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岡崎琢磨『貴方のために綴る18の物語』 催眠 【先行公開#6】

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5. 催眠

「……いいですか。じーっと見つめていると、この五円玉がだんだん揺れてきます……」
 慎重に、慎重に。緊張を面に出さず、低く落ち着いた声で、鏡に向かって練習してきたフレーズを繰り返す。
 心なしか、彼女の目はとろんとして見える。二人で暮らす自宅の、ダイニングの椅子に深々と腰かけて、五円玉を結わえたたこ糸の端を右手の人差し指と親指でつまんでいた。彼女と向かい合う位置で、僕は床に片膝をついている。
「ほら、少ーしずつ揺れてきましたね。さらにこの五円玉が、今度は円を描き始めます……」
 糸で吊るした五円玉は、催眠術の道具としてはあまりにもメジャーだが、やはり有用だ。元来、五円玉をぴたりと止めた状態でキープしておくほうが困難なので、ほうっておいても五円玉は自然と揺れるのだ。けれどもそれを催眠術の効果だと思い込ませることができれば、被験者と催眠術師とのあいだに信頼関係を築け、導入の役目を果たしてくれる。
 いま彼女がぶら下げた五円玉は、単純な左右の反復から楕円(だえん)を描く運動に変化しつつあった。これだけで催眠術にかかったとみなすのは早計だが、滑り出しは悪くない。僕は高揚と不安とがないまぜになった感情を内に秘めたまま、彼女に語りかけた。
「では、五円玉を置いてください。次に右手を差し出して、ぐっとこぶしを握ってみましょう……」

 それはある秋の日の朝、自宅のダイニングの椅子に座って、こんがりと焼けたトーストにバターを塗っていたときのことだった。
「もう、好きじゃないかも」
 彼女が湯気の立つマグカップを口元に運んでからつぶやいたので、僕は初め、中に入っているコーヒーの話をしているのだと思った。
「ちゃんと豆を挽(ひ)いて淹れたから、おいしいと思うけど。紅茶がよかった?」
「ううん、そうじゃなくて」
 マグカップをテーブルに置き、彼女はこちらに向き直った。その眼差しがいかにも真剣だったので、僕は何だか彼女のもこもこのパジャマと不釣り合いだな、と思った。
「わたし、もうあなたのこと、好きじゃなくなったかも」
 僕は手にしていたバターナイフを、白い皿の上に落っことした。日が差し込む窓の外で、雀(すずめ)がちゅん、と間抜けな声を上げた。
「ごめんなさい」
「そんな、いきなり謝られても」
 情けないことに、僕はうろたえるばかりだった。彼女と同棲を始めて、すでに二年が経過していた。お互い今年で三十歳になり、僕はそろそろ結婚も視野に入れていた。
「僕、何か悪いことした?」
「してないよ。あのね、たんぽぽってさ、誰が植えたわけでもないのに、道端で咲いてるじゃん。でさ、しばらく経つと、枯れて茶色くなってたりするじゃん」
 なぜ彼女が突然たんぽぽの話を始めたのか、僕には理解できなかった。
「人を好きになるのも、たんぽぽと同じようなものだと思うんだよ。理由なんて全部後づけで、本当はただ、気がついたら好きになってるってだけ。だったら、好きじゃなくなることにも、やっぱり理由なんてないんじゃないのかなあ」
「つまり、きみの中の僕を好きだと思う気持ちが、さしたる理由もなく、知らぬ間に枯れちゃったってこと?」
「まあ、そうなるのかなあ」
 なぜ他人事のように言うのだろう。僕は焦りを感じつつ、問いただした。
「で、どうするの」
「どうって?」どうも、彼女は明言を避けたがっている節がある。
「僕と別れたいのかってこと。じゃなきゃ、こんな話しないだろ」
「そうだねえ」
 彼女はコーヒーをとくりと飲んだ。動揺をごまかしたいようには見えない、余裕を感じさせる仕草だった。
「わたしたち、一緒に住んで長いじゃない? 初めのうちはいろいろ合わなくてケンカもしたけど、最近ではずいぶん穏やかになったよね。これをほかの誰かと一からやり直すところを想像すると、正直ぞっとしないのよねえ」
「うん。同感だ」
「それに、わたしも年齢を考えるとぼちぼち結婚したい。いまから別の誰かと付き合い始めたとして、結婚に至るまでには時間がかかりそうだし、もちろん次の相手とうまくいく保証だってない」
「要するに?」
 結論を急かす僕に、彼女は自分でも本気では信じていないような調子で告げた。
「あなたのことをまた好きになれたら、それが一番楽、ってことなのかな……?」
《いい》とか《理想》とかではなく《楽》という言葉を選ぶあたりに、彼女の本音がにじみ出ている。
 それでも僕は、散歩から帰ろうとする飼い主を引き止める犬のように、未練がましく彼女にしがみつこうとした。彼女のいない人生なんて、考えられなかったからだ。
「チャンスが欲しい」
 僕は、自分は何も悪くないはずだと知っていて、頭を下げた。
「もう一度、きみに好きになってもらえるように努力する」
「そんな、申し訳ないよ」手を振る彼女。
「でも、それしか一緒にいる方法は残されていないんだろう。だったら、僕はまだあきらめたくない。好きなんだよ。このままじゃ、納得できない」
 言いながら、泣けてきた。彼女は僕の背中に手を当て、みずからこの展開を招いたくせに、心底後ろめたそうな顔をしていた。
「でも……どうやって?」
「わかんないけど、優しくするとか、楽しませるとか」
「いまのままでもじゅうぶん優しいし、楽しいよ。たぶん、そういうことじゃないんだと思う。だからって、気持ちが戻るのを無期限に待ち続けるわけにもいかないけど……」
 じゃあ、どうすりゃいいんだよ――爆発しそうになった僕の頭に突如、あるひらめきが訪れた。それは、天啓というよりは苦しまぎれに近かった。
「催眠術だ」
「何?」彼女は耳を疑うように訊き返す。
 好きじゃなくなったことに理由がないのなら、どうせまともな方法では彼女の気持ちを取り戻せやしない。こうなりゃヤケだ。僕は彼女に向かって宣言した。
「催眠術で、きみの気持ちを甦らせてみせる――だから、できるようになるまでのあいだだけ、待ってくれないか」

