた絵を描いて友達に笑ってもらうのも嬉しいことなんですけれど、感想文を褒められた時はなにか、すごく強い光みたいなものがあって、その光に虫のようにふらふらーっと引き寄せられていく感じがありました。

――ところで、親御さんは本が好きだったのでしょうか。

 親は忙しかったこともあって、あまり本を読んでいなかったですね。でも、学生時代に読んだ本なのか、サリンジャーなどは家にあったんです。私もそれをちょっとは見たんですが、その時は反抗期だったのか「こういう気取った本はあんまり好きじゃない」という気持ちになって、そうした本ではなく、冒険小説や紀行文を手に取るようになりました。椎名誠さんの『アド・バード』とか、妹尾河童さんの『河童が覗いたインド』みたいなものとか。あとは船戸与一さん。そんなたくさん読んでいるわけではないんですが、『山猫の夏』とかを読みました。そういうものを読むようになったのは10代後半ですね。図書館とか学校の図書室とか、本を借りられるところで見つけたんだと思います。でも、まわりはお洒落な本を読む子が多かったんです。河出文庫の、あの、さらさらした表紙の文庫とか(笑)。

――ああ、昔の河出文庫って、カバーの紙がツルツルではなくてマットな感じでしたよね。

 そう。すごくお洒落な感じで、それこそ山田詠美さんの『蝶々の纏足』とか友人が貸してくれて。私もそういうのを読みつつ、冒険ものをチラチラと読んだりするような子だった気がします。

映画館と美術館に通う

――部活は何をされていたんですか。

 中学の頃は吹奏楽部。楽器はでアルトサックスですが、全然うまくなかったです。大人になって思ったんですけれど、私はリズム感がめちゃくちゃないんですよ(笑)。なぜ気づいたのかというと、ニンテンドーDSか何かのゲームをやっていたら、リズム感だけがやたら駄目だったんです。「だから私はあんなに音楽ができなかったんだな」って。今でもカラオケもほぼ行かないし、機嫌がいい時に何か口ずさむ、ということもしないです。

――でも吹奏楽部を選んだということは、音楽が好きだったんですか。

 たぶん消去法だったと思います。部活入らなきゃいけないという時に、選択肢として運動部はなくて、文化部も吹奏楽と合唱くらいしかなくて。英語研究部とか囲碁将棋部とかあったらそこに入っていたと思うんですけれど。高校は部活に入らなくてもよかったので帰宅部でした。ちょっとだけ英語研究会みたいなところに入ったんですけれど、2年や3年になると美大の受験の準備があるので、学校が終わったら予備校に通う生活になったので行かなくなりました。そもそも、あんまり学校に行かなかった子どもでした。サボりがちだったんです。

――読書以外のもので、文化的影響を受けたものを教えてください。

 世代的に、小学校中学年くらいの時にファミコンが出てきたくらいで、生まれた時からゲームがいっぱいあるような環境ではなかったんです。パソコンを持っている家庭も少なかったし、VHSのビデオデッキも小学校高学年くらいにならないとなかった世代です。アニメがテレビでやっていても録画できないから、ちょっと続きを見逃すともう分からなくなるので、自然と見なくなったりして。
 中学、高校くらいの時に映画が好きになったんです。中学高校はちょっと離れたところに通っていたので、帰り道に頑張れば映画館に行けたんです。藤沢も昔はオデヲン座や、500円とか1000円で旧作を2本立てで観られる名画座みたいなものが4軒くらいあったんです。今は藤沢にしても茅ケ崎にしても駅前の映画館がなくなってしまったんですが、高校生の頃はそこに行くのがすごく楽しかった。それと、横浜の伊勢佐木町のあたりにも映画館が2、3軒ありましたね。横浜日劇というのがあって......ドラマの「濱マイク」シリーズの舞台になっていた場所です。そことかジャック&ベティとか、地下にあった名画座とか。そこで夏になると中国映画特集とか、ギリシャ映画特集をやるので、高校生の時はそういうのを観るようになって。なんかこまっしゃくれてたんです。

