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ホタテの刺身と山わさび 知来要

 北海道の猿払村はホタテが名物だ。海産物には舌の肥えたヨーロッパでも猿払ホタテのうまさは認知されていて輸出もしているという。私もホタテは大好物で村を訪れる目的の一つになっている。そしてもう一つ、ここにはあまり歓迎されない春の名物がある。大風だ。風速10メートルを超える風が連日のように吹き荒れ、山の雪を融(と)かし木々を揺り起こして春をもたらしてくれるのだが、厳しい冬から解放され屋外で活動し始めたばかりの人々には厄介者でしかない。

 実はこの大風の吹く時期を選んでサクラマス釣りに訪れている。大風が吹き山の雪が融けると川は雪どけ水で増水する。雪どけ水は河口へと駆け下り海へと注ぎ込む。すると母川回帰をめざして遥(はる)か沖を回遊していたサクラマスたちが故郷の川のかすかなにおいをクンクンとかぎ分けて河口へ向かってくる。理論的には浜から釣り人の射程内まで接岸してくれば釣れることになる。風が吹けば桶屋(おけや)ならぬサクラマスが釣れるというわけだ。サクラマスは川で生まれ2年目の春に降海する。1年ほど海で過ごした後、春に再び生まれた川に戻ってきて産卵するという鮭に似たライフサイクルだ。本州などで降海せずに一生を川で過ごすタイプがヤマメと呼ばれている。簡単に言えばサクラマスはヤマメが海に降りて大きくなったものだ。海で釣れたサクラマスの身は鮮やかなオレンジ色で刺身(さしみ)が最高にうまい。醬油(しょうゆ)をはじくほど脂(あぶら)がのり上品な甘さもあり舌の上で溶けてしまいそうな柔らかさは極上の大トロのサーモンだ。

 そしてサクラマスの刺身をピリッと引き立ててくれるのが山わさびだ。北海道には古い時代にヨーロッパから持ち込まれたホースラディッシュが自生していて、これを普通のワサビと区別するために山わさびと呼んでいる。牧場や海岸の草地でも簡単に採取できる。大風の日が続いたので釣りができない代わりに山わさびだけは大量に収穫してある。酒もある。あとはメインディッシュのサクラマスを釣るだけなのだが大風は止(や)む気配がない。残念なことに私が用意してきたのはフライフィッシングの道具。糸のテーパーを利用して鞭(むち)のようにラインを操り先端の毛ばりを遠くまで飛ばすシステムだから風が最大の敵なのだ。雪どけ水が勢いよく海に流れ込み混じり合いながら少し勢いを失ったあたりでポチャンとサクラマスが跳ねた。しかし大風の前にフライフィッシングでは手も足も出ない。「山わさびをたっぷり添えたホタテの刺身で呑(の)むのも悪くないな」と気持ちを切り替えた。ヨーロッパの人々もホタテと山わさびを一緒にたべるのだろうか?白ワインも買って帰ろう。大風の吹き荒れる浜をあとにした。=朝日新聞2021年2月20日掲載