「……僕がいまから三つ数えると、あなたの右手はかたあくなって、開くことができなくなります。いきますよ。1、2、3!」
 僕は彼女の握りこぶしから手を放す。少しのあいだ、右手を細かく震わせたあとで、彼女は驚きに目をみはった。
「すごい! 本当に開かない!」
 内心では興奮しているものの、僕は努めて鷹揚(おうよう)に笑う。催眠術なのだから当然だ、とでも言わんばかりに。
「僕が手を叩いたら、元どおり右手が開くようになります」
 僕が両手を打ち合わせると催眠が解け、彼女は難なく右手を開く。自分の右手と僕の顔とを交互に見つめ、信じられないという表情を浮かべていた。
「では次に、あなたの苦手なものを催眠術で克服してもらいたいと思います」
 僕はすぐそばのテーブルの上に、あらかじめ用意していた、ミニトマトを二つ盛った小皿を載せた。
「うわ、ミニトマトか……わたし、食べたらえずいちゃうくらい苦手なんだけど」
「もちろん知っています。でも、そんなミニトマトがおいしく食べられるようになったら、素晴らしいと思いませんか?」
「それは、思うけど……」
 おびえるように、彼女は僕の両目を見返す。僕は彼女の着ているカーディガンの肩に手を置いた。
「そのまま僕の目をまーっすぐ見つめてください。いまから三つ数えると、あなたはこのミニトマトをとーってもおいしいと感じるようになります。はい、1、2、3!」
 今回は、ただちには何の異変も感じ取れなかったようだ。当惑した様子の彼女に、僕は右手でミニトマトを指し示す。
「どうぞ、食べてみてください」
 彼女はミニトマトのへたを指でつまむと、恐る恐るそれを口に運び、歯でへたから千切って果肉を噛んだ。数秒後、彼女が甲高い声を発した。
「おいしい! どうして? あんなに嫌いだったのに!」
 またうまくいった。驚きを通り越し、僕はひそかに感動すら覚える。練習の成果が、こうも鮮やかに発揮されるとは。
「お気に召したのなら、もうひとつどうぞ」
 僕の勧めに応じて彼女は二個目のミニトマトを手に取ると、今度は先にへたを外して手のひらに載せ、口に向かって放り込むようにして食べた。咀嚼(そしゃく)して、恍惚(こうこつ)としている。
 もはや、助走はじゅうぶんだろう。いよいよ僕は、本題に移ることにした。
「それでは次にまいります。いまから三つ数えると、あなたは目の前にいる僕のことが、好きで好きでたまらなくなります――

