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なぜ「女性哲学者」は非業の死をとげたか 『ヒュパティア 後期ローマ帝国の女性知識人』

記事:白水社

世界で最も有名な「新プラトン主義者」の実像を描く! エドワード・J・ワッツ著『ヒュパティア 後期ローマ帝国の女性知識人』(白水社刊)は、男性社会を生きた女性数学・哲学者の評伝。「アレクサンドリアのヒュパティア」を政治・社会階層・宗教と暴力との関係から解説。
世界で最も有名な「新プラトン主義者」の実像を描く! エドワード・J・ワッツ著『ヒュパティア 後期ローマ帝国の女性知識人』(白水社刊)は、男性社会を生きた女性数学・哲学者の評伝。「アレクサンドリアのヒュパティア」を政治・社会階層・宗教と暴力との関係から解説。

チャールズ・ウィリアム・ミッチェル《ヒュパティア》より
チャールズ・ウィリアム・ミッチェル《ヒュパティア》より

大斎の殺人

 紀元後5世紀のローマ帝国は、市民たちが複雑な幻想を受け入れることを当てにしていた。人々は、自分たちが生きている国やその国を運営している人間には、逆らいがたい権力があるものと信じさせられていた。帝国官僚と地方エリートと教会指導者と帝国軍将校は結託して、自らが掌握した公共の秩序がいかにもろいものであるかを、脅迫と報酬と個人的な人脈によってひた隠しにしながら、帝国の諸都市を統御していた。エリートによる統制という幻想の維持に役立ったのはじつに些細なことである。裕福な都市参事会員は被護民の結婚に力を貸し、総督は死刑になりうる犯罪者を釈放してやり、主教は飢え渇く季節労働者みなに食物を供給するなど、それぞれの方法で帝国を支える個人的関係を築いていた。エリートは彼らの時間と金銭を充分に割いてやったから、一般の人々は普通は、ローマ世界で生きてゆけるだけの援助を受けていると感じていた。たいていの場合、ごく一般的なローマ人は何か問題を抱えると、このシステムのなかで自分の面倒を見てくれるエリートに頼った。このシステムはおおむねうまく回っていたのである。

 

【ヒュパティアを描いた映画『アレクサンドリア』予告編】

 

 しかし415年春、大都市アレクサンドリアでローマ帝国の仕組みは行き詰まった。災厄は412年、キュリロスのアレクサンドリア主教への選出にはじまる。キュリロスの前任者の死後、同地のキリスト教徒の共同体は党派に分断された。キュリロスの支持者と彼に対抗するティモテオスの支持者である。エジプト駐屯軍司令官が仲介してキュリロスを説得するまで3日間にわたって路上の乱闘が続いた。アレクサンドリアのエリートを疑心暗鬼に追い込むには充分な長さだった。

 その後3年間、キュリロスは対抗勢力に立ち向かうべく行動を起こした。キュリロスとアレクサンドリアの諸党派の対立は415年には、主教自身とローマ帝国の総督オレステスとの衝突に至った。キュリロスはオレステスとのあいだのあれやこれやのいざこざを、エリートはともに手を携えて都市の問題を解決できるのだという、おなじみの幻想を壊さぬように鎮火しようとした。この試みはうまくゆかなかった。つぎにキュリロスは、アレクサンドリアのエリートのあいだに隠されていた見るに堪えない分断を暴き出すことにした。巷説こうせつによれば、キュリロスはアレクサンドリアの修道士の一群を召喚したのだという。キュリロスは総督が修道士の群れに怯んで和解に向かうことを期待したのだが、激しい抗議は予期せぬ展開をもたらした。話し合いに応じるよう説得するどころか、ある修道士がオレステスの頭を狙ってつぶてを投げたのである。オレステスはその修道士を逮捕し、拷問し、処刑したのだった。

ヒュパティアは「哲学者の衣に身を包み、都市の中心に歩み出て、プラトンやアリストテレスやその他の哲学者の哲学を聴きたい者みなに公開の場で解説した」。 『ヒュパティア 後期ローマ帝国の女性知識人』(白水社)P. 84─85より
ヒュパティアは「哲学者の衣に身を包み、都市の中心に歩み出て、プラトンやアリストテレスやその他の哲学者の哲学を聴きたい者みなに公開の場で解説した」。 『ヒュパティア 後期ローマ帝国の女性知識人』(白水社)P. 84─85より

