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岡崎琢磨『貴方のために綴る18の物語』 遺伝子検査 【先行公開#4】

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3. 遺伝子検査

 私がダイニングテーブルの上に一枚の紙を突き出すと、妻の陽子は首を傾げた。
「なあに、それ?」
 五歳になる息子の大地はすでに寝つき、陽子は冷蔵庫の前に立ったまま、風呂上がりに濡れた髪をタオルで拭いていたところである。
 この時間まで待ったのは、大地のことを思えばこそだ。ちょっと気を抜くと叫び出しそうになるのを必死にこらえ、この瞬間を迎えた。
「よく読めよ。そこに書いてあることを」
 陽子は私の向かいの椅子に座り、紙を手に取る。
 数秒後、彼女の両目が、目玉がこぼれそうなくらい大きく見開かれた。
 今日、仕事を終えて帰宅し、書斎の机の上に置かれていた封書――陽子が置いたのだろう。職業柄、私のもとにはさまざまな封書が届くため、妻には無断で開封しないよう言いつけてある――を開いてその紙に記された文言を目の当たりにしたとき、覚悟していたにもかかわらず私は、卒倒しそうになるほどの絶望を味わった。この五年間、頭の片隅で絶えず恐れ続けていたことが、とうとう現実になってしまったのだから。
 陽子の体がぶるぶる震え出す。その両手で持たれた紙の上部には、〈私的DNA型父子鑑定書〉の文字がある。そしてすぐ下の結果の欄に、次のような無情な文言が記されていた。

〈「擬父」は「子ども」の生物学的父親とは判定できない。父権肯定確率:0%〉

「大地は、俺の子じゃない」
 鑑定書がテーブルの上にはらりと落ちる。陽子は、両手で顔を覆って泣き出した。

 陽子と出会ったのは、卒業からちょうど十年の時を経て開催された高校の同窓会の席だった。
 同学年なら出会いは高校時代なのでは、と思われるかもしれない。だが私にとっては、陽子は同窓会で出会ったという以外に言いようがなかった。同じクラスや部活になったことがないせいか、高校時代の印象がまるでなく、こんな女子がいただろうか、といぶかったほどだった。長時間の立食に少し疲れ、会場の隅に設けられた椅子に腰を下ろしたとき、隣に彼女が座っていなければ、話しかけようとは思わなかっただろう。
「ごめん。名前、何だっけ?」
 こちらから訊ねると、彼女は妙になじんで見える苦笑を浮かべた。
「わたし、地味だったから憶えてないよね。わたしは当麻くんのこと、憶えてるよ」
 当麻というのが私の、そしてのちに彼女のものにもなる姓だった。
「俺だって、どっちかと言えば地味だったよ」
「そんなことない。当麻くん、けっこう目立ってた。頭よかったし」
 彼女は氏名を名乗ったが、このタイミングで苗字で呼び始めるとのちのち、彼女が結婚などした際にどう呼んでいいかわからなくなることを、当時二十八歳の私は経験から知っていた。なれなれしく《陽子》と呼んでも、彼女は嫌な顔をしなかった。
「それで、陽子はいま、何をしているんだ?」
 高校時代に共通の思い出がない相手と会話するにあたっては、職業あたりがもっとも無難な話題だろう。私の質問に、陽子は輪郭の曖昧(あいまい)な声で言った。
「看護師だよ」
「へえ。どこの病院?」
 続く彼女の答えを聞いて、私はリアクションに窮した。彼女が名を挙げた、地元でも有名なその総合病院は、半年ほど前に投薬ミスなど複数のショッキングな医療事故を立て続けに起こして、現在もマスコミや世間から猛バッシングを受けている最中だったからだ。
「立派なところにお勤めなんだな」
 言いよどむ間を読み取られたからだろう、彼女はまたしても苦笑した。
「気を遣わなくていいよ。知ってるでしょう。うちの病院、いま大変なんだ」
 彼女からどことなく卑屈な雰囲気を感じるのはそのせいだったのか、と察した。もしかすると、単に性分なのかもしれなかったが。
 手を差し伸べたのは、彼女に惹かれていたからではない。いたたまれない空気に耐えられなくなっただけだ。
「俺、弁護士やってるんだ。力になれるかどうかわからないけど、困ったことがあったら相談してよ」
「本当? ありがとう。そう言ってもらえるだけで、心強い」
 成り行きで陽子と連絡先を交換したところで、時間が来て同窓会はお開きになった。別れ際に陽子と手を振り合った瞬間、彼女の着ていたボレロの袖がめくれてあらわになった腕に青あざが見えたような気がしたが、そのときは酒を飲んでいたこともあって深く気に留めはしなかった。

