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東山彰良のTurn! Turn! Turn! #34  台湾牛肉麺 妻の愛、この「小さな事実」

コロナ禍で巣ごもり。リビングで本を手に愛猫カグラと過ごす=福岡市、河合真人撮影

 万事休すである。

 思い返せば、3年の長きにわたる当コーナーの連載期間のうち、およそ2年までもがコロナの脅威にさらされていた。当初は行きたいところへはどこへでも行き、心と筆の赴くままになんでも書いてやろうと意気込んでいたのに、いまやすっかりコロナの顔色をうかがいながらおっかなびっくりの執筆を余儀なくされている。感染状況が比較的落ち着いたと見るやさっと家を飛び出し、びくびくしながら取材を重ね、書き溜(た)めたエッセーを小出しにしてきた。世間様に後ろ指をさされないように感染対策に気を使い、マスクをはずすのは写真撮影のときだけ。そのようにして、どうにかこの2年間をしのいできた。

 が、とうとう来るべきものが来てしまった。そう、ネタ切れだ。日毎(ひごと)これだけの感染者が増えているなかで、のほほんと物見遊山というわけにもいくまい。いまこそ、コンセプトそのものから当コーナーを見直す時期にさしかかっている。取材に裏打ちされた従来の紀行文スタイルをあらため、新たな切り口を模索せねばならない。妄想世界旅行? すでに最初の緊急事態宣言時に書いた。世界を巡る文学の旅? それもありきたりである。

コロナ禍で巣ごもりが続く。息抜きに百道の海岸まで足を延ばした=福岡市、河合真人撮影

 思い悩んだあげく、私は台湾人のソウルフードとも言うべき牛肉麺をつくってみることにした。わかっている。みなまで言うな。料理で旅感を出そうなんて、笑ってしまうくらい陳腐な思いつきだ。しかし私は東山彰良であって、速水もこみちではない。この私が台湾を体感できる料理をつくってみようというのは、喩(たと)えるなら速水もこみちが直木賞を狙うと宣言するくらい覚悟と勇気が必要なのだ。そこには何かしらドラマチックなものが待っているかもしれない。

 レシピならある。以前、作家の澤田瞳子さんが我が糟糠(そうこう)の妻と牛肉麺の作り方について、SNS上で熱く議論をしていたことがある。ネットにあふれているレシピのなかから、澤田さんはトマトが入ったものを見つけてきた。彼女はそれを台湾牛肉麺のスタンダードだと思いこんでいたのだが、少々誤解があるようだ。トマトが入った牛肉麺などいちごジャムとあえた納豆のようなもので、美味(うま)いことは美味いが、けっして正統派ではない(と個人的には思う)。

 そんなわけで2月のよく晴れたある午後に、私は鬼コーチの妻の監修のもと、澤田さんのレシピに改良を加えた伝統的な台湾牛肉麺作りに挑んだのだった。

東山家の愛猫カグラ=福岡市、河合真人撮影

 今回は牛スネ肉とスジ肉を使った。肉を切り、ショウガといっしょに鍋で煮込み、醬油(しょうゆ)や紹興酒や豆板醤(トウバンジャン)で味付けをしてせっせと灰汁(あく)を取る。とどのつまりスープ作りが肝なのだが、長丁場になりそうだったのでYouTubeでミゲル・ゴンサルヴェス・メンデス監督の『ジョゼとピラール』をちらちら見ながら、しかるべき手順をひとつひとつこなしていった。ノーベル賞作家のジョゼ・サラマーゴと妻のピラールを追ったドキュメンタリーである。私は『だれも死なない日』を読んだばかりだったので、淡々と死生観を語る老作家の姿についつい見入ってしまった。

 この小説では、ある日いきなり誰も死ななくなった国の混乱が描かれている。物語の後半では死を司(つかさど)る死(モルト)が、また死を復活させるのだが、これから死にゆく者たちに事前に通達を出そうと仏心を起こしたせいで、のっぴきならない窮地に立たされてしまう。

 ドキュメンタリーのなかで、老作家はこう言っている。

「“死”とは“先が読めない”ことだ」

 さらに、

「小さな事実が(作品に)生命をふきこむ」
(木下眞穂訳)

 とも。私の見るところ、料理もしかりだ。ふだん料理をし慣れぬ者にとって、料理とは死のように計り知れない。つまり何をどうすればどういうことになるのか、まるで先が読めないのだ。そして小さな事実、たとえば計量や火加減をおろそかにすれば、料理はたちまち死んでしまう。せっかくの牛肉麺を台無しにしたくはないので、テレビを見るのはほどほどにして、私は全身全霊をスープ作りに傾注した。妻の指示を仰いだうえで八角や五香粉で味を調え、コクを出すために少量のハチミツを加えてみた。

東山彰良さんが全身全霊を傾注した牛肉麺=東山さん提供

 午後2時から作りはじめて、気がつけば陽(ひ)が傾きかけていた。湯気の立つドンブリをまえにしたときは、目頭が熱くなるのを感じた。苦労は報われたのだ。死に思いを馳(は)せながらこしらえた牛肉麺はまばゆく光り輝き、控えめに言っても生命の福音に満ちていた。味も申し分なく、みずみずしい香菜(シャンツァイ)を散らしたその姿は、さながら可憐(かれん)な乙女がスキップしながら薔薇(ばら)の花びらを撒(ま)いたかのよう。まるで短篇(たんぺん)小説を一本書き上げたかのような充足感を、私は嚙(か)みしめた。

 今回、自分で手の込んだ料理を作ってみて、骨身に染みてわかったことがある。ドラマチックと呼ぶにはあまりにも平凡な気づきだが、家族のために我が妻はこんな根気のいる作業を何十年も黙々と耐えてきたのだ! それはけっしてあたりまえのことでも、取るに足りないことでもない。世界中の妻たちのこの「小さな事実」が、愛する者たちの命を支えている。

 私たちはこれから彼女たちが作ってくれる料理をただ豚のようにかっ喰(く)らうのではなく、ましてや文句をつけるなんて言語道断で、せめて感謝の念をちゃんと持った豚のようにいただくべきであろう。=朝日新聞2022年2月19日掲載