「やめておけ、そんなの」
 僕の相談を聞き終えるやいなや、友人はきっぱりと切り捨てた。
 何の当てもなく、催眠術などと言い出したわけではなかった。友人に、趣味で催眠術をたしなむ男がいるのを思い出したのだ。以前、とある集まりで彼が催眠術を披露した際、僕はまったくかからなかったものの、同席した女性がかかるのを目の当たりにした。彼が「隣の男性の手が大好きになり、誰にも渡したくなくなります」と言うと、その女性は隣にいた僕の手を握りしめ、なかなか放そうとしなかった。官能的な動きで撫でられ、恋人がいる僕はかなりどぎまぎしたことを憶えている。
 僕は友人に、催眠術を教えてほしいと頼み込んだ。そのわけを訊ねる彼に、彼女とのやりとりを再現して聞かせたところ、返ってきたのが先の言葉だった。
「どうして。催眠術で人の好意を操れるのは、前回の一件で立証済みじゃないか」
「まあな。だが結論から言うと、おまえの目論見(もくろみ)はうまくいかない」
 僕が呼び出した居酒屋のカウンターで、彼はジョッキに入ったビールを喉を鳴らして飲んだ。
「ずぶの素人が催眠術をマスターするには、時間がかかるってことか」
「そうとも限らない。センスがあれば、初日からできてしまうやつもいる」
「じゃあ、何がだめなんだ」
「催眠術は、魔法とは違う」
 僕の目を見つめて語る彼は、すでに催眠を始めているかのようだった。
「一時的に彼女の気持ちをおまえに向けさせるだけなら、さほど難しくはないだろう。もともと彼女はおまえのことが好きだったうえに、いまでも好きになりたがっている。催眠術の観点から言えば、これほどかけやすい相手はいない」
 催眠術は術師と被験者の信頼関係、そして催眠にかかりたいという被験者の気持ちが重要なのだそうだ。この二つの条件を、僕らはすでにクリアしていたと言える。
「なら、いったん催眠に成功したら、あとはそれを解かなければいいだけの話じゃないか」
「そこが甘いんだよ。いいか、催眠は、必ず解ける」
 たとえば両手を叩くといった、催眠を解くための動作をしなくても、時間が経てばおのずと催眠は解けるのだという。
「どんなに深い催眠でも、せいぜい寝れば解けてしまう。そうしたら、彼女の気持ちも元の木阿弥だ」
「でも、でもさ」
 僕は食い下がった。
「彼女は僕のことが好きだったんだよ。いまはただ、その気持ちを忘れてしまっているだけなんだ。だとしたら、たとえ催眠の効果であろうと、いったん気持ちを思い出しさえすれば、元に戻ることだってありうるんじゃないか。ファンじゃなくなったアーティストの曲を久々に聴いたら、やっぱりいいなと思ってまたファンになることあるだろ。あんな感じで、さ」
「さあ……俺はあくまでも催眠術師であって恋愛心理学者じゃないから、専門的なことはわからないけど」
 無理じゃないかな、という彼のつぶやきを無視して、僕は両手を合わせた。
「頼むよ。だめだったら、そのときはあきらめるさ。このまま何もしないで、彼女と別れるのだけは嫌なんだ」
 深々とため息をついて、彼は言った。
「まあ、催眠術を教えるだけでいいのなら、断る理由はない。うまくいかなくても、俺は一切責任持たないぞ」
「もちろんだ。ありがとう」
 それから一ヶ月間、僕は彼に催眠術のイロハをみっちり教えてもらった。彼女のいない場所で自主練習も欠かさず、会社の同僚に実験台になってもらったりもしながら、少しずつ腕を上げ、そしてとうとう今日の本番を迎えたのだった。

