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映画「朝が来る」井浦新さんインタビュー 特別養子縁組を決意した夫を、生々しく「生きていく」

文:田中春香、写真:篠塚ようこ

原作を通して「履歴書」を構成する

――オファーを受けるにあたり、原作小説『朝が来る』は読みましたか?

 台本が先か原作が先かはその時々で違いますが、原作がある作品の時はいつも読むようにはしています。若い頃は「映画版」としてやるからこそ、監督と脚本家が映画作品として作った世界観をどこまで深掘りしていけるかを意識するために原作には手をつけず、いただいた台本を読み込んでいました。小説などが原作の場合は、台本よりも事細かな描写が描かれていますから、そこにひっぱられてしまうかもしれないという怖さもどこかであったんです。

 でも今は逆に、原作を通して自分の役がどんな人生を歩んできたのかなどを知って、履歴書を構成していくようなやり方をとっています。その上で、映画ではそのたくさんの情報の何を「出さずに省くか」といった形で役を作っていくことが多いです。

――小説『朝が来る』を読んだ直後の感想はいかがでしたか?

 今回は河瀨直美監督からお話をいただいた段階で小説を読んだんですけど、純粋な「読書」とは全く違う状態なんです。今、手にとっているこの本の中にあること全てが「これから自分が経験していくこと」になっていく……その構えで読む。そうすると、考え込んでしまって、なかなかページが進みませんでした。

 もともと読書は好きで、読みながら好き勝手にいろんなイメージを膨らませながら楽しんでいるんですけど、これから映画をやるという立ち位置で作品を読むとどうしても立ち止まってしまいます。「この世界にこれから自分が立ち向かっていくんだ」と予告されているような感じですね。

クランクイン前に、栃木で餃子デート

――河瀨監督の作品では、登場人物が経験したことをリアルな状況で体験し自分のものにしていく「役積み」と呼ばれる時間をとても大事にしているとうかがいました。井浦さんは作品のためにどんな「役積み」をしましたか?

 クランクインする2カ月前から永作さんと一緒に動き出していました。2人が結婚する前の時期を体験するために、監督と3人で栃木へ行って、餃子を食べて帰ってくるデートからはじまって、不妊治療の病院にも一緒に通ったり。

 映画の中で「昔、こんなことをしたよね」という会話が出てくるんですけど、その「こんなこと」の部分は嘘なく本当に体験したことなんです。朝斗役のオーディションにも2人で参加して、子役の方たちと一緒に軽いセッションもしましたし、特別養子縁組をしたご家族の方と対話する機会もいただきました。そこまでやらせてもらってはじめて、河瀨組のカメラの前に立てる。逆にそこまでしないと、河瀨監督の作る世界では立っていられないんです。

©2020「朝が来る」Film Partners

――他にも河瀨監督は、台本のシーン順に撮影していく「順撮り」にもこだわっているそうですね。

 たとえばマンションのシーンが前半と後半に2回出てくるとして、一気に全部撮った方が効率はいいんです。でも、シーン順に撮影していくので分けて別日に撮影しました。

 「役積み」と「順撮り」の環境を作ってくださったから、清和の人物像や心の動きを、力技や、言ってみれば「芝居で」じゃなく表現できました。経験を重ねていったからこういう心になる、表情になる、そういうセリフが生まれてくる……と、自然にそうなっていったかのように形にしていけたんです。

――では、「こう演じよう」とはあまり考えなかったということでしょうか?

