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あの本をなぜ紹介できなかったのか 朝日新聞本好き記者が懺悔の気持ちで語り尽くす「とっておきすぎ読書会」前編

とっておきすぎる本、とっておきすぎた本

山崎 さあ、始まりました。刊行から半年以上が経ったけれど、新刊として紹介できなかった本について語ろうという企画です。紹介できなかった事情は色々あるけれど、ようするに刊行ペースに追いついていないというのが現実。いまに限らず刊行点数は本当にたくさんあって、書店の新刊棚もどんどん入れ替わってしまう。一方で媒体の紙面は限られるし、僕たちのマンパワーにだって限界がある。現場の実感として、いい本なのにきちんと紹介し切れていない。だったらもう、時間が経ってもいいじゃないか、という開き直りから思いつきました。ただ、ここでいい本が紹介されればされるほど、あんたら何をやってたんだと……。

滝沢 取りこぼし感が強くなる(笑)

山崎 なるけれど(笑)。とはいえ、そこは反省しながらも、世の中にはこんなにいい本がたくさんあるんですよ、ということを語り合いたいなと。

滝沢 新刊点数は、2020年で6万8千点。ピーク時よりは減ってるんですが、それでも多い。たとえば朝日新聞の読書面だったら、だいたい刊行から2カ月が新刊として扱う目安になっていますよね。これはどうしてですか?

野波 おそらく本屋からなくなるタイミングだよね。新刊を返本する周期を考えると2カ月がひとつの節目。いまはネット書店があっていつでも買えるからそんなに気にする必要はないかもしれないけど、「好書好日」でもそれは踏襲しています。記事を仕込む時間もあるから、もうちょっと幅を持たせたとしても、結局4、5カ月前の本が新刊として扱う限度かなと。

山崎 半年以上経ってから新刊として紹介されるというのは、まれなケースですよね。この企画は、紹介するとき軸になる本が刊行から半年以上経ったものであれば、関連本はその限りではないというルールでやりたいです。

『オクトローグ 酉島伝法作品集成』(早川書房)

山崎 では早速、1冊ずつ紹介していきましょう。言い出しっぺでもあるので、まずは僕から。『オクトローグ 酉島伝法作品集成』です。刊行が2020年7月。本書は今年の「SFが読みたい!2021年版」でベストSF2020の国内篇1位になりました。酉島さんはこれが3冊目の著書で、初めての短編集なんですけど、デビュー作『皆勤の徒』と2作目『宿借りの星』(いずれも東京創元社)が、日本SF大賞を受賞しています。SF大賞の本賞を2回取ったのは、過去に飛浩隆さんと彼の2人だけ。酉島さんは独特な造語をつかった小説で知られていて、『皆勤の徒』も『宿借りの星』も、造語でポストヒューマン(人類以後)の意識を書く小説です。

野波 まず、なんで紹介しそこねたのかという話をしないとね。

山崎 しそこねたというか、取りこぼした理由は、前作『宿借りの星』のときにインタビューをしちゃったから、というのが(※酉島伝法さんインタビュー)。

滝沢 前作の掲載からある程度期間をあけるとか、新聞的なルールですよね。

野波 もう一つは、短編集って取り上げにくいところがあるよね。がっつりした長編を取り上げたいというのが文芸担当って常にあるから。たとえば、この短編集が7年ぶりの新刊として出ました、とかだったら取り上げるけど。連作短編とかじゃなくて、色んなところに書きましたっていう短編集は取り上げにくい。

山崎 とはいえランキングで1位になったので、結果的に注目作を取りこぼしてしまった。

野波 ところで、それはどういう短編が集まっているの?

山崎 初期からの作品が集まっています。酉島さんを紹介するときに、造語で書いているというのがあるんですけど、個人的には「いやな感じ」、それもイヤミスとかとはちがって、読んでおぞけ立つ感じを書くのがべらぼうにうまい人という印象なんですね。収録作に「金星の蟲」という短編があるんですよ。これは初出が『夏色の想像力』という、このなりで同人誌なんですけど。

野波 え?そうなの?(手に取って)ほんとだ。

山崎 第53回日本SF大会の記念アンソロジーとして、2014年に今岡正治さんという人が編んだものです。見た目がそっくりな創元SF文庫と印刷所や製本所も同じところで作ったそうですが、ラインナップがすごくて。目次を見ると円城塔、宮内悠介、高山羽根子、飛浩隆、藤井太洋、瀬名秀明……。

野波 オキシタケヒコもいるじゃない。

山崎 「金星の蟲」では、印刷につかう刷版を作る工場で働いている「私」が、執拗な便意に襲われるんです。

滝沢 (笑)