――高校の時に、美術にも興味がわいたのですか。

 そうですね。映画館に行くようになった頃に、美術館にも結構行くようになったんです。私が高校くらいの時って、県内の学生は中学生以下は無料で、高校生でも100円とか200円で美術館に入れたりしたので、それでよく行くようになりました。1990年代なんですけれど、現代美術にサイバーなものが多かったんです。村上隆さんが出てくるちょっと前くらいで、三上晴子さんとかがいて。ドイツのヨーゼフ・ボイスが来日してお話を聞きにいったのも高校生の頃だったかな。日本が経済的に良かった時期だったからかもしれませんが、海外からも現代美術の作品がいっぱい来て展示されて。なんというか、未来に対してかなり多様化した視点を持った作品がたくさんあったんです。それがすごく面白かった。それらを観たことで、文章とは全然違うルートでSF的なものに気づいたというか。フィクショナルなワンダーというものに対して視点がぱっと開けたのが、高校時代に現代美術の作家さんをいろいろ観た時だったのかなと、今になったら思います。

――それで美大を志望したのですか。美大の試験って一般的な大学受験の内容とは全然違うから、大変そうだなと思ってしまいますが。

 全然違うから大丈夫だったのかもしれないです。私は中学受験をしているんですが、中学に入ったらみんなすごく勉強ができて、するっと競争みたいなところからあぶれてたんです。だから一番競争っぽくないところにある美術を観はじめたのかもしれません。でも、美大に入ろうと思ったらそりゃ競争がすごかったんですけれど。ただ、音楽大学となると小さい頃から英才教育を受けていた人が多いかもしれないけれど、美術だとみんなだいたい高校くらいから受験勉強を始めるんです。もともとすごく上手な人がいたとしても、受験用のデッサンとなるとちょっと別で、額縁にいれて飾っておくための絵ではなく、訓練としての絵が描けないといけない。つまりやればやっただけ格好がつくので、それも楽しかったんでしょうね。筋トレみたいな感覚です。
 それに、それほど分かりやすい競争でなかったのもよかったと思います。形が取れる人は形を取ることで勝負すればいいし、色合いがいい人は色合いで勝負すればいいみたいな感じで、いわゆる筆記とかの試験よりは、間口は広かったのかなと思います。

アートや映画から広がる読書

――多摩美術大学に進学して、専攻に日本画を選ばれたのはどうしてですか。

 受験する時にどこの科を受験するか選ぶんですが、鉛筆デッサンと、油絵を選んだら試験で油絵を、日本画なら水彩画を描くことになっていて。本当の日本画の絵の具は特殊で乾くのに何日もかかるので、受験では水彩でした。油絵は自分の表現をしなきゃならない部分が強いけれど、日本画はわりとあるものをあるように素直に描けば「なんとなく」のところまではうまくいくと思ったんです。トップを取るのは難しくても、受験に受かるか受からないかのレベルならなんとかなるかな、と。その頃の自分は本当に、個性とかそういうことに関して興味がなくて、あるものをあるがまま描くのがよかろうみたいな気持ちがあったんです。
 それと、その頃の多摩美の学長さんが日本美術を専門としている辻惟雄さんという人だったんです。私が入った1990年後半って、若冲とか海外から逆輸入された奇想の日本画家みたいな存在が再発見されて面白がられはじめた時期だったんです。辻さんには『奇想の系譜』という著書があって、メインストリームではない、ちょっと変わったものを作っている日本画家たちに視点を当てた人で、当時私もすごく影響を受けました。多摩美には他にいろんな先生がいるんですけれど、「あの先生の授業を取りたい」という人が多かったというのもあります。

――美大だと、作品制作の授業も多いわけですよね。

 そうです。制作の時間のほかに、1年生だったら一般教養などの授業があり、2年くらいから専門の学問の授業もあります。一般教養の授業はもちろん体育とか英語もあるし、あとは解剖学とかもありました。2、3年になると他の科の取るようなゼミでも自由に取れて、自由にやりたいことをやらせてもらえました。それが楽しくて、他の人にくらべると絵の実習よりも授業を受けていたほうだと思います。本も、大学に入ってからのほうが能動的に買って読んでいました。