 陽子は十分間にもわたって号泣を続け、私は彼女の釈明を辛抱強く待たねばならなかった。
 やがて大雨が小降りになるように、洟をすする音が途切れたとき、彼女の口から小さな、それでいて意を決したような硬さを持った声がこぼれた。
「……心当たりがない」
 絶望の中にありながら、私はいささか鼻白んだ。
「そんなはずはない。検査結果が示してる。大地が俺の子ではない以上、きみがほかの男の子供を産んだとしか考えられない」
「でも! ないものはないの!」
 陽子が激昂(げきこう)したので、私はちらと子供部屋のほうを見た。
「静かにしろ。大地が起きたらどうする」
 陽子はまたさめざめと泣き始める。
「五年以上も前のことだ。忘れてしまったんじゃないか」
「検査結果が間違っている可能性はないの」
「ありえない。遺伝子検査は正確だ」
「だって……本当に、身に覚えがないんだもの……」
 あくまで白を切る気か。認めればあらゆる意味で不利な立場に置かれることは明白なので、精一杯悪あがきをするしかないのかもしれない。
「どうして俺が、遺伝子検査をしようと思い立ったのかわかるか?」
 目頭を押さえつつ、陽子は首を横に振る。
「赤ん坊のころからずっと、大地は俺に似ていなかった。でも、それだけなら遺伝子を調べようとまでは思わなかっただろう」
「じゃあ、どうして?」
 私はかつて見た、憎き顔を思い浮かべながら吐き捨てた。
「似てきたからだよ――あの男に」

 同窓会のあとも、何とはなしに陽子と連絡を取り合った。
 ある種の礼儀かと思い食事に誘うと、恋人がいるから、と断られた。ショックはそれほど大きくなかったが、引っ込みがつかなくなった私は、「それなら今度きみの病院を受診するよ」というメッセージを送った。そのころ罹患(りかん)したタチの悪い風邪の名残で、咳がいっこうに治まらなかったのだ。
 陽子は「耳鼻咽喉科にいい先生がいるから」と、私の受診を歓迎してくれた。文字だけのそのメッセージがどこかうれしそうに見えたのは、おそらく私の思い上がりだろう。
 平日は仕事があり動けないので、次の土曜日の午前中に総合病院へ向かった。診察を終えて診察室を出ると、廊下に陽子が立っていた。
「本当に来てくれたんだ。ありがとう」
「ああ。吸入を受けた。治りそうな気がするよ」
 彼女の顔を見たことで義理は果たしたという気分になり、私は帰ろうとした。しかしきびすを返したとき、彼女が私を呼び止めた。
「あの」
 振り返る。彼女の顔に、おびえのような影が一瞬、よぎった。
「どうした」
「ごめんなさい。何でもないの」
 職業柄、こういう反応を示す依頼者に出会った経験は少なくなかった。重大な事実を目の前の弁護士に話すべきか話さざるべきか、葛藤しているのだ。
 陽子は胸の前で両手を揉んでいる。よく見ると、首筋に青いあざが浮かんでいた。
「今夜、きみの仕事が終わったら二人で話そう」
 私は彼女の耳元で言った。
「でも」
「個室のある店を予約する。入るときも出るときも別だ。誰にも見つかる心配はない」
 私は彼女を残して立ち去り、病院からは少し離れた街にあるビストロの個室を予約すると、彼女の携帯電話にメッセージを入れておいた。男としてというより、友人として彼女を救わなければという義務感から出た行動だった。
 その日の夜、早めに店に行って陽子を待った。彼女は時間どおりに現れた。強張(こわば)った顔が、私を見るとほんの少し和らいだ。
 料理と少々の酒を味わいながら、私は彼女から話を聞き出そうとした。
「何か、相談したいことがあるんじゃないか」
 彼女はナイフとフォークを持つ手を止め、うつむいた。
「こんなこと、話したってどうにもならないかも……」
「それでもいい。話せば楽になることもある」
 うながすと、彼女は消え入るような声で告げた。
「恋人から、暴力を振るわれているの」
 あざを見たときに、半ば予想されたことだった。私は断固として言った。
「別れるんだ」
「でも、彼を愛しているから」
「暴力を黙って受け入れるのを、愛とは呼ばない」
「わたしね、職場の病院の不祥事続きで、精神的にすごく参ってたの。そこを彼に支えてもらったから、いまでも彼がいないと不安で……」
 最後のほうは、嗚咽(おえつ)で言葉が聞き取れなかった。私は優しい口調に切り替える。
「だけど、その状況を変えたくて、俺に何かを言いかけたんだろう」
「彼に頭を冷やしてもらいたいの。暴力さえやめてくれれば、それでいい」
 これまでにも仕事でDVに関するさまざまな案件に対応してきた私は内心、恋人を完全に改心させるのは難しいだろうと感じていたが、口には出さなかった。
「何とかしよう。弁護士が出ていけば、それだけでおとなしくなるケースは少なくない」
 陽子は目尻に涙を溜めたまま、にっこり笑った。
「ありがとう、当麻くん」
 彼女のことが、好きかもしれない――そう、私が初めて感じたのはその瞬間だった。

