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岡崎琢磨『貴方のために綴る18の物語』 プロローグ 【先行公開#1】

プロローグ お金のために読む 18の物語

 一月の冷たい風が、わたしの体を震わせた。
 京王線笹塚駅のホームは、高架で東西にさえぎるものが何もなく、いつも都会の風が吹き荒れている。夏はいい。真冬ともなると、電車が来るまでのたった数分を耐えるのでさえつらくなる。
 そんなホームの西側の端っこで、わたしは両手でわが身を抱き、通過する特急電車を待っていた。歯の根が合わない。体も、心までも凍りついている。
 もう少し。あと数分の辛抱だ。そうすれば電車が来て、彼に会いにいける――。
 背後から声をかけられたのは、そんなときだった。
「どうしましたか」
 何よりもまず、来てくれたんだ、と思った。勢いよく振り返ったわたしはしかし、そこに立っていた人物を見て、落胆した。
 七十歳くらいの老紳士だった。老紳士、という言葉がこれだけ似合う日本人もめずらしい。紺のスーツの下に臙脂(えんじ)のベストを着て、足元はキャメルの革靴をはき、頭には黒の中折れ帽を被っている。銀の丸眼鏡と垂れ下がった眉、白髪交じりの口ひげは柔和な印象を与えるが、細い目の奥が少しも笑っていなかった。
「別に、どうも……ちょっと、寒かったので」
 わたしが答えると、老紳士は咳払いをひとつはさんで、しわがれた声で言った。
「赤塚美織さん、でよろしかったですかな」
 わたしは目を見開いた。あ、あ、と意味のない音を何度か発したあとで問う。
「どうして……わたしの名前を」
「驚かせてしまって申し訳ありません。実は、あなたにぜひともお引き受けいただきたい仕事があるのです」
「仕事?」いきなり何の話だろう。
「ええ、ええ。あなたにしかできない仕事です」
 老紳士が微笑むのが、かえって不気味だった。
「でもわたし、仕事なんて探してません」
「心配ご無用。ほんのわずかな時間でやっていただける仕事です。内容に対して充分すぎるほどの報酬をお支払いすることをお約束いたします」
 ――胡散臭い。
 ここでそう感じない人間はよほどのバカだ。わたしも三十年生きてきて、自分だけにうまい話が転がり込んでくるなどと信じられるほど無邪気でも無知でもなかった。むしろ、世の中全体を見回してもわたしほど不運な人間はそういないだろう。
「わたし、お金儲けには一切興味ありません」
 わたしは突っぱねる。しかし、老紳士は食い下がった。
「不審に思われるのも無理はない。だが、せめて話だけでも聞いていただけませんか。これは決して、怪しい商売の類ではございません。言うなれば、そうですな、モニターの一種とでも申しましょうか」
 商品をお試しして、その感想を述べよということか。初めに化粧品を無料で使わせておいて、のちのち高額なサロンと契約させるなどの手口もよく耳にする。老紳士とサロンとではイメージが結びつかなかったが、どちらにせよ詐欺まがいの勧誘であることに変わりはないだろう。
 そこで老紳士に背を向け、立ち去ってもよかった。だが、続く彼の言葉が、わたしの足を踏みとどまらせた。
「ここは寒いので移動しませんか。すぐそこの商店街に、静かな喫茶店がありますので」
 知っている。
 二年前に一度、訪れたことがある。思い出したら、懐かしくなった。
 ほかのどんな誘いでも、わたしは彼に同行しなかっただろう。けれどもいま、あの喫茶店に誘われたということに、わたしは運命の数奇さを感じずにはいられなかった。
「わかりました。話を聞くだけなら」
「ありがとうございます。それでは、どうぞこちらに」
 老紳士はうやうやしく一礼し、わたしの一歩先を歩き始めた。
 電車に乗らなかったので、駅員に頼んで改札の外に出してもらう。三分ほどで到着したのは、やはりわたしの知る思い出の喫茶『南風』だった。
 老紳士が〈水曜定休〉と記されたプレートのかかった、チョコレート色をした木製の扉を開けると、古めかしい鐘の音が鳴る。薄暗く、壁に絵画が複数飾られ、ほのかにタバコのにおいが漂う店内は、二年前と何も変わっていなかった。カウンターの奥にいる短髪のマスターが、いらっしゃい、と低い声で言う。