 キュリロスの奇策は都市を恐慌に陥れ、あわや大混乱となるところだった。オレステスとの対立が過熱すると、キュリロスとその支持者は、問題をオレステスとヒュパティアという名の女性哲学者の定期的な面会のせいにして非難をはじめた。アレクサンドリアの高名な数学者の娘であるヒュパティアは、この35年あまりにわたってアレクサンドリアの思想界を牽引してきた。後期ローマ世界において哲学者は公的な権力をもたなかったが、なかには絶大な影響力を誇った人物も存在したのである。歴史的に見れば、哲学者は都市と公職者に政策に関する助言を与えはしても、ローマ帝国のエリートどうしをむすぶ取引と恩顧のシステムとは距離をおいていた。ただ真理にのみ心を寄せ、自身の評判や個人的な利得には関心をもたず、彼らが政治的生活にかかわるのは、自身の行動によって都市の政治がより公正になる場合に限られた。しかるべき時にしかるべき方法で告げられたなら、彼らの助言は燃え上がる対立を穏やかな理性の声で冷まして緊張を和らげたりもしたことだろう。かくしてヒュパティアの哲学者としての地位は、なんとかまとまろうと苦闘する都市にあって、途方もなく象徴的な力をヒュパティアとオレステスの面会に与えることになった。オレステスの側にヒュパティアがいることは、総督のほうに理があるという印象を与えた。古代人の眼から見れば、キュリロスは自らの幼稚な不満から都市の平安そのものを脅かした張本人にほかならなかったようである。

 キュリロスに忠誠心をいだくキリスト教徒は、ヒュパティアとオレステスの面会を悪辣この上ない行為とみた。ヒュパティアは魔術で総督をたらしこんでキュリロスから遠ざけたのだと、彼らはささやきだした。あの取引と恩顧のシステムがうまくゆかなくなってしまったのは、ヒュパティアがキュリロスとその支持者たちの意見を、アレクサンドリアを左右する会談の席に加わらぬように遮断してきたからだということに、彼らの頭の中ではなっていた。彼女はこの人々の怒りにじかに耳を傾けなければならなかった。そしてこの都市の機能を再生させるために、彼女は引き下がらなければならなかった。

その美貌に言及されることの多かったヒュパティアだが、「自身の哲学によって彼女は肉体のジェンダーを超えて、ジェンダーのない魂の次元でこそ完全に機能できただろう。もしそうだとしても、ヒュパティアは直面していた終わりのない噂話や軽蔑やいやがらせに対して、鋼の神経をもたなければならなかった。男性の同僚たちが決して経験することもなければ克服する必要もなかった、このようなことがらは、純粋な観照のさらなる妨げとなる代表的な障害である」。 『ヒュパティア 後期ローマ帝国の女性知識人』(白水社)P. 138─139より
その美貌に言及されることの多かったヒュパティアだが、「自身の哲学によって彼女は肉体のジェンダーを超えて、ジェンダーのない魂の次元でこそ完全に機能できただろう。もしそうだとしても、ヒュパティアは直面していた終わりのない噂話や軽蔑やいやがらせに対して、鋼の神経をもたなければならなかった。男性の同僚たちが決して経験することもなければ克服する必要もなかった、このようなことがらは、純粋な観照のさらなる妨げとなる代表的な障害である」。 『ヒュパティア 後期ローマ帝国の女性知識人』(白水社)P. 138─139より

 415年3月、この不満はあるアレクサンドリアの教会員を動かした。ペトロスというこの男は、キュリロスの支持者を集めて、ヒュパティアと対決しないかとそそのかした。ペトロスとその一味が、当初彼女を発見したらどうするつもりだったのかはわからない。群衆はいつでもローマ世界のどこかで徒党を組んでいた。彼らは叫んでやじを飛ばすのが常だったが、ときに屋敷を襲撃した。殺人までゆくこともまれにあったとはいえ、ローマ帝国のエリートが身体的な暴力を受けることはきわめて例外的な事態であった。たいてい群衆は、エリート層に属する人物に怒りを覚えたとしてもよそで発散させ、対象に特に近づくことなく解散していた。だが、この群衆はそうではなかった。彼らは並はずれて獰猛な目的意識をもって路上へ繰り出したか、公の教場もしくはアレクサンドリアのどこか路上でヒュパティアに遭遇するという、めったにないめぐり合わせにあった。