――どんな本を読んだのですか。

 さきほど家の本棚にサリンジャーがあって嫌だなと思ったと言いましたが、大学に入る前後だったかな、ポール・オースターを読んで「わ、すごい」と思って、家の本棚にサリンジャーがあったなと思い出して、そうか、一周まわっているんだな、と再発見したというか。やっぱり自分で発見することが大事ですよね。
 20歳前後の頃は翻訳ものをよく読みました。スティーヴン・ミルハウザーとか、ほとんどアメリカ文学だったと思います。やっぱり映画でも現代美術でも、小説をテーマに扱っている作品が多いんですよ。ビート・ジェネレーションと同世代の人が写真家になったり、ポール・オースターの小説を下敷きにして作品を作っている人がいたり。それをもっとよく知るために、やっぱり本を読みたいなというところから読書に入っていきました。

――オースターやミルハウザーは何が好きですか。

 オースターは『幽霊たち』。三部作のひとつですね。あれを最初に読んだんじゃないかなと思います。たしか、何かの作家さんが「読んでいます」と言っていたから知ったんじゃないかな。ミルハウザーはたしかはじめて読んだのが『イン・ザ・ペニー・アーケード』で、『十三の物語』も好きだし、最近出た短篇集の『ホーム・ラン』ものすごく好きです。
 ほかにヨーロッパのSFとかも、スタニスワフ・レムの小説が映画になっているところから知ったりして。そういうルートからSF的なものを摂取し始めたのも大学生くらいからですね。

――タルコフスキーの映画「惑星ソラリス」を観て、原作はレムの小説なんだな、と知って読んでみる、という感じですか。

 そうです、そうです。高校生の時にギリシアのテオ・アンゲロプロス監督の「こうのとり、たちずさんで」を観てすごくショックを受けたんですよね。そこからハリウッド映画や日本の映画とは別の映画を観始めて、そこにタルコフスキーも含まれていました。最初その延長上で本を読み始めたら、本がものすごく人生の中に食い込んできて。能動的に本を買って読もうとか、借りて読んでも面白かったら自分でも買おうとか、本を持つことの幸せみたいなものを感じるようになりました。

――アンゲロプロスやタルコフスキー以外に、どんな監督や作品が好きでしたか。

 もともとはハリウッド映画も好きだったし、どっちも面白いなと思います。「E.T.」も大好きでしたし、「2001年宇宙の旅」も好きだし、コーエン兄弟の「ファーゴ」や「ノーカントリー」もすごく好きです。それと、私が高校生か大学生の頃に香港映画がすごく流行っていましたね。ウォン・カーウァイ監督の「恋する惑星」とかがジャック&ベティで上映していて、その延長で、中国の「第五世代」、チャン・イーモウの作品もすごく流れていたんです。たぶん、カンヌとヴェネツィアの映画祭でそういう監督がどんどん認められていって話題になっていたから、郊外の高校生や大学生が観られるところまで届いた時代だったんです。

――チャン・イーモウは「紅いコーリャン」とか「初恋のきた道」とかの監督。

 そう、それこそ、「紅いコーリャン」って原作がちょっと前にノーベル文学賞を受賞した莫言じゃないですか。そういうところから海外の文章を読むようになったところもあります。

――映画の上映情報ってどうやって入手してました?

 当時は「ぴあ」くらいしかありませんでした。ネットもないし、携帯電話だって数字しか表示されないような携帯電話だったし。昔はDVDもなかったので、観ようと思ったら本当に映画館に行かないと観られなかったので、料金が1000円とか700円のサービスデーとかをチェックして行っていました。「ぴあ」も毎週は買えないから、いい特集がある時に買っておいて、上映のタイムスケジュールの一覧を眺めて観てまわる順番を組み立てたりして。便利でしたね。あとは映画館に行った時の予告編とかチラシとかを集めました。美術館に行く時も入り口にあるチラシを片っ端から取っていましたね。

何度も眺める美術本

――学生時代、美術関係の本もいろいろ読まれたのでは。

 その頃の本棚を見ていると、やっぱり画集とか美術評論が多いですね。その人を論じているものとか、その文化の全体的なものを俯瞰して論じる本とか。本棚を整理していると、10代後半とか20代の頃はそういうものをよく買っていたんだなと分かります。

