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耳の聞こえない両親、宗教にハマる祖母、元ヤクザの祖父――五十嵐大さんがつづった「しくじり家族」

文:加賀直樹、写真:五十嵐大さん提供(プロフィール写真の撮影は川島彩水)

家族に悩んでいる人に届くように

――まずは、刊行おめでとうございます。五十嵐さんにとって初めての単行本ですね。

 ありがとうございます。普段、雑誌やwebで記事を書き、それもカタチに残るとは思うんですが、自分の名前で1冊出すことは、ちょっと大げさですけど「生きている証を残す」みたいな気がしています。「死ぬまでに1冊出せたらいいな」と思っていました。

――そもそも今回、ご家族のことについて書こうと思ったきっかけは。

 ライターになってからずっと、自分や家族のことを書くのは避けていたんです。でも、webメディアの「ハフポスト」で「CODA」(=Children of Deaf Adults、耳の聴こえない親を持つ聴者)、ろう文化、聴覚障害者にまつわる連載をすることになり、初めて自分の体験を綴りました。特に母親とのことを書いた時、驚くほど反響が届きました。当初は「名もなきライターの体験談を書いたところで、読んでくださる人がいるんだろうか……」と思っていたのですが、「共感した」「励まされました」というメッセージを多々、頂きました。そこでもしかしたら、家族のことについて記すことに意味を見出せるかも知れないと思いを改めたんです。

 これは田舎によくあることだと思うけれど、ぼくの住んでいた街では、隣近所の家庭環境が筒抜けになっていた。噂はあっという間に知れ渡っていく。
 必然的に、ぼくの家族が抱えている問題も、知らない家族の話のネタにされてしまうのだ。
 両親が障害者で、祖母は宗教にハマっていて、祖父は元ヤクザ。
 どれひとつとっても、センセーショナルなドラマや映画の設定に使えそうだ。それがフルで揃っている家庭は、さぞかし面白いものだっただろう。
 そんな家庭で育ったぼくに向けられるのは、いつだって「可哀想な子ども」というまなざしだった。
(『しくじり家族』より)

――好奇の目にさらされることへの忌避があったのですね。

 今まで、家族のことって、見て見ぬふりをしてきた部分がすごくあったんです。本当につらい思い出しかなかった。でも、書くことで、整理ができるかも、というのは大きかったです。本を書く時に編集さんと話したのが、ちょっと重いテーマだけど、なるべく軽やかな装丁にして、タイトルもライトな感じにしたいね、と。タイトルの「しくじり」というワードには、ちょっと「トホホ感」があるじゃないですか。重いテーマだけど、なんとなく気軽に読めそう。そういう思いを込めてつけました。特に10代、20代の、普段そんなに本を読まない人たちに読んでもらいたい。そういう子たちが、まさに家族のことで悩んで、出口が見えない状況にいたりする。彼ら・彼女らに届くように決めました。

――書く過程において、ご自身にとっては嫌な過去、苦い経験を、引き出しからもう一度総ざらいして出す作業だったと推察します。執筆中の葛藤や、メンタル面での浮き沈みはありましたか。

 僕、基本的に原稿は夜に書くようにしているんですね。静かだから集中できるというのもあるんですけど。夜に書いていると、原稿の内容によっては(気持ちが)引っ張られてしまうんですよ。情緒があんまり安定していないのかも知れないんですけど。普段のインタビュー記事を書く時でも、相手の発言に引きずられて、落ちたりすることが多くって。今回は、それにも増して自分の話です。過去のカサブタを剥がすようなストーリーを書かなければいけなかった。書きながら、やっぱり泣いてしまったり、途中で書けなくなってしまったりして、「締め切りを延ばしてください」という相談をした時もありました。

母と写真に写るのが嫌だった

――私が読んでいて、つらかったのは、おじいさまの危篤の場面。耳が聴こえないために事態が把握できないお母さまに、東京から駆け戻った五十嵐さんが手話で伝えるシーンです。情報が得られず、聴者とは時差が生じてしまう。お母さまを綴る描写に、私、心を抉られてしまって……。

 やっぱり、母親との関係が、ずっと碇みたいに心の奥底に引っかかっている。自分が過去にしてきたこと、母に対してぶつけた、取り返しのつかない罵詈雑言を、今でも思い出すんですよ。この間、母に謝ったんです。「今まで本当に申し訳ないことをしてきた」って。母は「全然気にすることない」。僕が障害者の子として生まれ、つらい経験をしてきたというのは「私もわかっていた」と。「私のほうこそごめんね」って。でも、いまだに思い出すんですよね、母に言った言葉。東京で、独りでいる時に思い出して、苦しくなって、泣いてしまうことがいまだにある。この本を書いていて、母親が出てくるシーンは結構苦しかったんです。

