橋本治さんの『草薙(くさなぎ)の剣』という、日本の戦後から二〇一〇年代までを庶民の側から精細に書かれた本を読んで、その時代の正確な実感は過ぎてみなければわからないとつくづく思っていた。自分が今生きている時代のことを考えるのは、利害がありすぎてバイアスがたくさんかかるためだ。今自分が損をしていたら、それは自分にとって悪い時代だとしか思えないし、得をしていたらきっといい時代だと言うだろう。もし自分が生きている時代について「お金はあんまりないけど気は楽な時代だよね」「自分は儲かってるけどそんなに今がいいとは思えない」などとたくさんの人が考えるのであれば、それはその時代の人が洗練されていて複雑なことを考えられることを意味すると思う。しかしまずは食べられるか食べられないかが大事で、時代を解釈することは二の次だ。それを否定するつもりはない。そういうものだと思う。
わたしが物心ついた小学校高学年ぐらいの時の世の中はバブル景気で、そこからの記憶がはっきりしている。とはいえ大金とは縁がない家の子だったので、その後の「バブルがはじけた」の意味などわからないまま十代が終わった。大金とは縁がない、と言っても、一九八七年に離婚した母親に勤め口がちゃんとあって子供二人を育てられるお給料をもらえたのは、バブルの恩恵なのかもしれないと今は思う。十代の初めの、何もかもがわけがわからないのだけど、もう年齢が二桁なのだしわけがわからないとも言っていられないという自我が芽生えてものすごく心細かった頃に声が大きかった記憶があるのは、金遣いが荒くて性的な逸脱を自慢する人たちだった。自分がそうなりたいとはまったく思わなかった。それからなんとか、わたしは大人になった。あの人たちはどこへ行ったのだろう。
たまにそういう人たちのことを思い出して、自分は粛々と働くだけだと決意を新たにする。今は、自分のそういう態度が自分より若い誰かをつらい気持ちにさせたりしていないかがとても気になる。=朝日新聞2018年3月26日掲載
編集部一押し!
- 朝宮運河のホラーワールド渉猟 空木春宵さん「感傷ファンタスマゴリィ」インタビュー 社会の痛みに向き合った幻想SF 朝宮運河
-
- 図鑑の中の小宇宙 「すごすぎる絵画の図鑑」 フェルメールの名画の黄色の正体は…… 岩本恵美
-
- 鴻巣友季子の文学潮流 鴻巣友季子の文学潮流(第13回) 「女性は存在しない」!? メイル・ゲイズ(男性の眼差し)を超えて 鴻巣友季子
- 新作映画、もっと楽しむ 映画「陰陽師0」奈緒さんインタビュー 平安時代の女王役「負の感情を『陽』に。自分の道は変えられる」 根津香菜子
- マンガ今昔物語 パッとしないが、実はすごいヤツ。令和の会社員像は 鍋倉夫「路傍のフジイ」(第143回) 伊藤和弘
- 本屋は生きている でこぼこ書店(埼玉) 本を介して人が集まり、学ぶ場所。元バスケ青年が始めた小さな挑戦 朴順梨
- インタビュー 新井紀子さん×山本康一さん対談(後編) 辞書は民主主義のよりどころ PR by 三省堂
- インタビュー 新井紀子さん×山本康一さん対談(前編) 「AI時代」の辞書の役割とは PR by 三省堂
- インタビュー 村山由佳さん「二人キリ」インタビュー 性愛の極北に至ったはみ出し者の純粋さに向き合う PR by 集英社
- 朝日ブックアカデミー 専門外の本を読もう 鈴木哲也・京大学術出版会編集長が語る「学術書の読み方」 PR by 京都大学学術出版会
- 朝日ブックアカデミー 獣医師の仕事に胸が熱く 藤岡陽子さんが語る執筆の舞台裏 「リラの花咲くけものみち」刊行記念トークイベント PR by 光文社
- 朝日ブックアカデミー 内なる読者を大切に 月村了衛さんが語る「作家とはなにか」 「半暮刻」刊行記念トークイベント PR by 双葉社