――「この本が良かった」というものをいくつか教えていただけますか。

 えっと...。瀧口修造さんという作家がすごく好きなんです。詩人で美術評論家なんですけれど、デカルコマニーという手法で絵も描いていた方なんです。富山出身で、富山県美術館にはアトリエまで再現されていたりして。子どもの頃に連れて行ってもらって、瀧口さんの作品とか、瀧口さんのコレクションを見ていたんですよね。瀧口さんは現代美術のコレクターでもあるので、デュシャンの作品なんかも持っていて、それが展示してあるんです。そういうものを見てきたことが、『首里の馬』なんかも影響を受けているだろうなって勝手に思っているんですけれど。
 その瀧口さんの本や作品集が好きですね。画集とか展覧会のカタログは増えちゃうのであんまり表に出しておかないんですけれど、作品集はずっと手元に置いています。『夢の漂流物』は彼自身の作品というより彼が集めてきたものが収録されている本。展示会のカタログなんですが『《海燕のセミオティク》2019』は彼自身の作品とそれについての文章が載っていて、それも手元にあります。スケッチブックと文章が対みたいな形で展示されていたんです。
 瀧口さんもそうですけれど、他にも画家であり詩人であったりする方ってたくさんいらっしゃいますよね。みなさん文章も絵も美術作品も作っている。それこそ赤瀬川源平さんとか。そういった方たちの作品集を読むのは学生時代から好きだったかもしれない。
 最近の、詩人の平出隆さんの『鳥を探しに』も好きで読んでいます。平出さんは基本的に詩人と呼ばれていると思うんですよ。そう考えると、どのあたりまでを美術家と言ってどのあたりからを文筆家というのか微妙だなと思うんです。瀧口修造さんも含め、若かった私にとってすごく大事な作家さんだと思います。

――ところでがらっと質問は変わりますが、ベイスターズのファンになったのはいつからなんですか。

 それは、年間どんだけ試合に行けばファンといえるかという。子どもの頃はテレビでプロ野球中継を見たり、父親に連れられて年に2、3回球場に行ったり、よみうりランドのジャイアンツの二軍の球場に行ったりというのはあったけれど、自分でユニフォームを着て応援するという感じではなかったんです。でも神奈川県って高校野球が盛んで、私の高校時代も横浜高校や、Y校(横浜商業高校)がすごく強くて、「そんなに野球好きだったっけ」という女の子も選手のことをきゃあきゃあ言っていたんですね。松坂大輔は私の代ではなく妹と同い歳くらいなんですけれど。まあ、そんな感じでチラチラ生活の中には入ってきていたんです。
 ファンになったのは大人になってからですね。1998年に横浜が日本一になったんです。もう、神奈川県の横浜側にいる人が全員横浜ファンなんじゃないかと思うくらいで、パレードとかもすごくて、車とかがひっくり返されんばかりの勢いで。「そんなに野球好きじゃない」と言っていた人までもう大騒ぎで。それくらいからです。

いつでもメモ書き

――さて、大学を卒業された後は、就職されたんですか。

 私はロスト・ジェネレーションの最初の頃の世代で、大学に十数倍の倍率から入ってきたのに授業料を払えなくて辞めてしまう人も何人かいたし、就職も仕事があるだけましだというところがありました。私も「就職できるならまあいいや」という感じで就職して、夜中まで仕事して絵を描く時間もなくて、最初のうちは我慢しようと思っていたんですけれど、20代中盤、後半までそんな感じが続いて。お金があっても時間がなくて、大学の時に行けた美術館も展覧会もお芝居もどんどん行くことができなくなって。体力がある分、働けちゃったんですよね。「本を読む時間も気力もないな」というところから脱出できたのは30歳を超えてからでした。まあ、そういう経験もあったから書けるものもあるから、一概に無駄だったとは言えないんですけれど、好きなものを読んだり書いたり美術を観に行ったり絵を描いたりということが選べるようになるまで10年以上かかった感じです。