 彼女は初め、何の変化も示さなかった。
 ――失敗か?
 不安になるが、それを相手に悟られてはいけない。黙ったままでいると、彼女がおもむろにうつむき、もじもじし始めた。
 誰かを好きでたまらなくなるという催眠にも、さまざまな反応が見られることは知っていた。人によって、好きな相手に示す態度が異なるからだ。ある人は一目散に抱きつこうとするし、ある人は反対に相手の顔も見られないほどの恥じらいを示す。ほぼ無反応で傍目にはわかりづらくても、しっかり催眠にかかっている場合もある。
 試しに僕は、彼女に向かって手を差し伸べてみた。すると彼女はこわごわその手を握り、しばらく大事そうに撫で回すと、僕の腕をぎゅっと抱きしめてきた。
 空いた手で、彼女の髪に指を通す。彼女はあごを触られた猫のようにうっとりしている。僕は彼女を立ち上がらせ、強く抱きしめながら耳元でささやいた。
「大好きだよ」
 彼女が照れて笑い、僕の体に腕を回してくる。思わず涙が込み上げた。以前は当たり前のように交わしていた愛情表現が、どれほど幸せな行為だったかを痛感した。催眠術の効果だってかまわない。いまこの瞬間、確かに彼女は、僕のことを愛してくれている。
 衝動に駆られ、僕は彼女を寝室へ連れていこうとした。泥酔した女性に手を出すような、卑劣な振る舞いだったことは否定できない。僕は催眠術にかかっているあいだに、彼女ともう一度、深く愛し合いたいと考えたのだ。
 体を押すと、彼女は抵抗するようなそぶりを示した。だがそれも、一種の恥じらいと解釈した。ここまで来たらブレーキは利かず、僕はさらに彼女を強く押そうと、両手の位置を彼女の腰へと移動させた。
 その感触に気づいたのは、彼女の着ていたカーディガンのポケットに、僕の右手が当たったときだった。
 何か、固いものが入っている。姿勢を変えないままで、僕はそちらを盗み見た。
 ポケットの口から、赤い色がのぞいていた。ポケットの外から触れてみると、突起などが一切ないきれいな球体だ。数瞬ののち、僕はそれが何であるかに思い当たった。
 それは、へたの取れたミニトマトだった。
 どういうことだ? 僕が用意したミニトマトは二つきりだ。その二つとも、彼女が食べるのをこの目で見た。なのに、どうしてこんなところにミニトマトがあるのか。いや――
 最初のミニトマトを、彼女は口でへたから千切った。あれを彼女が食べたことは疑う余地もない。
 だが二つめ、彼女はへたを先に外して、手のひらからほうるような形でミニトマトを食べた。その食べ方自体も変わっていると感じたが、それ以上にひとつめと違う食べ方をしたことが引っかかってはいた。
 彼女は本当に、二つめのミニトマトを食べたのだろうか。あのやり方なら、口に入れたふりをして手の中にミニトマトを隠し持ち、僕の目を盗んでカーディガンのポケットに移すことは造作もない。そして、彼女がもし本当にそんなことをしたのだとしたら、理由はひとつしかない。
 二つめのミニトマトを食べたくなかったからだ。なぜか。
 言わずもがな、催眠にかかっていなかったからである。
 五円玉が揺れるのは催眠にかかっていなくても起こることだし、自分の意思で何とでもできる。手が開かなくなったのはどうか。やはり、演技でそう見せかけることは簡単だ。
 それでも彼女は、ひとつめのミニトマトを食べた。催眠にかかっているのかどうかを確かめる目的もあったのかもしれないし、かかっていないとわかっていながら、無理して食べてみせたのかもしれない。けれども二つめを食べるのには耐えられないと感じ、食べたふりでその場をしのいだ。
 どうして、そんなことをしたのだろう。
 彼女はなぜ、僕の催眠術にかかったふりをしているのだろう。
 真相を確かめたいという思いにとらわれ、しかし僕は、口を開くこともできずに呆然と立ち尽くしていた。「大好きだよ」という僕の言葉に、何の返事もしなかったこと。寝室へ連れていこうとすると抵抗したこと。すべての状況が、彼女が催眠にはかかっておらず、僕への気持ちも甦ってはいないことを指し示している。彼女をあきらめきれない僕に、同情でもしたのだろうか。そんな、優しいようでいて残酷な嘘、僕は望んでなんかいなかったのに。
 いつの間にか、僕の両腕は彼女の体を離れ、だらりと垂れていた。彼女が不思議そうに、僕の顔をのぞき込む。その瞳に正気の光を感じ取ったとき、僕は決意した。
 彼女と別れよう――そして、この家を出ていこう。

 新しい家は、前の家よりもずいぶん広々として見えた。
 引っ越し荷物をあらかた片づけ、コーヒーでも淹れようかと思ったところで、転居前に豆を使い切っていたことに気がついた。調べると、すぐ近くに評判のいい自家焙煎の店がある。歩いて豆を買いに行くことにした。
 太陽がまぶしい春の日だった。路傍を見ると、アスファルトの割れ目にたんぽぽが咲いている。
 僕はつぶやいた。
「あのとき、僕の催眠は成功していたのかな。それとも、失敗していたのかな」
 少しの間をおいて、すぐ隣から返事が聞こえる。
「さあね。教えない」
 前を向いたまま、彼女はつんと澄ましている。
 結局のところ、彼女とは別れないで済んだ。理由はよくわからないが、彼女は僕への気持ちを取り戻したんだそうだ。そのまま結婚を決めたのを機に、いずれ子供が生まれた場合を考慮し、より広い家に移り住んだ。転居にともない、もろもろの届け出をしなければならないこのタイミングで、併せて入籍もする予定になっている。
 あの日以来、催眠術をすることはない。彼女が本当に催眠にかかっていたのか、それともすべて演技だったのか、いまでも僕は真相を知らない。
 いまとなっては、どうでもいいことだ。隣を歩く彼女の手をそっと握りながら、僕は思う。
 いつまでも、この手を放したくない――催眠になんてかかってなくたって、そう思うんだ。


~結局のところ、真相はどっちなんだろう。恋人たちの問題は、往々にしてはたから見ると滑稽なものなのかもしれない。~


 
 

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