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スパイス一粒 澤田瞳子

 先日半年ぶりに、東に向かう新幹線に乗った。以前は一、二か月に一度は東京に出かけていたのが、我ながら嘘(うそ)のようだ。ただ、隣に人の来ない車中より、「座席を回転させないでください」というアナウンスより印象的だったのは、京都駅新幹線コンコースの有様(ありさま)だった。

 人が皆無というわけではなく、ビジネス客・観光客はちらほら行き交っている。スクランブル交差点かと疑うほどのかつての雑踏がむしろ異常だったわけで、適度な混雑と言えるだろう。そして顧みればその混み具合は、私が十代半ばまでの駅とよく似ていた。

 ただ一点、大きく違うのは、かつては新幹線コンコースの中央に、エキナカとしては比較的大きな書店があった。現在も書籍を並べている土産物屋があるにはあるが、それとはまったく広さが異なる。街中の書店にもひけを取らぬ品ぞろえで、子供だったわたしは車中で読む本をそこで買ってもらうのが楽しみだった。

 今から旅に出るのだから、あまり分厚い本は荷物になる。さりとてあまり読み応えのない本を選んでは、早々に読み終え、出先で退屈するかもしれない。そんな葛藤とともに棚を見るのは、普段の本探しとは異なるスリルがあった。以前から興味を持っていたが何となく敬遠していた本、少し難しいかなと思いつつも「えいやっ」と手に取った本など、あの書店で選んだ本はいずれも特別な思い出を伴っている。

 スマホが普及した今、出先で退屈を覚える人は、ずいぶん減っただろう。私自身、どうにも暇を持て余した時は、その場で電子書籍を買う。ただ、早々に読み終えてしまったミステリーを渋々すぐさま再読する気だるさ、「しまった。これは難解だ」と思いつつも、とにかく手許(てもと)にある本を読み続ける我慢は、旅行鞄(かばん)に入れた一冊でしか味わえない。そう思うと便利さと引き換えに失ったさして嬉(うれ)しくもない出来事が、ピリッと辛いけれどだからこそ味わい深いスパイスのように、懐かしく感じられる。=朝日新聞2020年11月25日掲載