――脱出できたのは、勤めていた会社の空気が変わったのですが、それとも転職されたのですか。

 時間が取れるようになったのは転職がきっかけでしたが、転職しなくてもある程度の歳になれば少し落ち着いていただろうとは思います。20代の頃は、結構大変な仕事をしつつ、ちょいちょい絵を教える仕事なんかもしていたんです。平日に普通に働いて、日曜日に絵を教えたり、いろんなイベントのお手伝いみたいなこともしていたので。それでいっぱいいっぱいなっちゃったので、30代になってから、長くかからない仕事に替えて、他のお仕事も辞めたんです。それで空いた時間を美術館や展覧会やお芝居など、完全に自分の好きなものに使うようになったらすごく気が晴れたというか。学生の頃に比べたら知識も増えているから、いろんなものを観ても圧倒的に受け取りやすいし、吸収しやすくなっていましたし。それまで仕事でぎゅーっと抑圧されていた分が、開けて「はあーっ(溜息)」となりました(笑)。

――高山さんは、そうしていろんなものを観た時に、感じたことを書き留めてきたのですか。

 そうですね、ちょろちょろっとメモを書いたりして。それを絵の制作に反映したりしていたので、ネタ帳みたいなものですね、要は。

――前に小説の創作に使ったという、大きなスケッチブックを見せていただいたことがありますよね。いろんな資料やアイデアみたいなものが書きこまれていて、メモがそのまま張り付けてあったりして。

 あれはネタ帳で書いたものなんかを大きな面で一度に見えるように整理したものですね。あれくらい大きなものは小説を書くようになったから作るようになりました。普段は普通のノートサイズのものとか、それこそ美術館などでは手のひらに入るくらいのサイズのメモ帳に書いています。メモ帳みたいなものは絶えず持ち歩いています。

――そういうところに文章もちょこちょこ書いているうちに、小説を書こうと思い立ったのですか。

 そうですね。小説と言っていいのかどうかという感じなんですが、最初は原稿用紙でいったら5枚と10枚の間の短いものを書いていました。今となってみれば、結構そのくらいの長さでまとめるのって大変なので、よくやっていたなと思います。絵も同じで、いきなりマスターピースは描けないので、小さな紙とか板でいいから、全部描いて描いて全部塗って、「下手だな」と思っても描き終わらせることを何度も繰り返したほうが絶対うまくいくんですよ。私はそういうやり方が合っていたようで、だんだん書くものが10枚になり、20枚になり、50枚になっていって。

――作家になろうと思ってではなく、あくまでも楽しんで書いていたわけですね。

 「作家になる」というのが今でもピンときていないんですよね。画家って「画家になる」っていうのがないじゃないですか。

――ああ。確かに「作家デビュー」という言い方はあるけれど、「画家デビュー」って聞かないですよね。

 人によってはグループ展を開くとか、個展を開くとか、何かの賞を獲ることを基準にしている人もいるとは思いますが、基本的には、生業にしているかは関係なく、絵を描いている人はみなさん画家ですよね。小学生が「僕はアーティストだ」と言ったらもうアーティストなんですよね。でも小説の場合は違って、本が出たとか、何かの賞を獲ったとか、「作家と名乗っていいライン」みたいなものがある気がします。でも今は自分で書いたものをkindleやネットで発表してお金をもらっている人もいるし、なにをもって「小説家」というのかが余計にわからなくなっていますよね。今はインターネットでいろいろ作品を発表できなかった時代のライン引きみたいなのがなんとなく残っている状態で、これからまた変わっていくのかなと思います。

応募のハードルは低かった

――では高山さんの場合、新人賞に応募したのは、ある程度の枚数のものが書けたらちょっと出してみようという気軽な気持ちだったのですか。

 そうです、そうです。応募に関してはすごくハードルが低かったんです。美術大学に行っていると、課題で描いた絵なんかをどんどんコンペに出すんですよ。腕試しじゃないですけれど、せっかく描き上げたのにそのままほったらかすのもなにかなって。人にもよるので、ある程度まとまってから個展を開く人もいるし、できあがった時点でテーマに合った公募展に出す人もいたし、何もしない人もいる。でもとにかく、応募することに対してハードルが高くなくて、「せっかく50枚書けたから50枚前後で応募しているところがあったら応募してみようかな」という。駄目だったとしてもあんまり気にせず、またぽいぽい応募しようかなという気持ちでした。

