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幸福な肉 浅田次郎

 三十になるまで肉が嫌いだった。

 ハムやベーコンのような加工品は食べたが、肉の塊はてんで受け付けなかった。子供を偏食にさせてはならじと、むりやり食べ始めたのである。今ではステーキもトンカツも好物と言っていいが、三十歳のデビューでは追いつかず、いまだ鶏と羊は食えない。むろん、タン、モツ、ジビエ等のワイルドな肉類はまったくダメである。

 国民の食生活がかくも肉だらけになった今日、フライドチキンもジンギスカンも嫌いだなどと言えば、異常な偏食家と思われるであろうが、ご同輩の中にはあんがい肯(うなず)かれる向きも多いのではあるまいか。

 一九五一年生まれ。というより、昭和二十六年生まれ。私が子供の時分は、そもそも肉を食べる習慣がなかったのである。いや、それは少々大げさかもしれぬが、肉料理が夕食の膳に上るなど、週に一度のことであったと思う。

 小学校の給食では、とんと記憶にないほどであるから、せいぜい挽肉(ひきにく)を使った献立があったくらいのものなのだろう。要するに、肉そのものが高価だったのである。

 私を愛してくれた祖母は、肉類の一切を口にしなかった。明治三十年生まれの女性ならばふしぎはない。すると私の肉嫌いも、一家のゴッド・マザーであった祖母の影響があったと思える。絵に描いたような江戸っ子で、しかも粋筋の出であった彼女は、肉料理を見るなり顔をしかめて、やれ臭いの、気味が悪いのと言った。愛する孫が肉嫌いになるのも当たり前である。

 やがて時代は、一九六四年の東京オリンピックをめざしてせり上がって行く。何もかもがめまぐるしく変わった。肉食が次第に一般化されたのも、そのころであったと思う。しかし、友人たちがこぞって肉に走ったにもかかわらず、私は取り残された。亡き祖母の呪縛か、あるいは祖母ゆずりの固陋(ころう)さゆえか、肉は臭くて気味の悪いものと決めつけていたのだった。

 かくして肉の味を知らぬまま歳月は流れ、涙ぐましいことには乳離れした子供への教育的配慮から、三十になってようやく肉を食い始めた。そして意外なことに、たちまち虜(とりこ)になった。その経緯と結果は、すこぶる個人的な明治維新体験と言えよう。

 おそらく私は、人類史上最も幸福な時代と場所に生まれ合わせた。成長とともに豊かな文明を供与されたという意味では後にも先にもなく、肉食もまたその一諸相であろう。このたびの災厄では、しみじみそう思った。

 腹がへった。これから肉を焼く。=朝日新聞2021年1月9日掲載