 群衆の側ではヒュパティアに遭遇できると思いもしなかったとしても、ヒュパティア自身は明らかに彼らの憤怒に対してまったく無防備であった。ヒュパティアはろくに護衛もつけずに公衆の面前に現れ、アレクサンドリアの裕福な人々の住まいを騒音と悪臭と群衆の怒りから守る、堅固な壁に護られてもいなかった。彼女が姿を現すやいなや、ペトロスとその一味に捕えられた。彼らはヒュパティアの衣服とからだを陶片でひき裂き、目をえぐり出し、その骸をアレクサンドリアの路上に引き回したすえ燃やした。

《アレクサンドリアの哲学者ヒュパティアの死》より
《アレクサンドリアの哲学者ヒュパティアの死》より

 大半の人々は、キリスト教徒であろうがなかろうが、ヒュパティアの殺害を当人にはほとんど責任のない、悪意ある状況で勃発した、むごたらしい、いわれのない殺人とみなしていた。ペトロスとその一味のほかに、ヒュパティアが標的とされた理由を理解した者はごくわずかであった。そうした人々はむしろ、ローマ帝国の主要都市であるアレクサンドリアで、ヒュパティアのような哲学者を殺害するほどの激しい怒りを、キリスト教の指導者が多くの人々のなかに作り出したことに、深く衝撃を受けた。後期ローマ帝国の社会構造に生じたこの恐るべき亀裂は突如として、ローマ帝国のエリート層に属するいかなる人々も、公的生活にかかわればヒュパティアと同じように群衆の暴力の犠牲者になりうるのだと示唆した。ローマ人の生活がこれまで依存してきた、治安と帝国の統制という幻想は消え失せてしまったのではないかと、彼らはいまや恐れていた。

 この危険は、ヒュパティア殺害に対する人々のすばやい反応のあかしである。帝国全域のキリスト教徒は怒りを爆発させ、統制不可能な暴力を現実のものにした手口について、キュリロスとアレクサンドリアの教会をこぞって糾弾した。この暴力事件がキュリロス臨席でのできごとであったばかりか、ヒュパティアの殺害は明らかにオレステスの公的なキャリアに終止符を打ってしまったからである。アレクサンドリアの都市参事会の危機感は高まった。コンスタンティノポリスに使節を派遣してさらなる帝室の仲介を求めたほどである。14歳の皇帝テオドシウス2世さえも彼女の殺害の報にふるえあがったらしく、調査を命じたのだった。

 

【ヒュパティアについてのアニメーション解説動画:The murder of ancient Alexandria's greatest scholar - Soraya Field Fiorio】

 

 ヒュパティアの死はそれほど衝撃的で、それほどおそろしいものだったからこそ、彼女はたちまち、紀元後5世紀初頭には失われつつあったように思われる、社会がより円滑に機能していた旧き時代の象徴となった。つづく1600年を通して、散文作家、詩人、画家、映像作家、そして研究者ら幅広い人々が、ヒュパティアと彼女に代表された時代をときに寿ぎ、ときに弾劾した。彼女は魔女として名誉を剝奪されてきたが、フェミニスト・アイコンと目されることもあれば、殉教者として称揚されることもあった。彼女の死はアレクサンドリアにおける教会の腐敗の、またギリシア的理性の終焉の、そして宗教的原理主義の萌芽の象徴として用いられた。ヒュパティアの事例はもしかすると今こそこれまで以上に反響をもたらすものでもあろう。Google検索によれば、彼女は世界で最も有名な新プラトン主義哲学者であり、プラトン、ソクラテス、アリストテレス、ピュタゴラスにつづいて、ギリシア哲学者の人気第5位に入っている。キュリロスはカトリック教会、ギリシア正教会、コプト教会、シリア正教会では主要な神学者のひとりとして認識されるようになった人物だが、ヒュパティアの人気はそのキュリロスをはるかに凌いでいる。

【エドワード・J・ワッツ『ヒュパティア 後期ローマ帝国の女性知識人』(白水社)より】

『ヒュパティア 後期ローマ帝国の女性知識人』(白水社)目次より
『ヒュパティア 後期ローマ帝国の女性知識人』(白水社)目次より


【著者インタビュー動画:Edward J. Watts on the Fall of the Roman Empire】

 

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