 役のイメージはします。でも、固めることは一切しなかったです。目の前で起きていることをちゃんとキャッチできる感覚を持ち続けることが河瀨組では大事なんだと思います。「覚えてきた芝居を、出す」だけだったら河瀨監督からはOKをもらえないんです。もちろん与えられたセリフはあります。でも、そのセリフを「芝居してない風に芝居する」だともうそれは「芝居」なんです。

©2020「朝が来る」Film Partners

 半径数メートルの河瀨組の空間で、生々しく「生きていく」。台本通りにセリフを言うことが正しいんじゃなくて、役者それぞれの「気づき」に対して、お互いが日常の出来事のように反応しあっていく中に、セリフが放り込まれていく感じ。そうやって一つひとつのシーンを作っていきます。セリフになくても清和がその瞬間に何かを感じて言葉を発することを、河瀨監督は望んでいたのではないかと僕は感じました。台本通りにセリフを言っても「芝居としてはOK。でも、そうじゃないよね」って言われたりもしましたから。

自分の望みが努力で叶えられないとき

――この作品は生みの母と育ての母の「2人の女性」の物語ですが、その中で、「父親」「男性」としてどういう存在でいようと思って演じましたか?

 栗原家の主人としてどういられるか、撮っていきながら作っていったという感じです。仕事をしているシーンを撮り、夫婦のシーンを撮り、と進めていきながら不妊治療を佐都子さんがはじめて、その頃は「いつかできるよ」なんて少し呑気な部分もあったりして、そこから一転、自分が「無精子症です」と告げられる……。

 清和ってきっと、それなりに努力をして、良い大学に入り希望の就職先に勤めやりがいのある仕事をしていって、順調に生きてきた人だと思うんですよ。そんな人が無精子症だと宣告を受け、はじめて自分の望みが努力で叶えられない瞬間に直面するんです。

 そんな、清和の中にある大きな心の揺れは作品では細かく描かれることはないけれど、「朝斗と母である佐都子」の物語においても、清和がちゃんと立体的な人物として存在していないと、妻として、母としての佐都子さんの人物像が浮き立たないので、どんな風に家族に向き合い、寄り添うかというのはすごく難関ではありました。

 「役積み」「順撮り」そして、ずっとそばにいてくれる永作博美さん演じる佐都子さんとの間合いに本当に助けられていました。佐都子さんがどのような母で、どのような妻であるかというのを明確にさせるための大事な要素としていられたらいいな、という思いの一点で清和を演じていました。

 清和自身も、佐都子さんの、妻としての、母としてのたくましく優しい母性というものに支えられて包まれながら生きている人間だと僕は思ったんです。でも、原作や脚本を最初に読んだ時にはそこはあまり感じなかったので、これは本当に永作さんの力というか、2人で一緒に役を積んでいきながら僕自身もそうだし、清和という役としてもそうだし、永作さん、そして佐都子さんに精神的に身を委ねられる存在になっていたんですよね。

――原作ではもう少し、清和はパワフルで強いキャラクターを思わせる部分もありますよね。

 そうですね。原作ではもう少し清和がひっぱっている部分もあったんです。それがだんだんと演じながら変わっていったというのが、2人の関係性とか、それぞれの持っているものとかが、一緒に過ごすことによって仕上がっていったんだなと。そういう意味では原作の清和とは受ける印象が少し違うかもしれません。永作さんとだからできた清和像だと思うんです。自分ひとりであの役が作られたわけではないです。

 一方で永作さんもほどよく僕に委ねてくれる部分もあって、そういう時はぐいぐいと清和のペースで進める時もあったりもしました。佐都子が、ただただ強い女性に見えてはならないと思いましたし、そのバランスを2人で無意識のうちに作っていきました。

 とはいえ、撮影中は原作のことは頭から抜けてしまっているので、完成した作品を観た時に「あぁ清和、こういう仕上がりなんだなぁ」と客観的に感じました。佐都子さんの苦悩や優しさというものが、清和といることで見えていたら清和の存在意義があるのかなと思います。

――どう演じるかではなく「どう生きたか」を意識していたということですが、完成した作品を観て、井浦さんは物語の中で「どう生きた」と思いましたか?

 撮影をしている間はたしかに清和として生きていた実感があるんですけど、じゃあ振り返ってみて「清和ってどんな人だった?」と聞かれるとなかなか説明が難しいですよね。観ていただいた方にはどう映っているのか、どう感じ取ってもらえるのか、楽しみです。