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古井由吉さん「この道」インタビュー 泰然と、老いに身を任せ

古井由吉さん=東京都文京区音羽の講談社、倉田貴志撮影

弱る体と日常 想起される記憶たち

 病人を見舞って帰る道のり、春を待ち、咲かない桜から、思いは空襲で焼けた東京の空へ。「春の寒気に苦しんで雑念はまた斜(はす)に跳ぶ」と書くとおり、想念は自在に移り変わる。「年寄りが話している最中、ふと言葉につまることがあるでしょう。それからまた話し始める。あの要領ですよ。すらすらとは書けなくなった。それで出てくるイメージや音律もある。自分が思ってもいなかったことがね。それが年を取ってものを書く楽しみと言えば楽しみかなあ。心細くもなりますけどね」。からりと笑う。
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 想念は空間だけでなく時間も自在に越えてゆく。雨の夕暮れの散歩から、過去の自身の大病、母や姉の死をへて、敗戦後の貧しさへとさかのぼってゆく「野の末」。一つ前の言葉が記憶を引きずり出してくる。東京の空襲と焼け野原は繰り返し作品に立ち現れる。
 「はじめから戦争を書こうと思っているわけではない。少年時代の怖い思いはなるべく思い出さないようにしていた。鮮明な記憶を持っていたら、生きられないですよ。幸い長生きしたおかげで、だんだんと出てくるようになった。年がゆくにつれて、子細な風景がね」
 「遠い過去か近い過去かは、はっきりとしなくなる。現在のことのように思って書いていることもある。ひとは対象化できることを思い出す。感覚に染みこんだものを思い出すのは危機ですよ。でもこの年になると危機もへったくれもない」。またひとつ大きく笑って、「毎日毎日、生きていることが危機だからね」。
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 天気や気温に左右されてままならない体。眠り、目覚める。それだけの描写で強く引き込まれる。「体が弱ってくるにつれて、ものの感じ方が受け身になる。一日の移りをこまやかに感じる」。都心を杖をついて歩く。その様子を表題作で、「雑踏の只中(ただなか)にありながらひとり、野の道をたどる心にもなる」と表現した。ユーモアでも大げさでもない、そのままなのだ。「人が自然とよけてゆく。周りに目を配れなくなる。街でひとりっきりですよ。ざわめきは雨が降っているようで、かえってくつろいで歩いていますよ」
 2011年の東日本大震災、昨夏の西日本豪雨。災害が続く現代の描写に、70年前の戦争が入り込む。「敗戦は大破局でみんなが打ちのめされた。そのうち経済成長に入り、人々は前のめりになる。70、80年代は災害も少なかった。忘れていた頃に、阪神大震災とオウム事件。そして東北の大震災。前のめりで行き詰まっている。そろそろ立ち止まるときでしょう。僕はちょうど老年に入ったから余計に、自分の過去と現在がつながっていないという気持ちがあるんですよ」

 書名は芭蕉の句から。「日本の古典はしのびこみやすい」と言い、今昔物語や古今和歌集などの古典を引用し、自身の解釈をちりばめた。原稿は何度も直すそうだ。「割と混乱が多いのです。時間の前後がおかしくなったり、同じことを繰り返したりするので、読みやすいように直します。その混乱も本当は直さない方がいいのかもしれない。でも書き直すとちょっと若返っているんじゃないかな」「日本の古典は一つの文章で過去と現在が往復するものが多い。物語でも短い歌でも。変化を一直線のものと感じないのが、日本語の本領かもしれないね」
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 作家に文学の未来はどう見えているのか。「日本で文学が栄えるのは、ひどい時代なんですよね。滅亡を前にして歌がさえる」。新古今和歌集に風雅集、万葉集……。ときに政治は乱れ、社会は混乱していた。
 「長い歴史を見ていると、文学はどうも必要なもののようですよ。社会が行き詰まったときを境に、また文学への欲求が出てくると思う。文学の生命は、東西の歴史を見る限りかなり強い。その点で僕は楽観的です」(中村真理子)=朝日新聞2019年2月6日掲載

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