野波 はい、はい。

山崎 執拗な便意に襲われて、トイレにこもる。そこで何か、えたいの知れない物を排泄してしまうんです。自分の座っている便器から、すごい水音がする。〈釣り上げられた魚が激しく尾を振っているかのような、トイレの中では決して耳にするはずのない、場違いな音。常理を外れた音〉。最初は見ちゃいけないと思うから、いったん水を流したりする。でも、また便意に襲われて出てくるから、結局は見てしまう。そのいやな感じったらない。

滝沢 何かすごい感触的なものというか、ぬめぬめどろどろまとわりつくようなものを書く人なのかなという印象です。

山崎 まさにそう。それは、この短編集の後に刊行された『るん(笑)』(集英社)という小説にもいえて。これは造語じゃない、帯によれば「はじめて人間を主人公にした作品集」。

野波 ついに普通の小説に(笑)

山崎 普通かと思ったら、ぜんぜん普通じゃないんだけど(笑)。これも、いやを凝り固めたような小説で。「るん(笑)」というタイトルが何を指しているかも含めて。そこは読んでいただきたいんですけど、個人的には連作のうち最初の「三十八度通り」、これはずっと38度の熱が続いている「わたし」が主人公なんです。もうろうとしていて、色々あって妻に出て行かれちゃった後に、食事を作ろうと思って米びつを開けるシーンがあるんですけど、ここがね、とにかくすごい。米びつを開けると、〈米粒の間で、赤い糸屑のような小さな幼虫が、何匹も伸びをするようにのたうって光沢をちらつかせていた〉。ようするに米に虫が湧いている。それを取り除こうとして、最初は割り箸でつまんでいくんだけど、たくさんいてきりがないから、今度はざるでふるいにかける。すると赤い幼虫が〈面白いように落ちていく。わたしはその作業にのめり込んだ〉。いやすぎる……。

野波 きてれつすぎる……。僕は『宿借りの星』を読んで、あの造語がだめで、読みきれなかったんだよ。でも、癖になる人には本当に癖になるんだろうなっていうタイプの作家さんだよね。

滝沢 『宿借りの星』を読んだ限りでは、造語を駆使してまったく別の世界を作り上げる、その構築力の高さみたいなところが強く出ていたと思うんですけど、普通の言葉で書くと、地続きから別の世界に連れていくみたいな、そういう感じになるんですね。

山崎 日常がどんどんゆがんでいって、いつの間にかおかしな世界に連れていかれる、という。『オクトローグ』は短編集として、その作風の全体を1冊で眺められるというか、酉島作品の入門書としてよいのではないかと思います。

香山哲『ベルリンうわの空』(イースト・プレス)

滝沢 これも一種の異世界ものみたいな感じですが、香山哲さんというマンガ家がいて、この『ベルリンうわの空』は2020年1月に出たんですけど。

山崎 この本、書店で見かけて気になってたんですよ。

滝沢 出たときは結構話題になったと思います。が、ずっと長く見てきた作家だからこそ、自分しか興味がないのではないかというブレーキが働いてしまい……。たとえば、インタビューして、いきなり「学生時代からずっと読んでて」とか言われてもねえ。向こう的にはどうなんだろうとか……まさに自意識が邪魔をするってやつですけど(笑)

山崎 思いが強すぎた(笑)

滝沢 そうなんですよ。新聞の雑報だとある程度の客観性が求められるなかで、この過剰で勝手な思い入れをどう記事に落とし込むか、勝手にハードルが上がってしまい、この作品でいいのか、自問自答しているうちに時期を逸してしまって。

野波 「好書好日」では移民問題に絡めてインタビューをやったよ(※香山哲さんインタビュー)。

滝沢 デスクに提案するとこまではいったんですけど、僕がうだうだ言い訳を付け加えたせいか、「書いてもいいけど、その思いほかの人に伝わる?」みたいなことを言われて(笑)

野波 その辺のやり取りから聞きたいね。

滝沢 マンガで、しかもエッセー的なものって、コーナーを持っている外部筆者が面白いと思って取り上げる場合は出てきたりするんです。記者が自分で記事を書く場合は、たとえば『うつヌケ うつトンネルを抜けた人たち』(田中圭一著、KADOKAWA)とか、そういう社会性をはらんでいるようなものだと拾いやすいんですけど、これはベルリンで暮らしているマンガ家の日常を一風変わった画風で描く作品で。ぜんぜん何もしないんですよ。いちばん最初に書いてあるんですけど、〈(ベルリンは)パリや東京ともならぶ国際都市だ。今日も忙しくいろんなことが起こってる。そんな街で僕は… ちょっと言いにくいんだけど 僕は… あんまり何もしていない!〉。