――それで、規定枚数が合う新人賞として、たまたま第1回創元SF短編賞があった、と。

 たまたま、他に100枚とか200枚のエンタメを書いている人が、「自分にはこういう賞は合わないけれど、今回から始まるこの賞はあなたは合うもしれないから応募してみたら」って教えてくれたんですよ。私は結構変な話を書いていたので、「新しい賞でまだちゃんと傾向も決まっていないだろうから、いいんじゃない」って。それで応募したんですよね。

――そういう仲間がいたんですね。

 いろんな大学に社会人が受けられる授業があって、その一環の小説講座みたいなところに行ったんです。完全に好奇心だったというか、絵を描くにもやっぱり学校に行ったわけだし、自分がゼロから面白いものが書けるか疑わしいから言ってみたというか。
 結局そんなに長くは通わなかったんですけれど、そこでわりと仲良くなった人がその後も連絡を取り合ってくれて。先生もすごく気にしてくれたので、ありがたい話です。

――あ! そういえば、根本昌夫さんの教室に通っていたという話を小耳にはさみました。芥川賞を受賞した若竹千佐子さんや石井遊佳さんも通っていた教室ですよね?

 そうです。根本先生は、今はどうか分かりませんが、大学の授業とかカルチャースクールとか、いろんなところで教えていたんです。通ってくる人も、年齢も10代20代から70代80代の方がいたし、会社で社史を作らなきゃいけないけど文章が書けないという人や、編集のお仕事の人とか、シナリオを書いている人とか、いろんな方がいました。私は石井さんとはたぶん違うところだったと思うんですけれど、若竹さんは同じ教室の同じ時期にいました。授業が終わった後に喫茶店に行って喋ったり、映画を観に行ったり、いろんなことをしましたね。「こんなことになって面白いもんだね」って言っています(笑)。

――そうだったんですね。それで、話を戻しますと、そのお仲間から創元SF短編賞のことを教えてもらって応募して、佳作に入選してという。

 1冊の本にして出せるのは正賞を取った方だけなんですが、その他の最終選考に起こった作品のなかで面白いものをまとめてアンソロジーとして1冊にしましょう、みたいな話になって、そこに入れてもらったんです。そこから自分の短篇集を出すまでに5年くらいかかりました。東京創元社さんって、SFのレーベルはあるけれど、SFの雑誌はないんですよ。なのでWebミステリーズ!とかいろんな媒体でちょいちょいと書かせてもらったものを集めて5年くらいかけて『うどん キツネつきの』という1冊になりました。
 その次の年くらいに「太陽の側の島」という短篇で北九州市が主催している林芙美子文学賞をいただいて、ちょっとずつ「もうちょっと長いものを」という感じで書かせてもらえるチャンスをいただけて。SFの短篇は書いても駄目だったりしたんですけれど、「小説トリッパー」にはじめて100枚以上のもの、『オブジェクタム』を書いた時に、書評などに取り上げてくださる方がすごく多くて、それがありがたくて。そこからちょっとずつ首が繋がり続けたみたいな感覚です。その頃は仕事をしながら書いていたので、出すのものんびりだったんですけれど、100枚以上のものを書きはじめてから、なんかいろんなことがパタパタッといろんなことが起こっていった感じです。

――そして『首里の馬』で芥川賞を受賞されて。ただ、ご自身ではSFとか純文学といったジャンルは意識されずに書いていたわけですよね。

 そうですね。たまたまSFの方が「面白い」と言ってくださって、それをたまたま文芸誌の方が読んで「面白い」と思ってくださった、みたいなところがあって。自分としては、書いているものが70枚だろうが250枚だろうが、自分のなかの考え方や組み立て方みたいなものは変わっていないつもりでいます。

