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「旅のない」書評 終わらない宙づり感覚の時代性

評者: 江南亜美子 / 朝⽇新聞掲載:2021年10月09日
旅のない 著者:上田 岳弘 出版社:講談社 ジャンル:小説

ISBN: 9784065247099
発売⽇: 2021/09/15
サイズ: 20cm/173p

「旅のない」 [著]上田岳弘

 人類史を踏まえた発展の過程や、人類亡きあとの世界など、時間の射程を長くとったSF味のある物語を多く構築してきた著者が、今回はその手法を封印。パンデミックに翻弄(ほんろう)されながら生きる私たちの日常を克明に記録するような、リアリズムの短編をものした。
 「悪口」は、初の緊急事態宣言下のゴールデンウィークに近場のホテルで恋人の十花と過ごす「僕」が主人公。システムエンジニアゆえ緊急の連絡は入るものの、まったりと風呂に入りつつ、自己評価が低く愛想笑いをしがちな十花のために以前から試みる「悪口のレッスン」を再開する。人を悪く言うのをはばかる彼女に、僕は思う。折り目正しく、決まり事を冒さない世間の「お行儀のよさ」の風潮は居心地が悪すぎると。その後、十花に風邪のような症状が表れる……。
 感染症への恐怖は、同調圧力と同時に、一大事ではないと思い込む正常化バイアスも顕在化させた。他者との距離を意識し出した当初の軋(きし)むような感覚を、本作は鮮明に想起させる。
 自分たちは子供を持てなかった夫婦が、弟の息子たちの世話を2週間引き受ける「ボーイズ」では、理想の生活像も緻密(ちみつ)な計画も、ときに理不尽で不可抗力な運命により崩れ去ってしまうはかなさを、オリンピック不開催となった2020年の夏休みを通して描く。
 他に、人の親となり安定した男が、昔書いた小説を読み返し、自らの来し方に思いを馳(は)せる「つくつく法師」。また、出張先で対面した男の過去を聞くうち、虚構と現実のあわいのような時空間で、言葉になる前の兆しについて繊細に思索することになる表題作と、本書には全4作が収録される。「旅のない」という表題に含意される、何も終わらない宙吊(ちゅうづ)りの感覚、過渡期のナマの感覚が、どの作品にも染みている。時代の転換点に期せずして立ちあった私たちの心理的な違和感を記録する本書。特異な時代の、証言となるだろう。
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うえだ・たかひろ 1979年生まれ。作家。2015年に「私の恋人」で三島賞、2019年に「ニムロッド」で芥川賞受賞。