――でも、きちんと思いを直接伝えて、謝ることができただけ、幸せだとも言えるのでは。

 そうですね。それができたのは、本を書いて、自分の過去を見つめ直すことができたからだと思います。自分が過去に何をしてきたか、何がいけなかったのか、整理ができた。つらいことでしたが、「罪滅ぼししなければ」と思い直し、次に何をすべきかが明確になってきたんです。

 ハフポストの記事で家族写真を掲載するため、実家からアルバムを送ってもらったんですけど、僕が中学生になる直前で、もう写真がないんですよ。思春期になって、耳の聴こえないお母さんと外を歩くことを嫌がり、学校行事に呼ぶのも嫌がって、「一緒に写真に写りたくない」と言ったんですよ。忘れていたんですけど、送られてきたアルバムを見た時に思い出しました。本当にひどいことをしたと思ったんです。子どもの成長を残す、一緒に写ることは、親にとっても大切なことなのに。自分の身勝手さで奪ってしまった。だからいまは、両親との思い出をあらためて作り直しているところです。

――既に亡くなったおじいさま、おばあさまについて。特におじいさまに対しては「心を通わせることはできなかった」と書いていますが、少し俯瞰して書き記すことで、私には五十嵐さんがおじいさまを赦(ゆる)そうとしているように感じました。書きながら、心境が変化していったのでは。

 おじいちゃんとおばあちゃんに対しては、本当に疎ましく思っていたんです。いまだに整理できていない部分も残っている。でも「できることはあっただろうな」と。祖父の喪主をやらされた時は、わけのわからない状態でした。あらためて感情を整理しながら書く過程で、「大嫌いだったはずのおじいちゃんが亡くなって、最後に泣いてしまったのは、何だったんだろうな」って考え続けながら、分解しながら書いていったんです。

 僕はきっと後悔をしたのだと思います。どうして生きているうちに向き合わなかったのだろう。腹を割って話せば、距離が縮まり、わかり合えたかも知れない。「やってみないとわからない」ことを、やらなかった。後悔しました。申し訳ない気持ちになりました。

――おばあさまが新興宗教に傾いていかれたのは、娘が障害を抱え生まれてきたから、でもある。

 祖母は他の宗教のことを受け入れず、邪悪な宗教だと言っていて、学校のなかに他宗教の子がいると、「あそこの家の子とは遊んじゃダメ」って言うんですよね。宗教は皆が幸せになるため、世界平和のためにあるって言っているのに、他宗教の子を排除するというのは矛盾している。強い疑問を抱いて、祖母から離れていったんです。

震災をきっかけに関係が変化

――高校卒業して地元の仙台から上京し、東日本大震災の時でさえも「僕だけの人生を突き進もうとしていた」五十嵐さんが、お父さまが倒れたことを契機に、意外な展開に。心境の変化があったのでしょうか。

 あの震災があった時、罪悪感でいっぱいだったんです。自分が傍にいたら、たとえば避難警報が聴けて、ラジオが聴けて、近所の人と情報交換ができる。でも、あの時、僕は東京で働いていて、一番守ってあげなきゃいけない人たちの傍にいられなかった。自分を責めました。

――ご実家では皆さんご無事だったのでしょうか。

 本書には書かなかったですけど、震災の約2カ月後、東北新幹線が復旧したんですね。急いで帰ると、実家は幸い、特に大きく壊れていることもなく、家族も皆元気でした。伯母たちからは「帰ってこい、帰ってこい」とうるさく言われました。「とにかくこっちで就職しろ。フリーライターだかフリーターだかわからないけど、仕事をしろ」って。だけど両親はすごく応援してくれた。「夢があるんだったら、東京で頑張りなさい」って。私たちの心配は無用って言うんですよね。

――「物書き」への道を進め、と。

 応援してくれたんです。僕も勿論、両親のことは心配でした。でも「物書き」の世界に片足を突っ込みながら全然、何も成し遂げていない。「そんな状態で田舎に帰って何をやるんだ?」って。地元では自分の人生を生きられない、身勝手にもそう思ってしまった。

 ただ、10年経って、両親との関係も変わってきました。今はコロナだから難しいんですけど、コロナ前は月1回、仙台に帰って1、2週間滞在していました。取材を東京でまとめて終わらせ、実家で原稿を書く。2拠点生活でした。それがフリーライターの醍醐味だな、と。将来的には、両親を東京に呼ぼうと思っているんです。ただ、父が今も働いているんですよ。身体が動く限り、続けたいそうです。「それを奪うのもちょっとな」と。両親が元気なうちにお金を貯めておいて、ゆくゆくは小さなマンションを買ってあげるのを目標にしています。

――それは素晴らしいですね。ところで五十嵐さん、高校卒業後、ライターになるまでは?