野波 いいなあ(笑)

滝沢 ほんとにね、とくに何もしてないんですね。ベルリンのアートシーンとかテクノシーンとか、そういう外から見たアーティストの町ベルリンみたいなことではなくて、普通に暮らしているとこういうことがある、みたいな。結構ごみが多くて汚い。だけど、僕は平気とか(笑)。あと、日本の人は外国人に対してすごく差別的だったりするけど、ベルリンはどうかっていうと、そういう人もいると。だけど、ベルリンはそれに声を上げやすい環境ではある、とか。モヤモヤみたいなことも含めて、この人なりに考えたそのまま書いている。そういう感じの話なんですよね。

山崎 たしかに取りこぼしそうだなあ、これ。

滝沢 香山さんはこれまで一般流通した本は、『ランチパックの本』(アストラ)というランチパック研究本ぐらい。あんまり一般に流通する本を作っていない、というか、自分でレーベルを持ってたんですね。ドグマ出版という。

野波 どうやって見つけたんだよ。

滝沢 学生時代に古本屋で発見したわけです。「漫画少年ドグマ」っていう香山さんがやっていた同人誌的なものを。

山崎 すごいな。主宰なの?

滝沢 そうそう。それで面白いなみたいな感じで買って、その後、何か出ると買って読んでたんですよね。いつか取材してやろうとか、そういう下心はまったくなく。

山崎 『ベルリンうわの空』が、いってみればメジャーデビューなんですか。

滝沢 マンガ家としてはメジャーデビュー作と言っていいんじゃないですかね。僕が知る限りは。追いかけだしたときは、まだ日本にいて、そのうちベルリンに引っ越して行っちゃって。この『心のクウェート』っていうのも、直販だけですが、すごくいい本なんです。これもベルリンから始まるんですが、ベルリンはすごくいい感じのところだけど、もっといいところがあるらしい、それを「心のクウェート」という。〈え?クウェート?〉って聞いたら、〈ニーニー、クウェートじゃなくって心のクウェート〉って。

山崎 〈心のクウェートはもっといい国だよ〉(笑)

滝沢 で、心のクウェートを探し求める。途中で犬の幽霊が出てきたりとか、不思議な感じなんですよね。自分は好きだけど、ほかの人にこれをどう伝えればいいのかわからないという点において、たいへん悩ましい作家であると。それこそベルリンに住んでいるアーティストみたいな人ってたくさんいるわけですよね。僕にとっては香山さんを紹介するとき、ベルリンを切り口にするのは、ちょっと何かちがう感じがどうしてもしてしまう。

山崎 そうか、自分のなかではベルリンに住んでいる人という感じではないから……。

滝沢 そうそう。香山哲、いまベルリンに住んでんだ、みたいな感じなんですよね。香山さんは、「漫画少年ドグマ」ではマンガの他に、社会的なこととかを書いたりしてるんですよね。で、挫折している。「グチの連載 綜括前夜は明けない」では、〈前号までで話したのは、僕・香山哲が何をやってもみんなの関心を引けませんでしたというグチでした〉とか(笑)

山崎 こじらせてるなあ(笑)

滝沢 社会的なことを書いたビラなんかを配っていたみたいです。ベルリンに行ってからは、結構ぐだぐだ暮らしてるようにみえる。だけど、ゆるやかにつながって社会を変えようということもしていて、それでいいじゃないかっていう本なんですよね。そういう意味で、あの香山さんがここまで来ているというのが、すごく感慨深い。

山崎 しかしこれ、続編が出てますね。

滝沢 続編も出たんですよ。だから、それなりに売れたんじゃないか。

野波 2巻で終わってるわけじゃないよね。

滝沢 終わってるわけじゃないと思います。売れればまた出るんじゃないですかね。

山崎 昔だったら「ガロ」の人だよね。

滝沢 「ガロ」に間に合わなかった「ガロ」の人みたいな感じの人ではありますね。1982年生まれだから、もう「アックス」になっちゃってると思うんですけど。

山崎 2色刷りの造本もいい。

滝沢 そうなんですよね。すごく個性的な作風。ゲーム作家でもあるんですよ。

山崎 属性が渋滞してきたな(笑)