――さきほどスケッチブックの話をしましたが、そうやって最初に紙の上にいろいろな断片を書いたり貼ったりして整理して話を組み立てていくのはいつも同じなんですか。

 10枚20枚の短篇や掌編、コラム的な小説の時は、ああいうのは作らずにワンアイデアで一気に書いちゃいます。30枚でも作らないかな。50枚に近くなると舞台設定とか、時間の経過とか、「一方その頃こちらでは」みたいな部分とかの整理のために作ります。単純に、能力的に整理しないととっちらかってしまうというだけの話で、頭の中で整理できる人は必要ないと思いますが。

――トレーシングペーパーを使って重ね貼りしたりして、立体的に作っているのが面白いなと思ったんです。

 小説を書くようになってから、面白いなと思ったことが結構ありました。絵って、下地ですごく間違えたものがあると、上に描いたものも全部消さないといけないけれど、小説って最初に埋めてなかったものを途中で埋め込むこととかもできるんだな、とか。最後まで書いた後に途中でここだけパカッとなくすこともできるし、パカッと違うものに替えることもできるし。そういう、文章の自由度感じることってすごくあります。

最近の読書、受賞作、今後

――本を出した後、編集者や他の作家さんとの交流も生まれていろいろ本の情報も入ってくるようになったと思いますが、読書生活に変化があったりしますか。

 やっぱり作家さんの知り合いが増えると、単純にその作家さんの本を読むようになりますね。で、その人が影響を受けた作品を聞くと読みたくなって読んだりします。映画館に映画を観に行ったら予告編が流されるので観たい映画がどんどん増えるのと同じで、読みたい作品がどんどん枝分かれして増えていきます。
 それこそ創元SF短編賞デビュー組の酉島伝法さんとか宮内悠介さんは私とはまったく違うものを書いていて、私はすごくリスペクトしていて。全然ライバルとは違っていて、私は彼らみたいなものは絶対に書けないし、でも彼らに書けないものを私は書けるんじゃないかと思うことがあって。全然違うものを書いているからこそ、全然違うルートから「ここすごかったよね」みたいなことを言いあえるのが楽しいです。

――国内外問わず、ここ最近で面白かった本を教えてください。

 最近面白かったのは津村記久子さんの『サキの忘れ物』。短篇集なんですが、「〇ページに進む」みたいなゲームブックが入っていて。ちょっと前だと、テッド・チャンの『息吹』や劉慈欣の『三体』もよかったです。あとはラーラ・プレスコットの『あの本は読まれているか』。これは「チャーリーズ・エンジェル」じゃないけれど、スーパー優秀な女性がたくさん出てくるので、この時代にこんな優秀な女性がたくさんいたんだ、みたいな気持ちに(笑)。
 これまで知らないまま通り過ぎたいい本を知る機会がいっぱいあるのは嬉しいです。

――今はお仕事を辞めて専業になられたのですか。

 そうなんです。ご依頼いただいたものをちゃんとした時期に出すことが、仕事をしながらだと無理だと最近気づいて。まあ、仕事はやろうと思えばまたやれるから、ここ数年だけでも仕事を休んで、「書いてもいいよ」と言われる間は書こうという気持ちになっています。

――では、最近の一日のタイムテーブルといいますと。

 本来やりたいなと思っているのは、朝ちょっと犬の散歩をして、午前中に集中して本を読んで、あとは映画を観ながら小説を...だからいけないんだよって言われそうですけれど、小説をしながら何かをするとはかどるので、映画とかドラマをつけながら書くことが多いんですよ。すごく集中しなきゃいけないゲラを見る時とか、ちゃんとした文章に起こす時は別ですけれど、ネタ帳を並べるとか、ちょっとした短篇を書く時は映像を流していることが多いですね。映画とかドラマとか野球とか。音楽をかけている時や、ラジオを聴いている時もあります。喫茶店とかで雑音があったほうが書けるというのと同じで、わさわさしているほうがいいんですよね。

――さて、高山さんの作品を読んでいると、場所というものが重要なんだと感じます。沖縄が舞台の『首里の馬』は、野球の沖縄キャンプを見に行ったことがきっかけのひとつだとはやは有名な話ですが、台湾の旅の本(池澤春奈さんとの共著『おかえり台湾 食べて、見て、知って、感じる』)も出されていますし、旅はお好きなんですか。