 2年間、ニートをしていました。僕は役者になりたかったんです。高校卒業して、小さな事務所に受かって、レッスン生として定期的に東京でレッスンを受けていました。たまにオーディションが入るんですが、いつ入るかわからない。だから、シフト制のアルバイトをなかなか入れづらいんですよ。ニートというか、「パチプロ崩れ」みたいな生活をしていたんです。

――役者を夢見ておられたことは、他の記事で読んだことがありましたが、パチプロだったとは。

 でも、(役者の事務所は)とてもお金が掛かったんですね。2年経って、「3年目はないな」と思って諦めたんです。その後は仙台にある飲食店でバイトしていました。レストランのホールでウエイター。何も考えずにフリーター生活をしていた時、実家の周りにいる近所の人たちが、「大ちゃんこのままだと駄目よ」って。「あなたは障害のある親御さんを守っていかなければいけない」「将来をちゃんと考えて立派になりなさい」と言われるんです。

――子どもの頃からずっと言われ続けたのですよね。

 子どもの頃からそういう形容詞がつけられた。「障害者の子だから頑張らなきゃダメ」とさんざん言われてきたのに、20歳を越えてもまだ言われるんだ、って。それで嫌気がさして、「もう、田舎を捨てて、東京に行って、自分の境遇を誰も知らないところで再出発、一からやり直そう」と思って出てきたのがきっかけです。

「あなたは独りじゃない」と伝えたい

――それから印刷会社、編集プロダクションに勤務し、フリーランスとして独立。ライターという仕事にご自身の進む道が収斂されていったのは、どういうきっかけがあったのですか。

 「表現する人」になりたい、とは漠然と思い続けてきたんですね。役者志望もそれでした。さらに言うと、「障害者の子どもだからダメ」とか「ろくなものにならない」と露骨な差別をする人が近所にいて、そういう人たちを見返してやりたいという気持ちが大きかったんです。役者への夢は、現実を突きつけられて辞めた。東京に来てから4、5年は、インテリアショップで家具を売っていたんです。ただ僕、接客業が致命的に嫌いなんですよ。

――ダメじゃないですか!

 向いていないんですけど、当時の僕には選択肢があまりなかった。でも、そろそろ、自分の将来をしっかり考えてやっていかないといけないな、って思った時に、「文章を書く仕事ってどうかな」って。

――何かきっかけがあったのですか。

 小さい頃、僕、お母さんと手紙の交換をしていたんです。ひらがなを覚えた時に「きょうのばんごはんは、なんですか」って書いて、郵便受けに入れておく。すると、お母さんが返事を入れてくれるんです。我が家は、祖父母が手話を好んでいなくて、「手話を覚えなくて良い」って教育方針だった。だから、僕は両親の手話を見て習得した部分もあるんですけど、両親も、祖父母の手前、「しっかり教えよう」というスタンスじゃなかったんですね。だから、手話も僕は中途半端。両親は口話教育を受けてはいたものの、限界があって、口話が中途半端。そうなると、僕らの間に共通言語がなかったんですよ。

――そうすると、書いた言葉だけがコミュニケーションツールになる。

 筆記で、しかも簡単な日本語なら母も理解できる。僕も書ける。それで手紙の交換をやっていたんです。「文章で人と繋がるって素敵なことだなあ」って、おぼろげに思ったんですよね。それがあって、文章を書くことで異文化の人や違う考えを持つ人を繋ぐことができたら、すごく良い仕事だし、自分がたとえば有名雑誌に書けるようになったら、母は読めるからわかるわけですよね。テレビに出て、僕が何か言ったり、歌を歌ったりしても、母には届かないわけですよ。それで、20代半ばでこの業界に飛び込んだんです。

――きっかけにも、お母さまが関わっているのですね。

 いつだって母親のことを意識して生きてきたんだと思います。

――五十嵐さんの記事は、一貫して、生きにくさを抱える人、少数派の人たちに温かな視線が送られている。文章、取材対象の選び方から感じます。私は同業ライターとして尊敬し、いつも意識してきました。そうしたテーマを追い続ける理由とは。

 うーん、やっぱり、僕自身が「CODA」で生きづらかったというのがあるんです。小さい頃、今じゃ考えられないですけど、障害者とその家族に対する差別って本当にいっぱいあった。あの頃、「CODA」や、生きづらい人に向けた情報がもっと身近だったら、どれだけ生きやすかったか、と思うんです。子どもの頃、「耳が聴こえない親に育てられている子ども」って、世界じゅうに僕独りだと思っていたんです。誰にもわかってもらえないし、相談もできないし。苦しかったんですよ。

 今はネットがあり、媒体もたくさんあって、生きづらい人も情報を自分から取りに行くことができる。何より、「あなたは独りじゃないですよ」ということが伝わるじゃないですか。CODAや聴覚障害者以外の社会的マイノリティ、たとえばセクシュアリティ、貧困、疾病、いろんな人たちの取材を続けているのも、それが影響していると思います。「独りぼっちで悩む人を減らしたい」と思っています。