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少女小説の変遷 想像力の翼を広げる妹たち 翻訳家・文芸評論家・鴻巣友季子〈朝日新聞文芸時評21年11月〉

青木野枝 白玉4

 国内外の「少女小説」が豊作だ。その豊かな水脈の混交を見るに、18世紀頃の「少女小説」から遠くへ来たものだと思う。当時、英国の男性作家たちは、忍耐強く従順な娘は幸せになり、反抗的でおろかな娘は悲劇の結末を迎えるという教育的な話を書いていた。今の読者には、「マンスプレイニング」(男性が女性を下に見て説法すること)的に映るかもしれない。

 一方、女性作家は自律的な若い女性をいきいきと描いていたが、文学史上は半ば黙殺される時代が続いた。米文学者大串尚代の『立ちどまらない少女たち』(松柏社)は、19世紀からの米国女性作家による家庭・感傷小説に注目し、その邦訳書の「文化的水脈」が日本の少女漫画に継承された経緯を検証する。日本文学が漫画との影響関係ぬきには考えられない今、重要な研究書である。

 日本の名作少女漫画の源流には『赤毛のアン』や『若草物語』があると本書は説く。そこには、抑圧や困難を乗りこえて自立を目指す少女の姿が肯定的に描かれていると。「感化力」という語が目に留まった。なるほど、女性作家によるこれらの小説は少女を“教育”するのではなく、“インスパイア”したのだ。

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 そんな少女たちの力の源は、規範から「ここではないどこか」へと逸脱していく「想像力の翼」であり、『赤毛のアン』の翻訳者村岡花子が使った「わが心の妹たちに」という表現にも見られる女性同士の連帯「シスターフッド」である。

 こうした歴史的観点からも特筆すべきは、明治大正生まれの女性教育者や作家の姿を、膨大な考証とともに描きだした柚木麻子の群像劇『らんたん』(小学館)だ。主軸は、キリスト教精神の下に恵泉女学園を創立し、大戦後は昭和天皇の処遇判断にも関わった河井道の生涯と、彼女とシスターフッドを契った一色ゆりとの友情だが、ここに津田梅子と協力者大山捨松の絆、村岡花子と柳原白蓮の離反と和解も重ねられ、平塚らいてうや新渡戸稲造も登場する。

 明治31年、道は米国留学への寄港地でふんだんな街灯を初めて目にし、自分の足元だけを照らす提灯(ちょうちん)と違って社会で光を分けあう街灯に、「シェア」の精神を知る。このシェアの灯(ランタン)が本作をまっすぐに眩(まぶ)しく照らしている。

 道と文学界との関わりも興味深い。日本で売れる小説には、女性が悪役になったり死んだりするものが多いと彼女が憤慨すると、徳冨蘆花は「大衆の涙を絞る」ためだと応えるが、こうして男性の都合や感動のために女性キャラが犠牲になる物語構造は、今でも残っているだろう。

 柚木はさらに、女性を小説モデルとして利用する創造的搾取にも批判を向け、小説の書き方や生き方を巡って、道と有島武郎を長らく対立させる。彼は死してなお、道にとって自問を促す存在として生き続けるのだ。先月の川本直『ジュリアン・バトラーの真実の生涯』と同様、本書も文学の“正史”を批評的に書き換えるものといえるだろう。

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 サラ・クロッサン『タフィー』(三辺律子訳、岩波書店)には胸を締めつけられた。父の心身への暴力に耐えかねて家を出た少女は、「こことはちがうどこかへ行く」ためバスに乗る。迷いこんだある家には、認知症の老女マーラが独居していた。マーラは少女を、かつて別れ別れになった親友タフィーと間違えており、少女は半分タフィーになりながら、ダンスや料理を通じて、2人で闇を抜けだそうとする。

 バイデン大統領の就任式で若き詩人アマンダ・ゴーマンが話題になったが、近年、英米では詩形式で綴(つづ)る小説が人気だ。『タフィー』も散文詩の形で書かれ、少女の過去と現在が断片的に明かされていく。呟(つぶや)きのような切れ切れの言葉も、迸(ほとばし)る言葉もあり、安易な癒やしには向かわない。それでもシビアな展開の中に「今のあなたでいいんだよ」という肯定が感じられた。

 少女小説といえば、今月はアガサ・クリスティー賞受賞でデビューした逢坂冬馬『同志少女よ、敵を撃て』(早川書房)には言及せざるを得ない。女性だけの赤軍狙撃小隊が実在した独ソ戦時を舞台に描かれる超弩(ど)級の冒険小説である。繊細にして成熟した人物造形、大胆にして精密な戦場の描写。真の敵とはなんなのか? 同賞の選考に関わった私が評するのは本来避けるべきだが、十年に一度の大型新人の出現をここに記録したい。=朝日新聞2021年11月24日掲載