 アンティークなインテリアで統一された店内に、わたしたち以外の客はいなかった。窓際の席に、老紳士と向かい合って腰を下ろす。ビニールのカバーをかけられたメニューを開くと、コーヒー豆の種類がたくさん記されていた。わたしと老紳士はともにブレンドを注文する。
「それで、仕事というのは」
 見ず知らずの老紳士とだらだらお茶をする趣味はないので、わたしはさっそく本題に入った。出されたコーヒーに口をつけ、老紳士は語る。
「とても簡単な仕事です。あなたには、四百字詰め原稿用紙にして二十枚程度の短い物語を、一日一話、全部で十八話読んでいただきたいのです。物語は毎日、郵送であなたのご自宅に届きます」
「……たったそれだけ? そのあとで、何かをするわけではなく?」
「誓って、それだけです。念のため、ちゃんと読んだことがわかるように感想を記していただきますが、長さや内容は問いません。物語に基づいてさえいれば、一文でもかまわないのです」
 拍子抜けした。化粧品などのモニターを想像していたが、それには体質に合わないといったリスクがともなうし、サロンへの誘導も警戒しなくてはならない。それに比べて、ただ物語を読むのにリスクがあるとは思えない。そのあとで、有料会員制の図書館にでも入会させられるのか? ありえないとは言わないが、現実味に乏しい。
 わたしはあまり本を読むほうではないが、それでも原稿用紙二十枚程度なら、ゆっくり読んでも三十分はかからないだろうと見当がついた。仕事という言葉から連想されるより、はるかに小さな負担で済みそうだ。
 だが、そこで老紳士が言い足した。
「……ああ、いや、失念しておりました。最後にひとつだけ、追加で仕事が課せられることを」
「追加で? その内容とは」
「いまはお話しすべきときではありません」
 ほら来た、と思う。結局は、そのタイミングでわたしから金を巻き上げるつもりではないのか。ため息をついて、わたしは言う。
「やっぱり信用できません。この話は、なかったことに」
「まあお待ちください。報酬のご説明がまだでしたね」
 老紳士がジャケットの内側に手を差し入れる。続いてテーブルの上に置かれたものに、わたしは目を丸くした。
「……これは」
 一万円札が、それなりの厚みを持つ枚数で、帯封によって束ねられていた。
「報酬です。四十七万円ございます。よろしければあらためてください」
 言われるがまま、枚数を数える。確かに四十七枚ある。
 札束をテーブルに戻す手を震わせながら、わたしは訊ねた。
「物語を読むだけで、こんな大金を?」
「勘違いなさっては困ります」
 老紳士は言う。わたしは半ばほっとし、半ばがっかりした。
「ですよね。こんなにもらえるわけが――」
「これは、報酬のおよそ三分の一に過ぎません。着手金、とでも申しましょうか」
 いよいよわたしは戦慄した。何か、とても危ないことに首を突っ込みかけている気がしたのだ。
 老紳士は語る。
「あなたに読んでいただきたい全十八話の物語はすべて、四百字詰め原稿用紙二十枚を基準に書いてあります。超えているものも、満たないものもありますが、そこはご容赦いただきたい。一話あたりの文字数は、およそ四百かける二十で八千字になります」
 小学生でもできる計算だ。
「報酬は一字につき十円、つまり一話につき八万円です。全十八話ですから、あなたには最終的に百四十四万円の報酬をお支払いします。ただし」
 いつの間にか、老紳士の右手には一万円札が一枚、握られていた。テーブルの上の札束から抜き取ったわけではないようだ。
「この仕事には郵送代や印刷代など、いくばくかの費用がかかっております。そこで、あなたには手数料として、前もって一万円をお支払いいただきます。こちらがその一万円です」
 と言われても、そのお金はわたしが払ったものではない。疑問符が渦巻くわたしをよそに、老紳士は続ける。
「物語は月曜日から土曜日まで、週に六話ずつ届きます。こちらの四十七万円は、最初の一週間分の報酬から手数料を引いた額です。おわかりですね」
 八かける六引く一で四十七。これも簡単な計算だ。だが、脳の処理が追いつかなかった。
 物語を読むだけで、三週間後には百四十三万円の報酬が得られる?
