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少女マンガ、昔は「恋愛タブー」だった 1950~60年代、ジャンル確立期振り返るオンライン展覧会

「少女クラブ」1961年1月号に掲載された東浦美津夫「夕月の山びこ」(原作:緑川圭子)=いずれも明治大学米沢嘉博記念図書館提供

 新型コロナウイルス感染症の拡大により、多くの美術館や博物館が長期休館したり、入場が制限されたりしている。一方、場所と人数の制約がないオンライン展覧会のような新しい試みも見られる。

 その一つが、明治大学米沢嘉博記念図書館(東京都)で開催されている「少女マンガはどこからきたの?web展~ジャンルの成立期に関する証言より~」だ。

 本展の企画は1999年から2000年にかけて断続的に開かれた「少女マンガを語る会」の座談会にさかのぼる。この会は、あまり記録の残っていない少女マンガのルーツをたどるべく、発起人となったマンガ家・水野英子や上田トシコ、わたなべまさこなど12人の作家が参加した。

 少女マンガがジャンルとして確立された1950~60年代に現役で働いていたマンガ家たちの証言がうかがえる貴重な機会だった。この会で語られたことが、20年の歳月を経て展覧会で実現した。

 展示は七つの要素で構成し、様々な視点から少女マンガというジャンルが形成された背景や過程に注目する。例えば、メディアの観点からは少女マンガ誌の誕生に影響を与えた戦前・戦後の少女雑誌について説明している。比較的取り上げられることの少ない少女向けの赤本や貸本少女マンガ誌も紹介する。

日本で初めての少女週刊誌の「週刊少女フレンド」

 男子にも負けないおてんば娘も初潮も、当時の少女マンガではタブーだった。そんなタブーをテーマにしたコーナーでは、マンガ家の証言が興味深い。少女マンガの重要なテーマの「恋愛」が排除されていた時代もあり、恋愛を描いたマンガ家・今村洋子には多くの人から内容をののしる投書が届いたという。

 視覚表現の面でも「禁止事項」は存在していた。花村えい子は貸本マンガから雑誌に活動の舞台を移した時、貸本マンガでは一般的だった上唇や下まつ毛を描いたら、雑誌の編集者から「こういう顔を描いている人はいない」と消すように指示された話を残している。

戦前に創刊され、戦時中も発行を続けた「少女クラブ」

 本展では約170点の資料を展示しているが、大半が雑誌や単行本で、原画関連資料はない。当時は雑誌連載後には作者に返却されず捨てられることもあった。編集部やマンガ家による原画プレゼント企画もあり、美術館にマンガ原画が飾られる現代では考えられないことだ。

 ただ、単行本化されることが少なかった昔の状況を考えると、当時の作品を深く知るためには原画より本や雑誌が向いているかもしれない。というのも、マンガの原画展の感動は、「マンガ家の手により描かれた原画と同じ空間にいること」にもあるからだ。データ化された原画のイメージが並ぶオンラインマンガ原画展で同じ感動が伝えられるかどうかはまだ検証できておらず、今後考察が必要だろう。

 50~60年代は少女マンガジャンルの基礎が作られた重要な時代と評価されているにもかかわらず、これまではそれほど注目されていなかった。歴史、SF、同性愛など、幅広いテーマと文学性で常にスポットライトを浴びた70~80年代の少女マンガとは対照的だ。

 このような状況の中で、本展は少女マンガの全体像を語る上で欠けていたパズルのピースを埋める役割を果たしている。「少女マンガを語る会」が開催されて20年。座談会に参加した12人のマンガ家の中にはすでに他界した人もいる。上田トシコ(2008年)と巴里夫(ともえさとお)(16年)、そしてつい最近訃報(ふほう)が伝えられた花村えい子……。

 少女マンガの土台を作り上げた彼らの経験と業績が忘れられる前に、語り継がれる機会が増えてほしい。=朝日新聞2021年1月26日掲載

「魔法使いサリー」が連載されていた「りぼん」