「あの男とは、切れたもんだと思っていたよ」
 私が言うと、陽子ははっと顔を上げる。
「何のこと?」
「大地の顔、どんどんきみの昔の恋人に――あの暴力男に似てきたじゃないか。俺と付き合い始めてからも、ひそかにあの男と関係を持っていたんだろう」
「そんなわけないじゃない!」
 陽子が声を荒らげたので、私は子供部屋のほうにあごをしゃくった。
「大きな声を出すなと、何度言ったらわかる」
「……ごめんなさい」
「きみは暴力を振るわれてもなお、あの男に惚れていた。それを無理やり引きはがしたのは俺だ。……信じたかった。きみが、あの男よりも俺のほうを強く愛してくれていると」
「そうじゃなきゃ、結婚して子供を産んだりしない」
「きみは、いまでも気づいていないんだろう」
「何に?」
 彼女は出会ったころの卑屈さを彷彿(ほうふつ)させる態度で、上目遣いになった。私は苛立(いらだ)ちを抑えつつ、ある出来事について初めて告白した。
「俺は、あいつに出くわしてるんだよ――きみが出産直後に入院していた、あの病院で」

 私の勧めで、陽子は住まいを替えた。同時に、私は彼女の恋人だという男に書面で警告を発した。いつでも警察に通報することができ、また慰謝料を請求する用意がある旨を伝えたのだ。陽子は職場まで替えたわけではなかったので、男はその気になればいつでも陽子に会いに来ることができたのだが、幸いそのような展開にはならず、事態は平穏に推移した。
 それから数ヶ月間、私は恋人と決別するよう陽子に説得を続け、同時に交際を申し込んだ。すぐにはいい返事をもらえなかったが、粘り強く接するうちに陽子は心を動かされたようで、出会って半年が経つころに私は彼女との交際をスタートさせた。その一年後、計画外ではあったが彼女の妊娠が発覚し、私たちは籍を入れることになった。
 信頼できる医師がいるという理由で、陽子は職場の総合病院で出産することになった。彼女は初産にしては安産だった。立ち会った私は、生まれてきた息子が懸命に産声を上げる姿を見て涙した。母親の名前に太陽を表す一文字が含まれるなら、その暖かな光を全身に浴びて元気に育ってほしいと願い、大地と名づけた。
 出産から五日後のことだった。入院中の妻子に会いに、産科のある病棟の入り口をくぐろうとしていたときだ。
 正面から来た男の顔をすれ違いざまに見て、私は足を止めた。
 間違いなかった。警告を発するに先立ち、私は陽子から、何枚もの写真を見せてもらっていた――病棟から出てきたのは、陽子に暴力を振るっていたという、あの男だった。
 頭に血が上った私は彼を追いかけ、出し抜けに胸倉をつかんだ。
「おまえ、何でこんなところにいる」
「ああ? 誰だよてめえ」
 男は私の顔を知らなかったらしく、困惑しながらもすごんで見せた。私はさらに詰め寄った。
「何でここにいるのかって聞いてるんだ」
「気持ち悪いんだよ!」
 男から突き飛ばされ、私は固い床に尻餅をついた。
「ガキ見に来たんだよ。何か文句あんのか。クソが」
 男は吐き捨て、去っていく。私は呆然として、その後ろ姿を見送った。
 子供を見に来た? まさか、陽子はあのあとも私の知らないところで彼とつながっていて、私ではなく彼の子を身ごもったのか? 確かに陽子と関係を持つとき、私は常に避妊具を用いていたはずではあったが――
