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チャンドラーの新訳、田口俊樹さん「長い別れ」 エンタメ翻訳者の回答

『長い別れ』といえばギムレット。「物語の鍵になる酒ですけれども、甘いカクテルってハードボイルドっぽくないよねと思いながら訳してました」と酒飲みの翻訳者は言う

やりとり・行為の描写を丁寧に訳 伏線くっきり

 「ハードボイルド御三家の長編制覇の欲がムクムクともたげてきて。自分で出版社に売り込んだんです」

 田口さんは4年前にロス・マクドナルド『動く標的』、翌年にダシール・ハメット『血の収穫』の新訳を同文庫で出した。残るはチャンドラー。昔からひかれていた代表作を選んだ。

 「過去の訳書の細かい部分でよくわからないところが多く残っていて。自分で訳せば疑問がすっきり解決するんじゃないかと」

 『長い別れ』は探偵フィリップ・マーロウのシリーズの第6長編。たまたま友人となった酔いどれ男テリーに頼まれ、メキシコまで送り届けたマーロウはロサンゼルスに戻ったとたん、警察に勾留されてしまう。テリーには妻殺しの嫌疑がかかっていた。ほどなく彼は自殺、マーロウのもとに「ギムレットを飲んで自分のことは忘れてほしい」との手紙が届くのだが……。

 1953年に発表された本作は58年の清水俊二訳『長いお別れ』で半世紀以上親しまれていた。詩情あふれる訳文だったが、かねて省略があることが知られており、2007年には村上春樹さんが一文一文をていねいに訳し、文学的な薫りをまとわせた『ロング・グッドバイ』を出した。

 田口訳の特徴をひと言でいえば、探偵の一人称の語りによる謎解きミステリーの構造を浮き彫りにした点にある。物語は手紙を受け取ったマーロウに別の夫婦にまつわる依頼が持ち込まれ、別の殺人が起きる。二つの夫婦の事件はロス郊外の高級住宅地を舞台に複雑にからみあうが、細かな言葉のやりとりや、ちょっとした行為の描写をていねいに訳すことで、ミステリーの肝である伏線がくっきりしている。旧来の本格探偵小説に不満を持っていたチャンドラーが新たな探偵小説を生みだそうとした意思が伝わってくる。

 ネオ・ハードボイルドの旗手とも言われるローレンス・ブロックの作品を訳し続けてきた田口さんは、今回訳し終えてみて、チャンドラーの文章のうまさに改めて舌を巻いたという。

 「主人公が内面をごちゃごちゃ語らない乾いた文体はもちろんですが、情景描写がすばらしい。カリフォルニアの空気の乾いた感じや、どうってことのない通りの描写など、実に繊細に書いているんです」

 題名は先行訳から少し変えた。「清水訳のままでと思ったんですが、〈お〉がつくとハードボイルドらしくないから取りました。新訳を出すからには自己満足でもいいから、何か意味のあることをやったと思いたい。今回の訳は村上訳に対するエンタメ翻訳者からの回答だと思っています」(野波健祐)=朝日新聞2022年6月8日掲載