 ありえない。世の中に、そんなうまい話が転がっているわけがないのだ。
 わたしはぬるくなったコーヒーを飲み干す。だが、カラカラになった喉は潤せなかった。
「どうして……わたしなんですか」
 かろうじて問う。老紳士はにこりと微笑んだ。
「それは、あなたにしか務まらない仕事だからでございます」
「答えになってません。あなた、いったい何者なんですか。よく考えたら、まだ名前も聞いてない」
「名乗るほどの者ではございません。私はあなたにこの仕事をお受けいただくための、使いに過ぎないのですから」
「何それ。じゃあ、どこの誰がこんな真似をしているのか教えてよ」
「あなたが仕事を完遂されたあかつきには、必ずやお話しして差し上げましょう。それまでは、わが依頼主─通称ミスター・コントに関する情報は何ひとつ明かすことができません。おかしな噂を吹聴されても困りますゆえ」
 具体的な情報を一切出さない老紳士に、わたしの我慢は限界に達した。
「何がミスター・コントよ、バカにしてるの?そういう態度で、こんな怪しい仕事を引き受ける人がいると思いますか。わたしもう帰ります」
 席を立つ。マスターの視線が頬に刺さる。老紳士は両手を上下に動かした。
「まあまあ、どうぞ落ち着いて。そうおっしゃるのはごもっとも。だからこそ、こちらは着手金をご用意したのです。それ以外に、信用していただく方法はないでしょうから」
 わたしはいま一度、テーブルの四十七万円に目を落とす。
「わたしがこのお金を、持ち逃げするかもしれませんよ」
「そうなれば、ご自宅まで回収にうかがうことになるかと」
「どうやって?住所も教えてないのに」
「物語は郵送すると申したのをお忘れですか。赤塚さまのご住所は、すでにこちらで把握しております」
 ぞっとした。どうやって突き止めたのか知らないが、ほとんど犯罪だ。
 わたしは売り言葉に買い言葉で、
「脅したって無駄よ。こっちには、引っ越すという手もある」
「たかだか四十七万円のために引っ越しですか。かかる費用に鑑みれば、あまり賢明とは思えませんが」
 言葉に詰まる。老紳士はまたしても微笑んだ。
「どうしても、あなたにこの仕事を引き受けていただかないと困るのです。物語を読むだけで、百万円以上の大金が手に入る。夢のような話ではありませんか」
「夢のようだから、信用できないと言ってるんです」
「たまにはそんな、幸運な出来事に遭遇したっていいとは思えませんか」
 もしかすると、それは老紳士の苦しまぎれの台詞に過ぎなかったのかもしれない。
 けれどもその言葉は、なぜだかすとんと腑に落ちた。思い返せば、わたしの人生は大きな不幸の連続だった。少しくらいどこかでいい思いをしなければ、帳尻が合わない。
 わたしは椅子に腰を下ろし、上目遣いで言った。
「……本当に、物語を読むだけでいいんですね。ちょっとでも危ないと思ったら、すぐに警察へ駆け込みますよ」
「どうぞご自由に。決してそのようなことにはならないと確信いたしております」
 老紳士は再びジャケットの内側を探り、テーブルの上に封筒を置いた。白くて縦長の、何の変哲もない和封筒である。
「こちらに第一話が入っております。本日がちょうど月曜日ですから、いまから送ったのでは今日じゅうに届きませんので、初めは手渡しとさせていただきます。仕事をお受けいただけるか否か判断するための、サンプルという意味合いも含まれているとお考えください」
「中をあらためても?」
「もちろんかまいませんよ」
 封筒の口を開け、中から折りたたまれた紙を取り出す。A4サイズの白い用紙に、明朝体の文字がびっしりプリントアウトされている。原稿用紙と聞いて手書きを想像したが、そうではなく、体裁もまったく異なるようだ。数えてみると、全部で七枚ある。