滝沢 でもたぶん、ゲーム的な世界観みたいなものが生かされてるんだと思います。ダンジョン探索というか。

野波 ああ、それはあるね。あるある。

滝沢 『ベルリンうわの空』の話に戻ると、「洋行もの」みたいなのって日本の伝統としてあるじゃないですか。たとえば、石井好子とか、芸術家がヨーロッパで、いずれ日本に帰ってくるための下積みをしてるときのエッセーとか日記とか。あるいは、夏目漱石や森鷗外みたいな作家や学者の若い頃の留学話。それって日本に戻ってくる前提の話なんだと思うんですよね。あるいは「紀行もの」。沢木耕太郎『深夜特急』とか金子光晴『どくろ杯』みたいな、放浪して旅をして、一時期ここにいるみたいな。『ベルリンうわの空』はそのどっちでもなくて、このあと移るかもしれないけど、基本はベルリンにいる人の話として描かれているんですよね。だけど、異邦人ではあるわけです。まわりの人も異邦人ばっかり。それが何か、いまっぽいなという感じがする。

野波 いま感あるね。リサイクルとかシェアワークとか日本で暮らしていても気になるような話と、一方で、異邦人だからわかるちょっとしたアジア人差別みたいな話とを生活者の目線で描写しているから、日常と地続きな感じがある。非常にいい本だと思います、これは。

滝沢 現地で知りあったぜんぜん属性のちがう人と一緒に、ちょっとした社会運動みたいなことをやる。特に、続編はそういう感じの話で、社会とのつながりがある。でも、がんがんつながってくという感じでもない。個人的にずっと追いかけてきたから線でみる面白さもあるんですが、それ抜きにしても、いまっぽさがある。

山崎 過去作と比べても明らかに新境地であり、飛躍作だと思いますね。

野波 本人は別に大きく振りかぶってるわけじゃないんだけど、日本ではあまり見られない、異邦人たちが集まる場所の雰囲気を伝えてくれる。日本のコンビニであれだけ見る異邦人がふだん何してるのかっていうのが、日本だとぜんぜん見えてこないところを、国際都市ベルリンでアジア人である自分が多国籍状態のなかにいて、描いてみると……。

山崎 思わぬ社会性を帯びた話に……。

野波 結果的にそうなんだよ。いま読むにはすごくいい感じではあるんだよね。

滝沢 こうやって話してると、やっぱりちゃんと取材した方がいいんじゃないかって気になってきますね(笑)

『モリッシー自伝』(上村彰子訳、イースト・プレス)

野波 『モリッシー自伝』が昨年7月にようやく出たんですよ。原著は2013年。ずっと出る出ると言われていて、ようやく出た。そもそも「ザ・スミス」というバンドはご存じですか。これは私語りになるんだけど、すごかったのよ、スミスって。彼らの活動期間は1980年代半ばで僕の高校から大学にかけてなんだけど、大学のバイト先が当時のサブカル女子がいっぱいいるような職場で、誰も彼も「スミスの新作聴いた!?」って興奮してるわけですよ。サードアルバムの「ザ・クイーン・イズ・デッド」が出た直後です(86年)。ロック好きだったからスミスの名前は知ってたけどアルバムは持ってなかった。で、カセットテープ貸してもらったら、確かによくて、モリッシーの色っぽい中性的なボーカルも、ジョニー・マーのギターも気に入った。そこで、ようやくCDを買ったくらいの遅れてきたファンです。だけど結局、スミスは次のアルバムを出してすぐ空中分解しちゃうから、スミスって何がどうすごかったのかというのがよくわからないままだった。モリッシーのソロもその後、何作が聞いたけど途中ですっかり追わなくなっていて……。で何年か前に、モリッシーの自伝が現地で「チャーチル自伝」並みの名著だと言われてる、みたいな話が聞こえてきてたわけ。

滝沢 ノーベル文学賞ものじゃないですか(笑)

野波 どんなんだよと(笑)。当然、これは読まねばと思っていたけど、邦訳が出なかった。その間に、『ジョニー・マー自伝 ザ・スミスとギターと僕の音楽』(丸山京子訳、シンコーミュージック)が先に出るんですよ。これは原著が2016年で、日本では17年に。読みました。なるほどそんなことがあったのね、というのが何となくわかった。じゃあ、モリッシーの側からはどうなっていたんだというのを、ようやく『モリッシー自伝』で読めたわけです。で、読んでみたら、正直スミスファン以外にはつらいかなぁ(笑)

滝沢 (笑)