 悪い妄想が膨らみ、動悸(どうき)が激しくなる。しかし、ふらつく足取りで妻子のいる病室に入ると、陽子は屈託のない笑みで私を迎えてくれた。
「ほら大ちゃん、パパが来てくれましたよー」
 その姿を見ていると、疑念も薄らいでいった。大丈夫。あの男はきっと、陽子が出産したことをどこからか聞きつけて、未練がましく様子を見に来ただけなのだ。《ガキ》という言葉は、必ずしも自分の子供だけを指しはしないじゃないか。こんなに幸せそうな妻を、疑うなんてどうかしている。
 以来、その日のことは記憶の片隅にありながらも、私は大地を当然のように自分の息子として育てた。だが、成長するにつれあの男に似ていく大地に、一度は笑い飛ばしたはずの疑念が再び頭をもたげ、私はそれを否定したい一心で、遺伝子検査に踏み切ったのだった。

 産科の病棟の入り口であの男を見かけた旨を告げると、いよいよ反論する気力を失ったのか、陽子は温度のない声で「少し時間をください」と言い、夫婦の寝室へと消えた。その後ろ姿は、月並みだが亡霊のようだった。
 翌日より、私は大地と変わりなく接するよう努めながらも、今後の身の振り方について考えていた。陽子とは一言も口を利かなかった。考えがまとまったら、向こうから話しかけてくるだろうと思っていたからだ。父親として大地と遊びながら、あるいは夫婦の寝室で妻に背を向けて眠れぬ夜を過ごしながら、私は幾度も涙し、自分の運命を呪った。
 そんな日が一週間続いたある夜更け、私は久々に陽子に声をかけられた。
「そこに座って」
 私たちはあの運命の夜と同様に、ダイニングテーブルをはさんで向かい合った。
 陽子は何も言わずに、一枚の紙をテーブルの上に置いた。その紙を一瞥(いちべつ)し、私は鼻から息を吐き出した。
「一週間前、俺がきみに見せた鑑定書じゃないか。それが、どうかしたのか」
「もっとよく見て」
 陽子が思い詰めた様子で言うので、私は紙を手に取った。
 そして、絶句した。
 紙の上部の文字は、〈私的DNA型母子鑑定書〉となっていた。結果の欄には、こう記されていた。

〈「擬母」は「子ども」の生物学的母親とは判定できない。母権肯定確率:0%〉

「大地は、わたしの子でもなかった」
 陽子の声は、ほとんど悲鳴と化している。
「そんなバカな……だって、きみが産んだはずじゃ――」
 そこで私は、あの病院がかつて起こした複数の医療事故に含まれていた、ある一件に思い至った。
 新生児の取り違え――
 それじゃあ、まさか、あの男の実子と。
「……疑ったりして、すまなかった」
 からからに渇いた喉から、その一言をひねり出すのが精一杯だった。陽子の妊娠は、避妊の失敗によるものだった。この世のどこかには、私たちの血を受け継いだ子供が存在しているのだ。
 鑑定書を持つ手が震える。その手を、陽子が両手で包み込んだ。
「わたしたち三人は、家族だよね」
 うなずくことしかできない。私と陽子と大地の、戦いの日々が始まろうとしていた。


~その可能性があったか、と膝を打ちました。家族の今後が気になる。~


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