 冒頭にタイトル、そのすぐあとに本文が始まっていた。ざっと目を走らせてみるが、取り立てておかしなところはない。むしろ、小説として見ればいかにも平易な文章だった。
「これを、読めばいいんですね」
「さよう。感想は別のノートにでも記入してください。一週間分、すなわち土曜日までの六話を読み終えたら、日曜日の十五時にその感想を持って、こちらの喫茶店までいらしていただけますか」
「またお会いするんですか?」
「お手数をおかけして申し訳ありませんが、こちらには仕事をサボってないかチェックする義務がありますのでね。なに、感想に目を通すだけですから、お時間は取らせません」
 そんなに長文でなければね、と老紳士は冗談めかす。
「それと、最終十八話は第一話同様、直接お渡ししたいので、三週目は日曜日ではなく土曜日にこちらへ来ていただけますか。その際に、併せて報酬もお支払いいたします。可能ですか?ご都合のいい時間帯で結構なのですが」
「それはまあ、大丈夫ですけど……」
 生返事をしつつ、わたしは考える。
 笹塚は自宅の最寄り駅なので、来るのは手間ではない。三週間の仕事だから、あと三回、この喫茶店へ来れば、すべてが終わって百四十三万円が手元に残る─老紳士の言い分を真に受けるなら、そういうことになる。
 わたしは窓に目を向ける。曇天のせいか窓にはうっすらと、自分の顔が映っている。
 目は落ちくぼみ、頬はこけ、まるで自分の知る自分とは別人のようだった。
 わけのわからない展開に翻弄され、本能的に警戒心が先立った。しかしいくらか冷静になってみると、こんな自分に失うものなどいまさら何も残っていないと思えた。金銭を騙し取られたり、犯罪の片棒を担がされたりしたところで、それが何だというのだろう。ゼロから一に増える不幸に比べれば、二から三に増える不幸などどうってことはないという気がした。
「どうですか。この仕事、お引き受けいただけますでしょうか」
 老紳士の念押しに、わたしはとうとう首を縦に振った。
「わかりました」
「ありがとうございます。では、第一話と着手金、どうぞお収めください」
 言われて初めて、わたしは鞄どころか財布すら持たず、ほとんど身一つで来てしまったことを思い出した。改札を通過するために携行した、ジーンズの右ポケットのスマートフォンが、唯一の持ち物だ。
 仕方なく、パンツの左ポケットに札束をねじ込む。頭がのぞいてしまっていたが、上に着ていたニットの裾で隠せた。自宅が近いのが幸いである。
 老紳士が二人分の会計を済ませ、わたしは「ごちそうさま」を老紳士とマスターの双方に言って、ともに『南風』を出た。
「それではひとつ、よろしくお願いいたします。明日から一話ずつ、毎日封筒が届きますので」
 帽子を胸に当てて頭を下げ、老紳士が商店街の奥へ去っていく。
 わたしはまるで、自分が『笑ゥせぇるすまん』の喪黒福造にでも会ったような気分で立ち尽くしていた。けれども手の中にある封筒が、これが現実であることを物語っている。
 ぼんやりした頭を抱え、徒歩五分の自宅アパートへと帰り着いた。
 明かりもつけず、机の前の椅子に腰かける。机の片隅にある写真立てに、わたしは目をやった。
 草津の温泉街をバックに、向かって右側でわたしが満面に笑みを浮かべている。その隣では、森倉颯太がこの写真を撮ったスマートフォンを持つ手を伸ばしている。
 ――今日は会いにいけなくてごめん。もうちょっとだけ待っててね。
 心の中で一声かけると、わたしは封筒から紙を取り出して物語を読み始めた。

 こうしてわたしは、十八の物語をただ読むという、奇妙な仕事を引き受けたのである。




*謎の老紳士から18の物語を読む奇妙な仕事を受けた美織。最初に渡された物語の題名は「ひきこもり」でした。続きは以下からお楽しみください。

岡崎琢磨『貴方のために綴る18の物語』 1. ひきこもり 【先行公開#2】