野波 で、これをどう読み解くか、というときに格好の副読本が出てるんですね。いまをときめくブレイディみかこさんの『いまモリッシーを聴くということ』(Pヴァイン、2017年)。このなかに、この自伝の特徴が端的に記されています。ようするに速度がちがうと。〈ジョニー・マーに出会うまでの部分の描写がそれ以降とまったくちがうことに気づく。ジョニーに会うまでの文章は遅いのだ。いかにも文学的に技巧を凝らして詩が多用され、芸術としての価値はあるのだが、読みにくい。が、ジョニーと出会ったところから急にモリッシーの文章は早くなる。短くキャッチーな文章が頻出して、すいすい面白く読めるようになるのだ〉。しかし前半は非常に読みにくい……。

滝沢 すごい暗いですよね。とにかく頭が大きすぎて出産のとき母親を殺しそうになったみたいな話から、いちいち暗いんですよ。

野波 でも、スミス結成のあたりになると突然、生き生きし始めて、すごく読みやすくなる。スミスを知らない人が読んでもそうだと思う。ただ、スミス解散後は、今度は単なるエピソード断片集みたいな、「おれが覚えてることを順番に言っていくよ」みたいな感じになっていて(笑)。結局、何がどう名自伝なのかよくわからない。たぶん、原語で読むと感触が違うんだろうとは思う。

滝沢 詩的な感じですよね。〈名前のない曲がり角は行き先を示してくれない〉とか。

野波 自伝というよりも叙事詩を読んでいるような気分になって。スミスのところだけが普通の自伝っぽいんだよ。少なくともスミスファンが期待しているものではないのではないかなと。ただ、文芸作品として読んだときに、たぶん好きな人がいるんだろうなと。

山崎 ブレイディさんは、どこが〈いま〉だと書いているんですか。

滝沢 階級みたいなところを読み解いているんですかね。

野波 読み解いてる。ブレイディさんらしい筆致で、英国に住んでいる人ならではの現地のムードみたいなものと、モリッシーとを結びつけて。まず僕が驚いたのは、ロンドンとマンチェスターのちがい。『モリッシー自伝』にも出てくるんだけど、彼が育ったマンチェスターから見ると、ロンドンってすごい遠い地なんだよね。遠くてキラキラしてて。「でも俺はマンチェスターみたいな、ろくでもない田舎で」とぐじぐじ言ってる。僕らは90年前後からの音楽史におけるマンチェスターを知ってるから。ストーン・ローゼスとかの「マッドチェスター」やら、オアシスとかの「ブリットポップ」とか、なんか凄いバンドが次々出ている土地のイメージがある。

山崎 そんなにひがむほどの土地じゃないですよね。

野波 マンチェスターで音楽をして有名になるなんていうのは、何の話?みたいなことが自伝の前半に書かれてます。あとは、さっき言ってた階級の問題だよね。モリッシーが政治的にかみついてたのは、当時首相だったサッチャーなんですよ。

滝沢 新自由主義ってことですか。

野波 サッチャーのせいで格差が広がったと。いまは完全にそれが、従来の階級とも違うかたちで固定化しちゃってると、ブレイディさんは書いてます。格差が固定してしまった時代に、いまこそモリッシーを聴くべきだと。一方で、モリッシーの歌詞って政治色が強いから、左からは極右だと怒られ、右からは極左だと怒られと、めちゃくちゃなんだよ。そういう政治的なイデオロギー的なものと、モリッシーの歌詞についての関係性も、ブレイディさんらしい見立てで読み解いています。彼女の本を読んでから、もう一回『モリッシー自伝』を読むと、いろんなことがさらにわかるかなと。で、なぜこれらの本を持ってきたかというと、音楽関係の本とか、取り上げにくいよねという話です。映画もそうだし、演劇もそう。日本の話ならまだしも、外国のこの手の本って、本当に取り上げられなくて。ちょっと前に出た『プリンス録音術』(ジェイク・ブラウン著、押野素子訳、DU BOOKS、2018年)っていうのも、いい本なんですよ。プリンスのアルバムがどういうふうにできてきたかということを、機材なんかを丁寧に紹介しながら追っている本なんだけど、プリンス好きにはたまらないわけ。プリンスにあまり興味がなくても、80年代の音楽が好きな人だったら、サンプリングとか打ち込みとかが一般的になった80年代のポップミュージックがどう作られていったのかの参考になる、これは名著です。でも、取り上げにくい。

山崎 担当としてはインタビューをするのがわかりやすいけれど、インタビューする相手をどうするのかという。モリッシーというわけにはいかないし。

野波 訳者に聞くしかない。でも自伝とか評伝なんて、インタビューで何を聞いていいかわかんないよね。だって、読めばそこに書いてあるんだから。

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