 旅は小さい頃から好きでした。自分でちゃんと旅ができるようになったのは20歳前後からですけれど。海外に行ったり、国内でもちょっと遠いところに行ったりするのはすごく好きですね。別に誰かとわいわい行くのではなくて、2人とか1人で行ってうろうろします。でもこのご時世、あんまり移動できないですよね。大学生の時や働いていて時間がなかった時もそうなんですけれど、そういう困難がある時期って、旅でなくても、本でもいいし、映画でもいいし、どこかに連れていってもらいたい気持ちがすごくあります。「ここではないどこかに連れていってもらいたい」じゃないですけれど、そういう救いを求めて本を開いたり、映画を観たり、美術館に行ったりしているところがあります。小説を書いている時、その恩返しみたいな気持ちがあって、読む人にも今立っているところではない、別の場所にちょっと行ってもらいたい、みたいな気持ちがあります。

――それと、その場所や人のなかの時間の蓄積というものも作品から感じます。『首里の馬』でも、主人公の未名子は沖縄の古びた郷土館でものすごい量の資料の整理を手伝っている。

 どこかに行ってその場所を場所だと思って確認する時に、そこで起きた事象、たとえば戦争だったり、飢饉とか不作とか、台風の被害だといった、その土地に沁み込んでいる記憶みたいなものって分かちがたくそこにあるんですよね。そうするともう、その場所を書く時には、絶対それはあるんです。
 『首里の馬』の資料館は、郷土史家や地元の人たちの証言とか、そういったものが集まってできている場所こういうのは世界中どこでもあるんですよね。いろんなところに「なんとか研究室」「なんとか資料館」みたいな、「あそこはなんだ」ってちょっと怪しまれるような場所がある。そういうものに対してちょっとした敬意みたいな気持ちがあるんです。
 歴史っていろんなものがあるし、途切れ途切れであってもそこを貫いてぽこっとて出てくる不思議なものもあって。それを隠すのかみんなに知ってもらうのかといった倫理とは別の問題で、どんな曖昧なものでも書き残りたり記録したりすることを信じている人がたぶんいるんじゃないかと思うんです。「集める」ということ自体が倫理になっている感覚の人がいて、それに対してあこがれがあるというか、今後こうありたいなと言う気持ちがあるかもしれません。自分がそういうところを通ってきていなかった、というのもあって。

――未名子の仕事は、オンラインで遠い場所にいる人にクイズを出す仕事だというのもユニークでしたね。

 クイズって奇妙な娯楽だなあという気持ちがあったんです。日本のテレビやラジオの初期からクイズのような娯楽はいっぱいありましたが、クイズって研究とは違って、もう分かっていることをみんなで確認しあうものですよね。それこそ手元のスマホですぐ調べられる時代になった今でも、みんなクイズを楽しんでいる。それがすごく奇妙なんだけれど、すごく希望というか、明るさを感じるんです。人がそんなことで楽しんでいるなんていいことに決まってるじゃん、みたいな。いい奇妙さみたいなものを感じていて、それをなんらかの形で物語にできないかなというのは考えていました。
 ただ、『首里の馬』は書き上げたのが去年の年末で、本になったのが今年の1月の末くらいだったんです。なので、こんな世の中になるとは思っていなかったというか。Zoomとかも知らなかったですし。

――今この取材もzoomで行っているわけですが、私も去年まではまったく使ったことがなかったです。

 本を出した後で、「あ、こんなことになっちゃった」という気持ちになったところはありましたね。

――9月下旬には新刊の長篇『暗闇にレンズ』が刊行になりますね。説明に「時代に翻弄されつつもレンズをのぞき続けた一族の物語」とあって、これがもうすごく面白そうで。

 大きく出ましたよね(笑)。ありがたいことにかなり好きなものを書かせたいただものなんです。映画とか映像とかの話です。映画ができてから120年くらい経ちますが、これは明治時代から、女性たちの年代記みたいな話になっています。もちろんほら話なんですけれど...。
 私、『首里の馬』も「どういう話なんですか」と訊かれて「馬を盗むんです」としか言えなくて、ちゃんとあらすじが説明できなくてすみません(笑)。